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第2話


 ある晴れた朝。音楽——今日はグリーグの『ペール・ギュント』——を流しながらドレッサーの三面鏡の前に座る。

「美波ー。おーい、美波? ああもう、小坂美波!」

 限りなく黒に近い紺のスリーピースの男が現れる。走るでもなく歩くでもなく、流麗な動きというべきか、ジャケットを脱いだその男はわたしの前で辞儀をする。柔らかな目のまま尋ねる。


「お呼びでしょうか、お嬢様」ジレの背中部分、つまりジャケットの裏地部分は表地よりは明るい青で、汗染みひとつない。

「呼んだから呼んだんでしょ——ん? いまわたし日本語おかしい?」

 わたしはドレッサーの前で顔を作りながら鏡の奥の男——小坂に頬笑む。

「滅相な。当たり前すぎて当たり前すぎます。わたしがもっと早く気づくべきでした」


 小坂美波は、当家の執事である。

 メイク動画で仕込んだ知識であれこれと試行錯誤を重ねるのはこの家の当主、わたしだ。とはいえ時代は令和、執事だの当主だのというのは名誉職、というか設定であって、平たくいうなら同棲中のコスプレイヤーだ。


「美波」

「はい」

「もう、『はい』じゃないでしょ。わたしが大学卒業して、それで状況によっては『おう』って応えるところでしょ?」

「は、申し訳ございません。高校生時代のお嬢様のお姿があまりにその、衝撃的でして」

 わたしはティントリップをしまい、脂取紙で余分なリップを取る。前歯に付いたリップも落とす。アップにしていた髪を下ろす。さしたる理由はないが、高校生の頃からずっと伸ばしていたら腰まで届くようになった。そろそろ抗がん剤の副作用とたたかう人びとにヘアドネーションでもしようか。三、四人分のウィッグが作れるはずだ。


 アレンジ方法を考える。てきとうでいいか。後ろに引き詰める。戦国時代の女武将のように。

「お嬢様」

「ん?」

「申し上げにくいのですが本日、朝食はお嬢様の当番です」

「ん」

 しまったな。セメスターのはじまりだからとメイクに気合が入りすぎたようだ。


「ああ、その、美波さんよ」

「ひとつ貸し、でございますね。フレンチトーストとお砂糖抜きのカフェオレ、ピカタ、キウイヨーグルトならご用意できます」

「ああ——あんたって完璧よね。初めて会った時なんかもう最高に面白かったのに。わたしまだあの防犯カメラの映像、落ち込んだ時とかに観て馬鹿笑いしてんのにさ」


 小坂は、わたしが高校生のころに我が家へ押し入った強盗だ。しかしながらもわたしが徹底的に論破し、未遂どころか客人として扱い、さらには秘密とアリバイを相互に担保するというちょっと普通でない間柄に仕立て上げ、今日までに至った。まだふたりは雇い主と執事だが、その関係がこの先どれほど続くかは分からない。だが、当時二〇代の彼も三十路だ。十七だったわたしももう二十歳。小坂がここへ来て三年以上になるのだ。


 そしてもう二年弱経過し、わたしが就活に失敗し、さらに院試にも落ちたら世間様は同棲中のコスプレイヤーとして見るだろう、とわたしは読んでいる。もっとも、小坂の方がなにやら忠誠心を抱いて本心からわたしへ仕えているのは読み違いだったが。


「いただきます」

 フレンチトースト、コーヒー、ピカタ、ヨーグルト。完全に好みを掌握している。

「でも、なんかねえ」

「はい、なんでしょう」

「カロリー的にアレじゃない?」

「七訂、と少し古いのですが食品成分表とお嬢様の年代の基礎代謝量から」

「違う、そうじゃない」

「と、申しますと」

「ピカタ半分あげるから、一緒に食べよ?」

「お口に合いませんでしたか?」

「うんにゃ。滅法うまい。だから、その、一緒に食べるべきなのよ、ママも作ってくれた人に感謝を込めなさいっていってたし」


 小坂はわたしの右斜め前に掛ける。

「珍しいですね」


 カウンセリングの基本、九〇度法である。わたしは右利きなので小坂は正しい。その位置取りが意図したものなのか、あるいは別な意味がないのかは分からないが。

「なにが」

「お母様のことをお話しされるのは」眼鏡の奥、小坂は目で微笑む。

 わたしは黙りこくってテーブルを睨めつける。無音のため息をひとつつく。心のなかで舌打ちをする。

「うん、ゆっくり食べたからお腹いっぱいなったかも。美波、悪いけどあとはもう片付けて。バス、今日は一本早めるから。じゃ、ごちそうさまでした」


 わたしは頭の中のざわざわした感覚が嫌悪感なのか、それとも悔恨の念なのか判然としないまま食卓を立った。置いた箸の一本が床に落ちる。「あ、ごめん、拾っといて」

 広い玄関へとゆく。

「帰り、遅くなるかもしれないから、あなたはてきとうに食べて寝ててね」そういい残しドアを閉める。


 ——くそみたいなキャンパス。ろくでもない連中。取るに足らない講義。そんなものを真面目に見たり聞いたりをする場所。でも、「そんなもの」しか出さないような大学とか、レストランとか、ホテルの客室にしか行けないのはひとえに自分のせいである。


 くさくさした気分で電車を降り、バスを待つ。小坂美波と携帯電話でのつながりを一切禁じたのはわたしだ。一つ屋根の下、泊まり込みの執事。家事も完璧にこなすし、顔もまあ、いい。実際かなり都合のよい男だが、まだ今以上の関係には入らせないでいた。


 季節も少しずつ春めいてきた。帰りも明るい。それでも小坂は門灯から玄関までずっと灯りを灯してくれている。ただ点けたり消したりが面倒なわけではない。点けっぱなしではなく、夕方から早朝までと決まって点けているのだ。そう、いつも、いつでも、わたしを待っている。理由? ——分からない。


 三年の月日は長いが、分からないことの方が多い。なぜ彼は夜遊びなどに出ないのか。なぜ彼はわたしに手を出そうとしないのか。なぜ彼はここから逃げないのか。他にも分からないことはごまんとあるが、若く健康な小坂ならもっと楽しいことにだって首を突っ込んでもいいはずなのに、それを一切しようともしない。


 わたしは高校生の時、ママを殺した。夢は今でも見る。なにか、なにをいわれたかも覚えていないがとにかく癇に障るようなこと、学校の帰りが遅いことにかこつけて交友関係にも文句をいったり、あるいは成績のことで注意を受けたり、そんなことが積み重なったと思ったらわたしは大きな花瓶を振りかざし、母の後頭部を殴りつけた。花瓶の口部分を持ち、自分の手を切らないよう倒れた母の頚動脈だけを狙ってざくざくと、何度も何度もざくざくと切りつけた。血圧がどんどん低下し、噴水のようだった出血も次第にただ流れるだけになった。母の最期の言葉は、『ごめんね、ありがとう、気をつけて』。


 何度も何度も夢に母は出た。

 そのたびにわたしは小坂の顔——おびえた顔、執事としての凛々しくて、優しい顔を思い出し打ち消そうともがいた。庭の隅を夜中に掘らせ、ただでさえ長毛で重いのに血を吸ってさらに重くなった絨毯でくるむようにして母を埋めさせた。夢に出るのは、元気に家事をする真っ白な顔の母。首から噴き出る血、よい点数を取ると必ずほめ、遊びがすぎて帰りが遅くなると玄関で長々と説教を始める母。


『ごめんね、ありがとう、気をつけて』。わたしも自らの最期、本当に大切なひとにはそういうのかもしれない。

 シャワーでその返り血を流し、脱衣場に戻るとナイフを握って震える強盗——小坂がいた。わたしは彼を舌先三寸で丸め込み、お互いの秘密を握り合う関係となった。


 ママのことは、恨んではいない。でも、殺すことは望んでいた。

 わたしは強盗に入った美波のアリバイ作りや不法侵入を不問にする前提条件として、一緒にママを埋めた。その後、弁の立つわたしが口八丁手八丁で使っている。


「ああっ!」

 自分の、暗い部屋。「くそ」この夢を何度も何度もみる。最近とみに多くなってきた。

 講義中に居眠りをして、今日はその夢で起きた。退出を命じられ、泣きながら講義室を出た。

 ぐずぐずの日だ。門扉を開く。


(続)

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