本気で気づいていなかったらしい。事実、やわくなった地面のせいで最後は踏み込むことができなかった。
とはいえそれでもやりようはあるし、うまくいったから結果的にはよかった。
ごめんなさいごめんなさいと謝り倒すソニアを宥めていると、遠巻きから見ていたエクソシストたちが走り寄ってくる。
「ひどい怪我……! 見せて、すぐにベルちゃんが治すから!」
「なら先にソニアを頼む。脇腹をやられてた」
一瞥し、ソニアの背を押してベルチャーナに預けてから、イドラはもう一人のエクソシストに視線を移す。ミロウは、端正な顔をしかめ、感情の入り混じった複雑な目でイドラのことを見つめていた。
だが、物申したいのはこちらの方だ。あのガラス片もスクレイピーの一部だったのか、死ぬと同時に消え去ってくれたので、肩口の怪我をマイナスナイフを刺して治しながらイドラはややへそを曲げて言う。
「これで満足か? 僕は不死殺しだ。イモータルを殺す」
「……ええ。試すような真似をして、申し訳ございません」
「試すような、じゃなく、実際に試してるだろ。スクレイピーはちょうどいい試金石ってわけだ」
ミロウは言い返さない。そんな風に俯いて申し訳なさそうにされると、追及しづらくなる——イドラは肩を治し終え、手の届かない背中はどうしたものかと思いつつため息を吐く。
ぬぐえなかった不信感の正体はこれだ。つまるところ、葬送協会は、不死殺しを疑っていた。
スクレイピー討伐は言わば試験だ。不死殺しが、本当にイモータルを殺すことができるのか。協会の謳う葬送とは違い、存在そのものを停止させられるのか。
エクソシストという怪物退治のスペシャリストたちをそろえておきながら、イドラに依頼をすること自体が不思議ではあった。が、不死を殺すという唯一性から納得はできた。
だがそのオリジナリティを疑いの目で見られていた。そのことに不思議はないし、不快感もない。死ぬ不死は不死ではない。疑われるのは当然のことだ。
実際にスクレイピーを倒し、イドラの内の確信に揺らぎはなかった。
なぜならスクレイピーは、確かにいささか稀な個体ではあったが、協会に葬送しきれないものでもないように思えてならないのだ。数をそろえて聖水なりギフトなりで動きを止め、せっかく海も近いのだから檻に入れて沈めてしまえばいい。それがイドラでも知っている、葬送のセオリーだ。
あの程度のイモータルが主目的のはずがなかった。となれば、本命は——?
「言い訳をすれば……疑っていたわけでは、なかったんです。わたくし個人としては。ただ、どんなギフトなのかと気になってはいました。いえ、気になるなどという生易しい感情ではなく、嫉妬や怒りのような気持ちです」
「怒り? 怒られる筋合いは……まあ、なくはないか。ある意味商売がたきだもんな、僕は」
「楽をしているのだと——ずるをしているのだと、思ってました。わたくしたちが必死に、耐えて苦しんで戦って、時間と労力を費やし、命をかけて行っている葬送でさえ成しえないイモータルの完全な殺害を、ギフトの能力で簡単にやっているのだと」
ですが違った、とミロウは言う。
まるで神に懺悔するような、滔々とした語り。そこには羞恥と、己への侮蔑があった。
「イドラ。あなたはともすれば、わたくしたち以上に死に近い。臆せずイモータルへ接近し傷を負い、それを治す時でさえ刃物で切り付け……魂を削るようでした。もしかしてあなたのギフトは、イモータルを殺すためのものではないのでは?」
「なんだって? 見ただろうミロウも、マイナスナイフがスクレイピーを殺すところを。このギフトは、あいつらを砂にして、殺すための力だ」
「もちろん見ましたとも。ですが、単にそれが可能だというのと、意義とするのはまったく別の話です」
「どういうことだ?」
「たとえば斧は木を伐るためにありますが、やろうと思えば食材も切れる。あなたは今、それをしているようだと思いました。感覚の話、ですが」
突然そんなことを言われても、イドラの内には困惑が広がるばかりだった。
イドラのギフトは世界で唯一のイモータルを殺す手段だ。それがイモータルを殺すための道具でなければ、一体全体なんだというのか。
「……すみません、出すぎたことを言いました。先に馬車に戻っておきます」
イドラが感じた困惑を読み取ったのか、ミロウは軽く会釈して去っていく。
とはいえイドラも、好んでこの場に留まる理由もない。しかしミロウの背をわざわざ追いかけることも憚られ、かといって微妙な距離を保ったまま同じ道を辿るのも気まずい。
どうしたものかと思っていると、後ろから肩を叩かれた。否、ほとんど握られた形だ。肩揉みのように、左肩をにぎにぎと触られる。
「なんのつもりだ、ベルチャーナ」
「いやね? ほんとに治ってるんだな、って。傷も治せて、イモータルまで倒せるなんて、結果だけ見ればベルちゃんのギフトの上位互換ぽいねえ」
振り向くと、ベルチャーナの胸元では変わらず、チェーンでつながれた銀色のリングが揺れている。
ベルチャーナのギフトも、怪我を癒すものだと言っていた。ちらりと隣のソニアに目をやると、はにかんでこくんと頷く。スクレイピーに負わされた怪我は治してもらったらしい。
「でも背中は届かないでしょ? ベルちゃんが治してあげましょー、このヒーリングリングでね!」
「そんな名前だったのか……別にナイフを使うんだし、がんばれば届かないこともないんだけど」
「ダメだよ、それは」
やけに強くベルチャーナは否定した。
その自身を見つめる浅葱色の瞳に、イドラは既視感を覚える。……それは馬車に乗る前に覚えた、色の似たシスター・オルファの目と重なるものではなく。
母の——リティの茶色がかった目だ。色ではなく、そこに湛える感情が似ているのだ。
イドラが横着や間違いをして、叱るときのような。
「イドラちゃんのギフトは自然の摂理に反してる。それが悪いことだとは言わない。だけど、傷の上に傷を重ねて、それで怪我を治すなのてのは……本当の意味での治療とは言えない。結果は同じでも、過程が決定的に違う」
「……エクソシストってのはみんな、難解なことばかり言うな。怪我を治すんだからおんなじだろう」
「違うよ。だってイドラちゃんのやり方じゃ、心までは癒えないでしょ」
——心? なにを言っているのか。
さっきのミロウといい、エクソシストは常日頃難しいことを考えているのだろうか。やはり宗教家だからなのか。
イドラも一応、ロトコル教の教えは生活になじんでいるが、信仰の厚いたちではない。葬送協会に身を置こうとも思わない。もしも協会に入って、なにかの拍子にオルファと鉢合わせることにでもなれば最悪だ。まだあそこに籍があるのなら、だが。
ベルチャーナは無理やり後ろを向かせると、有無を言わさずイドラの服をまくり始めた。後ろでソニアがあわわとなにがしか騒いでいるが、別に気にはならなかった。
「肩の怪我も、ベルちゃんが治してあげたかったな」
背を晒した状態で、後ろからかすかに金属の擦れる音が聞こえる。リングを傷口に近づけているようだった。
ほどなくして傷口が熱を持ち始める。それは怪我をした時のヒリヒリとした熱い感じではなく、ぽかぽかとした、心地の良い温かさだった。湯に浸けられるのにも似ている。
(……確かに、僕の治し方とは違うかもしれないな)
事実、傷を治す原理は異なった。
マイナスナイフは、肉体をデフォルトの状態へ引き戻すことで傷を消失させている。対し、ヒーリングリングは体の治癒能力を高めることによるまっとうな治療だ。
どちらが優れているか、一概には決められまい。しかしベルチャーナのギフトでは、深い怪我の場合は治りを促進はしても、マイナスナイフのように一瞬でなかったことにはできないだろう。
「イドラちゃんが、ベルちゃんたちを信頼できないのはわかるよ。協会だって同じで、司教様のお心はわかんないけど、少なくとも疑念を持つエクソシストが多いからこうしてスクレイピーで試したの。不死殺しの噂が本物か」
「ああ。わかってる、お互いさまだ。それで次はどうすればいいんだ? スクレイピーの次は? 巨大な魔物か? 別のイモータルか? いつまで試されるんだ、僕は」
「もうないよー。少しでも信用してくれるようになったんなら、あと少しだけついてきてほしいな」
「そりゃ同行はするさ、こんな湿原に置いてけぼりにされても困る。それに報酬も受け取ってない」
「そうだったね。ま、なら詳しい話は馬車でしよっか。こーいうのはミロウちゃんが説明してくれる方がずっとわかりやすいし」
背で広がる、温かな感覚が止む。見えないし手も届かないのでわからないが、おそらく傷口は塞がっているはずだ。
礼を言うと、ベルチャーナはにっこりと笑った。夕陽に彩られるその表情に含みはなく、橙色の光に染まって、長い髪がきらきらと輝いた。
*
馬車は、もと来た道とは別を辿っていた。
日が完全に沈み切るまでもう間もなく。夜を目前に、イドラたちはまたしても揺られながら道を行く。
大きな道だった。地面も舗装され、街道といった趣だ。馬車の進みも心なしか良い。小窓の外には視界を遮るものもなく、なんの危険も窺えなかった。
「デーグラムまでもうしばらく。イドラには、一度司教様に会ってもらいます」
また、御者台とを仕切る布の間から体をのぞかせたミロウは、だしぬけにそう言った。
「僕も文句をつけたいわけじゃないんだけどさ。もうちょっとこう、依頼の透明性というか。後からああしろこうしろって言うのはなんとかならないのか?」
「そこに関しては申し訳なく思っています。ですが、不死殺しを証明していただくまでは言えませんでしたので」
さっきのしおらしさはどこへやら、ミロウは初めに会った時と同じそっけない態度を取り戻している。
言っても無駄だろう。イドラは諦めて、口を挟まないことにした。
もとよりスクレイピーの依頼とて、怪しさはあったのだ。ただそれを踏まえたうえで、イモータルを殺すという自らに課した義務のため、呑むことにした。結果、スクレイピーは確かにいた。
あれが試金石だと言うのなら、また別にイモータルがいるはずだ。ならば、それも殺せばいい。殺すべきだ。
「近々、大きな作戦があるのです。イドラにはそれに加わってもらう予定です。が、そこは司教様が仰ってくれるでしょう。とりあえず今夜のことを説明すると、デーグラムに入り、イドラにはそのまま聖堂へ向かってもらいます」
聖堂と聞いて、それを知らぬ者もおるまい。この大陸におけるロトコル教の本部だ。
デーグラムの町も大きい。けれどイドラは、聖堂も見たことがなければ、デーグラムにも足を運んだことがなかった。
無論存在は知ってはいたが、これもオルファの一件がどうしても頭をよぎり、避けていた。ただ今回ばかりは向かうことになりそうだ。
「あ、あの……イドラさんは、ってことは、もしかしてわたしは駄目だったりします?」
「言いにくいですが、そうですね。元々、不死殺しは単独で旅をしていると聞いていたので聖堂には……なので、先にソニアには宿で待っててもらいます」
「デーグラムに着いたら二手に分かれよっかー。ベルちゃんがソニアちゃんを案内してくから、ミロウちゃんはそっち頼める?」
「そっちって言うな、そっちって。おい指差すな」
「承知しました。イドラは聖堂で司教様と挨拶後に、宿に戻って今日は休んでもらいます。作戦は火急の要件ですから、早ければその翌日か翌々日には出ることになるでしょう」
「なんだか規模が大きそうだな。エクソシストの中に混じるのか? うまくやれるとは思わないな。まだ受けるとも言ってない」
「そこは、司教様が説得すると」
「大した自信だ」
思わず苦笑する。エクソシストにさえ今日まで出会ったことがないイドラなので、当然ながら司教などという大層な肩書の人間と会うのも初めてだった。
しかし協会に詳しくないイドラでも、司教というのがロトコル教において、その大陸でもっとも偉い立場だということ程度は知っている。簡単になれるものでもあるまい。
いかにも信心深そうな、無欲的な細身の老人が自然と脳裏に描かれた。順当に考えれば、遠からぬイメージのはずだった。