翌日――
教室の片隅、ノートを閉じた如月瑠璃は、自分の胸の内に渦巻く“何か”の正体をまだ掴みきれずにいた。
(この程度、想定の範囲内……のはずだった)
九条怜奈の出現。
椎名詩織の静かな接近。
桐ヶ谷迅の周囲に、次々と現れる“変数”。
それらは最初、ただの観察対象だった。
彼女にとって迅は、ただの記録すべき存在だったはずだ。
だが――
「あなたのような“自称ヒロイン”とは違います」
昨日、そう言い放った自分の声が、今も胸に残っていた。
冷静に、論理的に。
そう振る舞っているつもりでも、怜奈が迅に絡むたびに、詩織が静かに距離を詰めるたびに、何かが胸の奥で、ざわりと動くのを感じていた。
(観察者としての立場を保てていない。データに、感情が混じる)
それが不快なのか、あるいは、今まで知らなかった種類の、奇妙な高揚感なのか。瑠璃自身にも、その答えはまだ見えなかった。
「……副会長」
廊下を歩いていたところで、背後から聞こえた声に立ち止まる。
振り返ると、そこには桐ヶ谷迅がいた。
(桐ヶ谷くん)
胸の奥が、ひとつ跳ねた。
「ちょっと、話がある」
「……はい。何でしょうか」
放課後の傾いた陽光が、校舎裏のベンチに長く影を落としていた。
人通りもまばらで、聞こえるのは時折吹く風の音と、遠くで聞こえる部活動の声だけ。
そんな静かな場所に、二人は並んで座っていた。
(……今日も怜奈の“イベント”に巻き込まれかけたが、なんとか逃げ切った。今だけは、静かだ)
迅は、珍しく自分から話を切り出した。
「……お前さ。俺のこと、前から見てただろ」
「…………」
「昨日も思ったけど、情報量が……普通じゃねぇ」
沈黙。だが、瑠璃は否定しなかった。
そして、静かに口を開いた。
「……中学の頃、助けられたことがあるんです。桐ヶ谷くんに」
「え?」
「覚えていないと思います。私、今とは髪型も雰囲気も違ったから……でも、あのとき助けてくれたことが、ずっと頭から離れなくて」
瑠璃は、感情を抑えたまま話す。
「それから、私は桐ヶ谷くんを観察し続けました。日常の行動、言動、表情、仲間との関係……全て記録して、分析して。その結果、あなたが“人を突き放せない性質”を持っていること、“争いを引き寄せながらも避けようとする”矛盾を抱えていること……理解したつもりでした」
「……つもり、か」
「ええ。でも、最近になって分かりました。私は――あなたを“記録”するだけじゃ、満足できなくなっていた」
視線が交わる。
瑠璃の眼差しは、今までのような無機質ではなかった。
「九条さんが、あなたと並んでいるのを見て、初めて……“焦り”という感情を覚えました。それが何なのか、私は――」
「……別に、今すぐ答え出さなくたっていいだろ。俺もよくわかんねぇし。」
迅が、ゆっくりと口を挟んだ。
その声には、責めるような色はなかった。
「俺が言いたいのはさ。……お前が俺を見てくれてたのは、別に嫌じゃねぇよ」
「……え?」
「なんだかんだで、俺のこと“ちゃんと見てた”やつって、あんまいなかったからさ」
瑠璃は、無言のままうつむいた。
胸の奥にあった“ノイズ”は、もう誤魔化せないほど大きくなっていた。
そのとき。
突然、校舎裏の静寂を切り裂くように、甘ったるい声が響いた。
「おやおやぁ〜〜?♡ これまた修羅場の匂いが♡」
迅は思わず顔を覆う。この声は、もはや恐怖に近い。
屋上と並ぶ“イベント乱入率No.1女”、九条怜奈が現れたのだ。
「副会長と迅先輩が、ふたりきりでベンチ座ってるとか!完全にシリアス告白フラグじゃないですか〜〜〜っ♡」
「……なんでお前、ここにいんだよ」
「ふふっ♡だって私、“全ルート監視中”ですから♡」
「……やばい女の発言なんだけど」
さらに、その後ろから現れるもうひとりの人影。
「……あの、たまたま通りかかっただけです。決して覗いてたとかじゃなくて……」
「椎名まで……!」
迅は叫びたいのを飲み込んだ。
両脇にヒロイン候補3人。
一人はすでに爆走済み。
一人は明らかに動揺中。
そしてもう一人は、静かに様子を伺ってる……たぶん、それが一番怖ぇ。
(……青春ってのは、どうしてこうも騒がしいんだよ。静かに暮らしたいだけなのに……)
ほんのわずかに口元が緩んでいることに、迅は自分でもまだ気づいていなかった。
すると、怜奈が急に言い出した。
「じゃあ、3人で勝負しませんか♡」
「……は?」
「迅先輩がどの“ヒロインを選ぶか”ゲーム♡観察者も、創作者も、もちろん私も、全員正々堂々っ♡」
「……そのゲーム、誰が得すんだよ」
怜奈は小さくウインクしながら、答えた。
「私♡」
迅の頭が痛くなった。
「…………椎名、なんとか言ってくれ」
詩織は微笑んだまま、小声で答えた。
「……すごく、いい資料になりそうで……」
「お前もか!!」
迅は大きく息を吐いた。
(……もはや、これが平穏ってやつなのか?)
夕焼けが赤く滲む空をぼんやりと見上げる。
背後では、相変わらず騒がしい声が途切れず響いている。
(――たぶん、もう静かな日常には戻れねぇんだろうな……)
諦めの中に、ほんのわずかに苦笑が滲む。
(……まぁ、慣れてきちまったのかもしれねぇけど)