木々がざわめき至るところの木が魔王を追いかけ始める。木を蹴っていたシャネアは逆に襲われることはなく、寧ろ避けられていた。
許した訳では無い。ただ単に力で敵わない相手だと本能で悟り、狙いやすい魔王だけを狙っているのだ。
力量で言えば実際魔王もなかなか。だがこうして襲われているのは、
彼が人の姿であり力を出していない。
犬だと馬鹿にされている。
そもそも魔王たる者が人と共に歩いているはずがない。
この3つの理由からである。無論魔王が本気を出してしまえばいい話ではあるが、【
大袈裟にも見えるくらいに腕を振り大地を蹴り周囲をぐるぐると走り続ける魔王。ほぼ同じ速さで猛追するトレント。肝心の勇者は、襲われないことをいいことに、争いが起きているのなんて知ったことでは無いとばかりに適当に土を盛って、鞘に入れた剣を抱くようにして眠りにつこうとしていた。
「いや相方が襲われとるのに寝る普通!?」
「……」
「え、無視!? 無視しよった!? 助けるとかないんこいつ!? 人の心ないん!?」
「……ぐぅ」
「ほんまに寝よったわ!?」
日が明けたらきっと解決してる。そんな思いを乗せてシャネアは夢の世界へと身を投げ……。
「起きんかぁぁ! お前最強なんやろぉぉ! 助けろぉぉ!」
シャネアは夢の世界へと身を……。
「起きろこのクソガキがぁぁ! お前は最強じゃなくて最弱なんか!! 困ってるやつが目の前におるのに助けへんのかこの最弱勇者ぁぁぁ!」
「……聞き捨てならぬな。仕方ない……本気を出すとしよう」
必死にトレントから逃げるように走りつつ叫ぶグリフェノルの言葉に、むくりと起き上がった勇者は僅かに眉間に皺を寄せていた。といってもパッと見ではわからないが。
体に着いた土を手で払ってから、
「えい」
そして走り回るトレントに近づいた少女はタイミング良く枝を振り下ろす。見事的中した攻撃は
あまりにも弱すぎる攻撃に一同がピタリと動きを止め、一瞬だけ沈黙となんとも言えない空気が流れる。
変な空気に振り返った魔王は動きが固まってるトレントとシャネアを何度も見て、その空気を切り裂くように口を開いた。
「な、何がしたいんやシャネア!? ていうか昨日の強さとか、最強だし? とか自信満々に言ってたのはどないしたん!?」
「だって面倒だし。どやぁ」
「どやぁちゃう! そこ自信持つとこちゃう! ああもうトレント動き始めよった!」
折れた枝を捨てて腰に手を当てるとなぜか自信満々なドヤ顔を決めるシャネア。直後トレントが再び動き始め再び魔王を追いかけ始める。
先程弱さを示したシャネアには、やはり魔の手は伸びてこない。たとえ弱い攻撃でも少女から感じる力は誤魔化しきれていないのだ。
とはいえ自分が襲われないのならばと、もう魔王を助けたんだからと、助ける役目を放棄して再び眠りにつこうとする。
もちろん魔王はそれを許すことはなく走りながら足元にあった石ころを手に取って「おいこらぁぁぁ!」という叫びとともに少女へとぶん投げる。
吸い込まれるようにシャネアの頭に当たり、小さな悲鳴が漏れでる。むぅ……と石を投げられたことに不満を抱き魔王を睨む――表情筋が働いていないため魔王からだとそうは見えないのだが――と、やれやれと言わんばかりに首を振った。
「はぁ、仕方ないなぁ……継承【
不満そうな少女が唱えたのは魔王グリフェノルの固有魔法【
だが固有魔法という名の通り、それはグリフェノルにしか使えない魔法。その人や魔族が生まれ持った固有魔法を第三者が使う事例など今まで存在せず不可能とすら言われていた。
だからこそ誰しもがその詠唱はハッタリだと無意識に思いこみ、驚きはしたが見向きはしない。
しかし想定外のことが起きる。シャネアの華奢で小さな身体が不気味に盛り上がり、うちに秘めていた何かが殻を破るように肉が裂け分裂し始めたのだ。
加えて背筋が凍りつくような異様な気配がその場に立ち込み、どこからか黒く染まった霧が漂い始める。
霧の正体は人の身に悪影響を及ぼす瘴気。大量の魔力が周囲に溢れたのが原因であり、その大元、つまり発生源は悲鳴もなく身体の形を変えていくシャネアである。
一体少女は何者なのか。そしてどこにそんな魔力を溜め込み、なぜ他者の固有魔法を使えるのか。この一瞬だけで様々な疑問が脳裏を横切るものの、第一に感じ取れるのは、今この瞬間からこの場所は地獄と化すということだ。
逃げなければ間違いなく巻き添えになる。そんな気がした魔王は速やかにその場から遠のこうとするが少女の変化から目が離せず足が動かない。
それは数体のトレントも同様だ。
魔王がごくりと生唾を飲み込んだ刹那、シャネアの変わり果てた身体からシュゥゥと煙が吹き出て、変化が終わったことを感じ取る。
「い、一体なんなんや……どうなってるんや……」
目を点にさせた魔王が声を震わせ見上げる。大きくなったシャネアの身体は、4足で漆黒の毛皮を纏い、獰猛そうな犬の頭が3つも生え少女の身体の面影は一切無くなっていた。周囲は熱気により揺らいでおり、それは離れている魔王にも伝わるほどの熱さである。
見続けるほどそれから感じる恐怖は異常であり、魔王ですら足がすくんで言葉を失っている。
ドスンと地団駄を踏み一吠えした途端、固まっていたトレントはそそくさと森の中へと消えていった。
3頭の耳を使い他にもトレントがいないことを察知するとゆっくりとグリフェノルへと顔を動かし、野太く低い声で少女は言った。
「グリブル、これがケルベロスだよ。通称地獄の門番。かっこいいでしょ。どやぁ」
「は……はは……こりゃあ……敵わんわ……」
目を見開き仰天したまま漸く口に出せた言葉はそれだけだった。
今まで魔王として数多くの村や街を支配し、ある時は壊滅させて、その度に立ち向かう者を容赦なく捻り潰していたグリフェノルだが、本能的に自分よりも強いと感じたのはこれが初めて。
それほどまでに強いのならば先日の戦闘で傷1つつかなかったことも納得してしまうほどだ。
「ところでこれどうやって戻るの?」
「いつも無意識やからな……」
「無意識?」
「説明すんのムズいやろが……そうだな、例えばさっき足を動かした時どうやって動かしたかわかるか?」
「……どうやって……こうやって?」
と獣足を動かしてみるが、魔王が言いたいのはそういうことではなく、深く息を吐いた魔王。
普通できないようなことを平然とやってのけたのになんでわからないのかといいだけに、驚いた心を落ち着かせて視線を送る。
「なんでわからんの……我が言いたいのは感覚だからどうしろってのは知らんってことや」
「うむ、ならば……戻れゴマ〜……ダメかぁ」
地獄の門番になったのはいいものの、戻り方が分からずにいた少女は、頭に浮かんだ言葉をゆったりと言い放つ。無論少女の世界では通用していたかもしれないヘンテコな呪文はこの世界では役に立つことはない。
「一体どんな詠唱やねん! そんなんで戻ったら苦労せぇへんわ! ……にしてもほんまどういうことなんや? 我の固有魔法をいとも簡単に使うなんて」
「私の固有魔法【
シャネアの固有魔法【
ただし継承は1日に1回という制限はあるもののデメリットは一切ない。たとえそれが今回のように自身の姿かたちを変えるものだとしても、少女の体に異常をきたすこともない。つまり契約者次第では固有魔法以外の魔法を使えないという代償は無意味になるのだ。余談だが先日の魔王との戦いで姿を消したのはただ単に動きが速かったというわけではなく、滅多に姿を見せることのない【
そんな詳細までは少女の口から出ることはなかったが、それでも自分の手の内を明らかにしたのは確か。普通ならばいかなる関係であれ敵ならば手の内を明かすのは危険極まりない。しかし命を狙おうものなら自身の命すら危うくなるのが彼らの契約なのだから支障など一切ないと思ってのことだろう。
とはいえ先程のを見せられてシャネアの息の根を止めにかかる勇気など、グリフェノルにはないのだが。
しばらく【
「おお……戻れt――ひっさつめつぶし」
「ギャァァァッ! 何すんねァァァァァ!」
「乙女の裸は見るな変態」
「不可抗力やぁぁぁぁぁ!」
結局なにがどうして戻れたのかは分からなかったが、人の状態になってから服を纏っていないことに気づくや否や、目を見開いてすぐさま左手で大事なところを隠す。間髪入れずに魔王の目を右手の人差し指と中指で突き刺し、彼の視界を物理的に奪った。突然の痛みに魔王はその場に倒れこみ叫びながら目を手で押さえて暴れる。
そんな魔王は眼中にないのか、彼の視界を遮断させたのはいいものの周囲を見渡すシャネア。周りにあるのは木と葉だけで服の代わりとなるものは見つかりそうもなかった。どうしようかと悩むと近くに身を隠せるものがまだあることに気づく。それは足掻くように暴れる魔王が身につけていた炎を彷彿とさせるまばらな縁がある黒いマントだ。大きさ的にも少女の体を隠すのには丁度良く、すぐさま強引に脱がせてそれを羽織った。
「これでよし」
「これでよし。ちゃうわボケェェェ!!!」
一旦身体を隠せたシャネアは乏しい感情で渾身のキメ顔を浮かべて一安心していた。一方でグリフェノルは自慢のマントを強引に取られ、今だ両目のダメージが響いており暴れている。なんとも不憫な彼は怒りで叫ぶことしかできなかった。