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ソメイヨシノと執事とわたし
ソメイヨシノと執事とわたし
煙 亜月
恋愛現代恋愛
2025年05月31日
公開日
9,392字
完結済
「わたしの執事にならない? つまりその、召使いっていうか、下僕っていうか」 強盗に入った家の母親を殺したばかりの一人娘に論破、使役される20代男の物語———。

第1話

 ——きゅ。

 実際は音もなく適度なトルク感で摺動するのだが、寒さに縮こまった冬の身体を熱いシャワーでほぐすのだ、最後にコックを締める時くらいメリハリのある音や感触ががあってもよかろう。

 わたしはヘアパックを施した髪をソフトクリームのようにタオルで包んで巻き付け、そのタオルの端が顔に触れさせないよう注意しつつ、浴室の扉を開けて脱衣所へ出る。


 知らない男がいた。

 わたしはいう。


「あ、ねえあなた、わたしの執事にならない? つまり、その、召使いっていうか、下僕っていうか」

 知らない男——ダークスーツにダークグレーのコートを着込み、濃緑のマフラーを巻き付け、黒い革靴を履き、両手にはめた黒のレザーグローブには短いナイフとライトを握った男——は、一瞬の虚を突かれつつもナイフを構え直す。死にかけのセミのような吃音を発する。ようやく「——さ、騒ぐな、お、脅しじゃないぞ。し、し、死にたくなかったら」と、脅した。


「だから、わたし死にたくないから。そんなことひとこともいってないから。ふつうにお話ししましょう? あなたも無益な殺生、リスキーでしょ。そこで提案してるのよ、わたしは。ねえあなた、わたしに雇われてくれない?」と、わたしは背を向けバスタオルで身体を拭き、おだやかな口調で話す。


「パジャマ取るからそっち向くけど、いい?」

 わたしは身体を拭き終えたバスタオルをハンガーにかけ、かごの着替えを取る。「おっ、わっ、見、俺、見てない、からっ」男は大いに照れたのか、背中を向けて縮こまってしまう。


「はいはい、分かったから。あのさ、そこの戸、閉めてくんない? せっかく暖房してんのに冷気が入るのよ」と指示する。男は従う。さんきゅ、とわたしは背中越しにいった。


「あ、あんた」

「それくらい分かるわよ、今がどういう状況で、自分が刺されるか乱暴されるかもしれないっていう程度は。でもね、残念。この家はとある古武術の一派一流を築く血筋なの。そんな肥後守、わたしにとってなんの効力もないわ——っていうとたいていの道場破りは刺し違えたり歯で食いちぎったりする覚悟で挑んでくるらしいのよね、昔の話だけど。そうなるとわたしも無傷では済まない。だから、ここでは停戦交渉を結びましょう、ってこと。わかるかな?」


 男もさすがに戦意喪失したのか、面倒くさいと思ったのか、先ほど自分で閉めた脱衣所から廊下へ向かう戸へ走ろうとする。「無駄よ」

「えっ?」

「ああもう。だってあなた、わたしのうちに入ったじゃない。金持ちそうに見えたんでしょ? ホームセキュリティに加入するお金、なさそうに見える?」


「じゃっ、じゃあなんであんた、俺をかばうんだ。い、意味分かんねえ」

 脱衣所の暖房も再び効いてきて、男の眼鏡が曇り始める。


「あはは、分かるわ、眼鏡っ子って冬はつらいのよね。曇り止め塗ってもすぐ結露するし。ああ、つまりその、わたし裸眼だとなんにも見えてないからね。まあでも、素人の太刀筋くらいは見えるけど。でもあなたの人相まではわからない。マスクしてるし」


 そこの赤い眼鏡とって、とわたしがいうとやはり男は素直に渡した。

「ありがと。やっぱりあなた、強盗は向いてないわよ。わたしに仕えるのがいいって。あなた、甲斐甲斐しい感じするし」


 男は眼鏡を外し、棚からティッシュを取ってレンズを拭きながら「だ、だから、なんで俺が——そ、そんなラノベみたいなことになるんだよ」と苦情を申し立てる。「あれ、見えなかったの? ほら、そこから、見て、ここ、ずっと——血が点々と垂れてるでしょ」わたしは床を指し示す。


 男は少し顎を引き「お、女の子の日なのか」と、しごく真っ当だが、状況からいってこの場にたいへん似つかわしくない質問を投げかける。パジャマ姿で化粧水や美容液、乳液をタップする手を止めてけらけらと笑ってしまう。「な、なにがおかしい。っていうか笑いすぎじゃないか? お、俺も一応、強盗なんだぞ」


「一応もなにも——あなた、強盗じゃないじゃない、未遂——っていうか、あなたは善良なる市民なのよね。今日あなたはうちに面接に来た。わたしの家に執事として雇ってもらおうとしてね。でも、ほんとになにかを盗んじゃったり、ここでわたしを殺しちゃったりすると——わたしが母を殺した嫌疑も当然、かかってくるでしょうね」


 もし男が後ろから刺してきても、シャンプードレッサーの三面鏡で刃筋も見える。やろうと思えばタオル一枚で返り討ちにできる。わたしは手にI字剃刀を隠し持つ。


「はあ? お、親を殺したって、な、なんだよそれ。俺、知らねえ、なにも見てないから、帰る。俺、か、帰る、帰りたい!」

 男は後ずさりしながら、恐怖に固まった眼差しをわたしに向ける。ナイフもライトもごとりと床に落ちる。わたしは立ち上がり、男へゆっくり近づく。


「無駄よ、無駄。ぜんぶ無駄。この家にだっていくつもの監視カメラがあるし、そろそろ警備員も来る。あなたがもし仮に自分の利益だけを優先しようものなら、わたしは全力であなたへ母親殺しの罪を着せる。わたしがママを殺したのは——その、なんていうか、昔から苦手だったんだよね、ママのこと。今日も学校からの帰りが遅いってあんまりにヒステリックにいうもんだから、つい、カッとなって。でもね、遅かれ早かれそうなるべきだったのよ、わたしたち母娘は」

 そういってわたしは手の内に隠したI字剃刀をすっと出し、男の頬にあてがう。


「手首の動脈って、皮膚から一㎝も奥にあるんですってね。だから頚動脈ならもっと深いところに——と思われがちだけど、実は五㎜程度の浅い血管よ。血管自体は一㎝もある太い血管だけど。だから、こんな剃刀でも切れるの。それとも——ふつうに髭、剃ってあげようか?」


 男の頬を剃刀で撫でまわしながら、襟元から胸が少しだけ見えるように上目遣いをする。

「く、狂ってる——あんた、狂ってるとしかいいようがない。じゃ、じゃあ、今、風呂で返り血流してたのかよ」と目に涙を浮かべながら男はいう。


「当たり前じゃない」わたしは男に背を向け、洗面台の椅子にすとんと座る。「この寒いなか川で流せっていうの? いまどき禊なんて流行らないわよ。


 ——それにしても、人間の身体ってすごい量の血が入ってるのよね。わたしびっくりしちゃった。

 ともあれ、母とはふたり暮らしだったし、そうそう短期間にすべてが露呈するもんでもないと思うし。もしどこかからぼろが出そうになっても、あなたはわたしのいう通りにすればいいの。あなたが——今より早い時間に面接に来たってことにしてくれれば、面接をしたのはわたしではなく、母。あなたは母を殺す動機もないし、わたしも学校に行ってたからアリバイが作れる。たとえば、そうね、母はひとりのときに死んだことにすれば、誰も疑われることもないわね。あなたが家に入った合理性も立証できる。そう、すべてよ。ふたりの罪も、すべて隠蔽できる。ぜんぶぜんぶ、なかったことになる。


 ホームセキュリティにしたって、わたしが誤作動だって警備員に説明して、あなたもママを埋めるのを手伝って、何日かして心配そうな、不安そうな顔してわたしが交番に行方不明者の届を出す。わたしたちね、今お互いの利害が完全に一致してるのよ。ね、かんたんでしょ、執事さん?」


 男は顔を完全に弛緩させ、その無表情のまま壁に寄り掛かかる。自分が生きているうちに抗うべきものがあっても、結局はなにひとつできやしないのだ、そんな事実を悟った人間の顔だ。それを見たわたしは、

「じゃ、採用だから。よろしくね」

 と、心の底からの笑みを浮かべた。


 よいではないか、花嫁修業の一環だと思えば。たまにはこの男にご飯でも作ってあげよう。週に五日か六日くらいは男が作ってくれるはずだ。母がご飯を作れなくなったのだから、ちょうどいい。


(続)

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