「こ——さか?」
知らず知らずのうちに左前の半身になって近づく。少し膝を屈め、腰を落とす。喧嘩の経験はないけれど、家は古武道の名家である。訓練はしてきた。
「あ、お嬢様、お帰りなさいませ」
「んな呑気に——こんな時間になにやってんの?」
「ええ、なんと申しますか、庭師がいないのでガーデニングの真似事を少々」
彼がいたのは、母親の——。
「き、貴様ッ! そ、そこをどけッ! そこは、マ、ママの——」
二の句が継げない。
「お嬢様?」
「うるさい——うるさい! 黙れ! この、下郎、なに勝手にひとの、——お墓、いじってんの。そこがどれだけ大事な場所か分かってんの! わたしの、わたしの——」
小坂は立ち上がり、手についた泥をはたき落とす。
「存じております」
「存じ——って、はあ? 信じらんねえ。嘘、そんなの、嘘よ。嘘に決まってる! あんた、同じことされて平気でいられんの? まじで意味わかんねえ。あんた、そこに——なにをしたのさ」
小坂はわたしに近づく。
わたしは後ずさりしつつ、涙で視界が悪いことがこんなにも不利にはたらくのかと、歯を食いしばる。
「ここに、かつてのお嬢様を埋めます。いえ、すでに埋めました、というべきでしょうか。——芳乃、國米芳乃お嬢様。今わたしが植えたのは、ソメイヨシノです。
これ以上のことを語る資格は、自分にはもはやありません。出てゆけとおっしゃるなら、出てゆきます。飯を炊けとおっしゃるなら、炊きます。ただ、お母様に花を手向けたり手を合わせたりすることが立場上、一切できないお嬢様の苦しみはいつも感じていました。強く、ひしひしと感じています。それも毎日です——お嬢様と、同じように」
わたしは眼鏡を外して涙を拭こうとする。
「なりません!」鋭くいう。「なぜならお嬢様、わたしたちの手は、もうこんなに汚れているんですから」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
わたしはぐしゃぐしゃになって涙も鼻水も流れるままにした。
「こう、するんですよ」
驚くより先に小坂の手が自分の背中に回された。
彼のジレは汗ばんでおり、この汗でわたしの母親のために尽くしてくれたことに気づく。彼の、三年間も一緒にいた男の初めての抱擁はこんなにも優しかったというのか。ふわ、と男の匂いがする。
『芳乃、お誕生日おめでとう」』『芳乃は転んでも泣かないのね、えらいね」「芳乃、テストで一位だったんだね。よく頑張ったね」「芳乃、怪我を見せて。お母さんがおまじないするから」「芳乃、ありがとう、ごめんね、気をつけて」
わたしは今まで、母のことを、母との楽しかった思い出を無視する義務があった。そうでもしないとわたしへの強烈な自己否定につながり、わたし自身への猛攻となるからだ。
小坂のいっていることに間違いはなかった。花も、感謝の言葉も、母へ対するほんのわずかな苦労も、すべてわたしはわたし自身に禁じていたのだ。
それらをいま、小坂が代わりにしてくれた。わたしが踏み出せない一歩を、小坂は代わりに三年間歩んでくれた。小坂にはわたしの母へ恩も義理もない。ただわたしへの優しさだけで歩んでくれた。
わたしがどれほど後悔していたのか知ったうえでともに過ごしてくれたのだ。
「お嬢様。あともう何年か経てば、この苗木にも小さな芽ができるでしょう。お母様への手向けの花が何年も、いえ、わたしたちが死したのち何十年にもわたって咲きます。わたしたちも永遠に地の底で生きていくわけにはいかないんです。咲かなきゃ、花は花にはなれない」
耳朶の充血を感じながら、わたしはそれを黙って聞いた。
その晩はお通夜といった食卓だった。料理はわたしの好物ばかり。小坂美波はやはり右斜め前に座り、食事を一緒にしてくれた。
「あの、ね。美波」
「なんでしょう、お嬢様」
「わたしの——そばにいて」
翌朝、小坂美波は跡形もなく消えていた。スリーピースのスーツも、靴も櫛も鞄も、何もかも。
そのほぼ直後、彼はわたしの母親殺しを「雇用されなかった逆恨みで殺し、死体は車ごと海に捨てた」として警察署に出頭したらしい。わたしの家にも何度も何度も刑事が来、そういう経緯を知ったのだ。連日のように被害者家族として聴取を受けた。わたしは自責の念で押しつぶされそうになりながらも耐えた。
わたしが母親殺しの罪を認めれば、小坂の強盗の事実が露呈する。わたしが拘留されていては、こうして三年前の防犯カメラの映像を削除することだって不可能となる。もちろん、小坂へ母親殺しの罪をなすりつける訳にはいかない。
結局、証拠不十分で送検もされなかった。事件として扱われることがなかった。つまり、捜査一課長の権限で立件ができない——事件自体なかったことにされたのだ。わたしの母は現在も、行方不明。
わたしは就活に失敗し、院試に落ちた。すべてカードで払っていた生活費も、このままでは底をつく。コンビニ店員をしながら、あの家の固定資産税がとんでもない額だということを知り、遠縁に譲渡するか、不動産屋に売却するかしないといけないのだと悟った。
わたしが二十五歳の誕生日を迎える日だった。ソメイヨシノは順調に伸びていた。
「ねえ、ママ」
あれからずいぶん伸びた枝には小さな、本当に小さな芽が出ていた。「わたし、やっぱ死のうかな。そうでもしないと責任、取れないよ。ママの枝で死にたかったけど、今はまだ折れちゃうね」
「それは」
聞き覚えのある声に、ばねのように振り向く。「それはいただけません、お嬢様」
門扉を開け、スリーピースを着こなした男が近づいてくる。
「いえ、ちょっと福祉サービスの事業が当たったんです。大当たりで。それで、しばらくここで空き部屋があれば借りようかと思ったのですが、その前に家主さんにご挨拶をと。あ、いや、だからって何をどうこうしたいわけじゃないんです。ただ、その、ふたりが対等な関係だったらどうなるのかな、なんて、その」
こんな小坂見たことがない。言葉をひとつずつ探しながら絞るように話す小坂は。
「どうなるのかな、決まってるでしょ」わたしは小坂へ両手を広げながら走り寄る。
「こうするんですよ、って教えてくれたのはあなたでしょ?」
頬を合わせ、きつく抱擁する。
「お嬢さ——芳乃さん、なんで僕に罪を着せなかったんです?」
「——わたし、ママを埋葬した夜も美波だけに汗かかせて、自分はママを見ることさえできなかった。でも、一生かけてでも、わたしがママに謝らなきゃいけない。それに、美波。わたしが警察に逮捕されたらあなたの方もいろんな罪がばれるじゃない。それに、不法侵入なんて殺人罪と比べたら——最初からあなたの方が優位だったのよ、この生活は。殺人罪をばらすって脅迫されたらわたしはなんだってしてたのに」
「芳乃さん、分かってます。あなたがお母様のことを隠蔽するのにかこつけて、僕の罪を大きく見せようとしていたのも。お母様のことと比べたらから僕なんて微罪も微罪。芳乃さんは本当のところ、僕におびえていた。だから僕はそうした関係が嫌だった。それで、耐えきれなくなって屋敷から逃げた。それから今度こそ、僕が殺人の罪を着ようと思った。でもあなたは黙っていた。もうどうにでもなれと始めた仕事が軌道に乗って、何もかも忘れてまっさらな人生を取り戻せるかもしれない、そう期待さえ抱いた。反面、そんな自分が嫌で嫌で。芳乃さん、あなたに謝りたかった。受け入れてくれるかさえ不安もあった。でも」
「美波」
「はい?」
「しゃべりすぎ!」
わたしはうんと背を伸ばし、彼の口を封じた。
『ソメイヨシノと執事とわたし』——了