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第6話 観察だけでは、届かないもの

 翌日――

 教室の片隅、ノートを閉じた如月瑠璃は、自分の胸の内に渦巻く“何か”の正体をまだ掴みきれずにいた。


 (この程度、想定の範囲内……のはずだった)


 九条怜奈の出現。

 椎名詩織の静かな接近。

 桐ヶ谷迅の周囲に、次々と現れる“変数”。


 それらは最初、ただの観察対象だった。

 彼女にとって迅は、ただの記録すべき存在だったはずだ。


 だが――


 「あなたのような“自称ヒロイン”とは違います」


 昨日、そう言い放った自分の声が、今も胸に残っていた。

 冷静に、論理的に。

 そう振る舞っているつもりでも、怜奈が迅に絡むたびに、詩織が静かに距離を詰めるたびに、何かが胸の奥で、ざわりと動くのを感じていた。


(観察者としての立場を保てていない。データに、感情が混じる)


 それが不快なのか、あるいは、今まで知らなかった種類の、奇妙な高揚感なのか。瑠璃自身にも、その答えはまだ見えなかった。


 「……副会長」


 廊下を歩いていたところで、背後から聞こえた声に立ち止まる。

 振り返ると、そこには桐ヶ谷迅がいた。


 (桐ヶ谷くん)


 胸の奥が、ひとつ跳ねた。


 「ちょっと、話がある」


 「……はい。何でしょうか」


 放課後の傾いた陽光が、校舎裏のベンチに長く影を落としていた。

 人通りもまばらで、聞こえるのは時折吹く風の音と、遠くで聞こえる部活動の声だけ。

 そんな静かな場所に、二人は並んで座っていた。


 (……今日も怜奈の“イベント”に巻き込まれかけたが、なんとか逃げ切った。今だけは、静かだ)


 迅は、珍しく自分から話を切り出した。


 「……お前さ。俺のこと、前から見てただろ」


 「…………」


 「昨日も思ったけど、情報量が……普通じゃねぇ」


 沈黙。だが、瑠璃は否定しなかった。

 そして、静かに口を開いた。


 「……中学の頃、助けられたことがあるんです。桐ヶ谷くんに」


 「え?」


 「覚えていないと思います。私、今とは髪型も雰囲気も違ったから……でも、あのとき助けてくれたことが、ずっと頭から離れなくて」


 瑠璃は、感情を抑えたまま話す。


 「それから、私は桐ヶ谷くんを観察し続けました。日常の行動、言動、表情、仲間との関係……全て記録して、分析して。その結果、あなたが“人を突き放せない性質”を持っていること、“争いを引き寄せながらも避けようとする”矛盾を抱えていること……理解したつもりでした」


 「……つもり、か」


 「ええ。でも、最近になって分かりました。私は――あなたを“記録”するだけじゃ、満足できなくなっていた」


 視線が交わる。

 瑠璃の眼差しは、今までのような無機質ではなかった。


 「九条さんが、あなたと並んでいるのを見て、初めて……“焦り”という感情を覚えました。それが何なのか、私は――」


 「……別に、今すぐ答え出さなくたっていいだろ。俺もよくわかんねぇし。」


 迅が、ゆっくりと口を挟んだ。

 その声には、責めるような色はなかった。


 「俺が言いたいのはさ。……お前が俺を見てくれてたのは、別に嫌じゃねぇよ」


 「……え?」


 「なんだかんだで、俺のこと“ちゃんと見てた”やつって、あんまいなかったからさ」


 瑠璃は、無言のままうつむいた。

 胸の奥にあった“ノイズ”は、もう誤魔化せないほど大きくなっていた。


 そのとき。

 突然、校舎裏の静寂を切り裂くように、甘ったるい声が響いた。


 「おやおやぁ〜〜?♡ これまた修羅場の匂いが♡」


 迅は思わず顔を覆う。この声は、もはや恐怖に近い。

 屋上と並ぶ“イベント乱入率No.1女”、九条怜奈が現れたのだ。


 「副会長と迅先輩が、ふたりきりでベンチ座ってるとか!完全にシリアス告白フラグじゃないですか〜〜〜っ♡」


 「……なんでお前、ここにいんだよ」


 「ふふっ♡だって私、“全ルート監視中”ですから♡」


 「……やばい女の発言なんだけど」


 さらに、その後ろから現れるもうひとりの人影。


 「……あの、たまたま通りかかっただけです。決して覗いてたとかじゃなくて……」


 「椎名まで……!」


 迅は叫びたいのを飲み込んだ。


 両脇にヒロイン候補3人。

 一人はすでに爆走済み。

 一人は明らかに動揺中。

 そしてもう一人は、静かに様子を伺ってる……たぶん、それが一番怖ぇ。


 (……青春ってのは、どうしてこうも騒がしいんだよ。静かに暮らしたいだけなのに……)


 ほんのわずかに口元が緩んでいることに、迅は自分でもまだ気づいていなかった。


 すると、怜奈が急に言い出した。


 「じゃあ、3人で勝負しませんか♡」


 「……は?」


 「迅先輩がどの“ヒロインを選ぶか”ゲーム♡観察者も、創作者も、もちろん私も、全員正々堂々っ♡」


 「……そのゲーム、誰が得すんだよ」


 怜奈は小さくウインクしながら、答えた。


 「私♡」


 迅の頭が痛くなった。


 「…………椎名、なんとか言ってくれ」


 詩織は微笑んだまま、小声で答えた。


 「……すごく、いい資料になりそうで……」


 「お前もか!!」


 迅は大きく息を吐いた。


 (……もはや、これが平穏ってやつなのか?)


 夕焼けが赤く滲む空をぼんやりと見上げる。

 背後では、相変わらず騒がしい声が途切れず響いている。


 (――たぶん、もう静かな日常には戻れねぇんだろうな……)


 諦めの中に、ほんのわずかに苦笑が滲む。


 (……まぁ、慣れてきちまったのかもしれねぇけど)


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