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第33話 キミと、ひと時を重ねて

「魔物狩りは得意じゃない。頼りにしてるぞ、エキスパート」

「もちろんです。あなたの出番などありませんよ、イドラ」


 イドラは腰のケースからナイフを取り出す。マイナスナイフがある左側とは逆、右側のケースだ。

 イモータルを唯一傷つけられる稀代のギフトも、魔物相手ではなんの役にも立たない。なにせ斬るたびに傷を治してしまう。むしろ迷惑だ。

 そんなわけでイドラは魔物と戦う場合、自分の傷を治すときだけマイナスナイフを使い、もっぱら通常のナイフで応戦していた。当然、ギフトでもなんでもないただのナイフ一本で魔物を殺すのは難しく、イモータルよりはマシにしても決して油断はできないのが常だ。


 ティティシップは群れで行動する魔物だったが、多くはせいぜいが三から五匹程度。九匹もいるのは稀であり、場所を選んで待ち伏せしてきたのも、中々に賢しらだった。

 気は抜けない。ティティシップは二本の触角が花弁のように広がっていて、先から魔法による音波を発する。複数の個体が同時にそれをすることで、音波は重なって効果が増幅する。

 魔法の音波は平衡感覚を奪う。一匹二匹ではどうということもないが、三匹も音波が重なればまともに立ってはいられない。五匹いれば意識も危うい。

 九匹いれば——耳栓をしていても絶命は免れまい。

 ヴェートラルを殺し直す前にこんな小物どもでつまずいてはいられない。イドラが柄を握る手に力を込め、前へ出ようとすると、それより先に無造作にミロウが群れの中へと歩み出していった。


「おいっ」


 ミロウもその手に武器はない。単独で動くのは危険だとイドラが呼び止めようとすると、ミロウが近づいたティティシップがばらばらに崩れ落ちた。


「ギィ、ギィ——ッ!?」


 音波を合わせる前に仲間のひとりを失い、ティティシップたちは狼狽の喚き声を上げる。その間も止まることなくミロウは腕を振るい、するともう一匹が胴体から真っ二つになった。


「一体なにが……」


 ミロウはただ近づき、腕を動かしているだけだ。それで魔物が二匹、瞬く間に絶命した。

——光った?

 イドラの視界で、闇夜の中、ミロウの手元の少し先になにかがきらめく。彼女はカンテラをリングで腰に提げていて、白い手の素肌が淡い光に照らされる。


(……手袋を外した?)


 そこでイドラはいつの間にか、ミロウがずっと着けていたダークブラウンの手袋を外していることに気付いた。

 しなやかな手。その細い指先から、何本か——ほとんど透明に近い糸が伸びている。


「すごい……あれもギフトなんですね。十本の糸が指先から、それぞれ独自に動いてる」


 ソニアの強化された眼は、その十条の軌跡を完璧に捉えているようだった。

 精密十指、その名の所以ゆえんを理解する。

 糸のギフト。それも、十本。見ようによってはギフトが十個あるようなものだ。もっともそれを別個に動かせるのは彼女自身の能力だろうが。


「イモータルならいざ知らず。群れるばかりが能の魔物ごときに、わたくしの輝糸レイは止められませんわ」


 不可視の嵐が起きていた。光の筋がかすかにきらめいたかと思うと、近づく魔物の体が切断される。

 もはや戦闘ではなく蹂躙、それか単なる作業だった。油断や慢心など入る余地なく、ミロウが繰り出す見えない死の線から逃れようとするティティシップを、周囲のエクソシストたちは的確に狙って仕留めている。

 多人数での連携に慣れている動きだ。ソニアがひとり加わるだけでいっぱいいっぱいだったイドラには到底できない、団体行動が骨の髄まで馴染んだ戦い方。


「は。まさか、本当に出番がないとは」


 最後の一匹は、エメラルド色の剣で斬り捨てられた。エクソシストの男性が息を吐き、剣を鞘に仕舞う。

 イドラもまた、一滴の血もついていないナイフをケースに戻すほかなかった。割り入る隙さえなく、エクソシストたちは一瞬にしてティティシップの群れを動かない肉塊にしてしまった。ほとんどはミロウによるものだが。


「驚きましたかイドラ。これこそレツェリ司教様から精密十指の名を賜ったわたくしのギフト、そして我ら葬送協会の団結力です」

「ああ、驚いたよ。でもよかったのか?」

「——? よかったのか、とはどういうことでしょう」

「いや、だって、ここに陣を敷くんだろ? お前が魔物を解体殺害したせいで、もうその辺血の海なんだけど」

「……。あ」


 最後の一匹のように、ただ斬られただけであれば出血などたかが知れている。

 しかしミロウの糸によって倒された死骸は、四肢や胴体を切断され、散乱した夥しい血液で草の生えた地面を濡らしていた。


「あは。スクレイピーは死ねば砂になったのにねー、魔物は面倒だぁ。ミロウちゃんってばいいとこ見せようとして張り切っちゃった?」


 鼻につく、むせ返るような血の臭い。その中でもベルチャーナはあっけらかんと笑う。

 どう考えても、ここで野営は精神衛生の立場から厳しかった。


「…………すみません。ここで魔物を最後まで解体して、それからまた少し場所を移しましょう」


 一気に声が弱々しくなったリーダーの指示により、一同は再度暗中の森を進むことになった。



 魔物の解体は動物のそれと大差ない。血を抜き、内臓を除き、皮を剥ぐ。それから部位パーツごとに分割と、大まかに言えばこんなところだ。

 簡単な作業ではなかったが、人数が人数だ。流石に手際もよく、イドラも手伝ったものの大した仕事もなくすぐに終わった。ワダツミによって水を用意できたのもかなり役立った。肉には若干桃の香りがついたが、別にいいだろう。


 ティティシップを倒した広場の先にはちょっとした窪地があった。窪地は雨が降ると水が流れ落ちてきたり、魔物の接近に気が付きづらくなる恐れがあるため、通り過ぎてその向こう側で野営をすることになった。

 一日を終える前に、空腹になった約三十の胃を満たさねばならない。食事の準備も皆で分担するとすぐに済んだ。

 旅の食事など温かであれば十二分に豪勢だ。大鍋で煮込んだスープの中に、先ほどの魔物肉をぶち込んで火を通す。砕いたパンがたくさん入ってとろみのついた、北方のシチューに近い料理だった。


「器は行き渡りましたね。では、我らが神の恵みに感謝します」


 軽い木の器にスープがよそわれ、匙とともに配られる。一同は分隊ごとに固まり、それを受け取ると思い思いの場所に腰を下ろした。

 イドラたちパーケトの隊は、太い木のそばに自然と集まった。とは言ってもミロウは全体のリーダーとして前に出ているので、たった三人だ。


「我らが神の恵みに感謝します……これやっぱ言うんだな」

「まあねー、葬送協会も一応ロトコル教の一部だし。形だけでも言っとかないと」

「か、形だけでいいんですか……?」


 メドイン村でも日常的に行われた食事の挨拶は、旅を始めるとつい欠かすことも多かった。神への感謝に意識を割く余裕が常にあるとは限らない。

 ともかく、明日も早い。イドラは無造作にスープの中に匙を入れ、ティティシップの脚かどこかの肉をすくって口へ運ぶ。

 硬い。そのうえ、噛みしめるたびに獣っぽさが口の中に広がる。スープの味は薄く、具材もほぼないため、肉の味をごまかすには足りない。あとちょっと桃の風味がする。


(……まあ、悪くないな)


 それでも肉がまったくないよりはマシだ。そもそもの量も少ないのだし。

 温かい飯が口にできるだけ恵まれている。この環境下では味も上出来だ。


「うーん、ザ・魔物のお肉って感じ。聞いた話では世の中にはおいしい魔物もいるらしいけど、ベルちゃんはあんまり食べたいとは思わないなー」


 大きな木の根の上に座ったベルチャーナも、言葉とは裏腹ないつもと同じにこやかさで匙を動かす。

 機械じみて胃に栄養を詰めながら、イドラが思案するのは別の事柄だった。

——おそらく傾向から、発作が起こるのは二時間後くらいか。

 昨夜と同じ失態はできない。ソニアが発作を起こす前に、すぐ対処できるよう準備しておく必要がある。


「……? ソニア、食べないのか?」


 ふと、その彼女を見ると、その手は匙を持ったまま止まっていた。

 呼びかけられたソニアは弾かれたように顔を上げ、あからさまな作り笑顔を浮かべる。


「あ、すみません。ちょっと……」


 そう言って、口に匙を運ぼうとするものの、やはり直前で止めてしまう。


「もしかして、さっき魔物の肉がマズいって言ったこと気にしてるのか? ごめん、あれは少し、僕も脅かしすぎたよ。別に吐くほどおいしくないわけじゃないさ」

「い、いえ。そうじゃなくて……」


 まだ戸惑う雰囲気のまま、ソニアはゆっくりと小さな口に匙を差し込み、そこに載ったものを咀嚼する。やがてどこか沈んだ表情で嚥下した。


「やっぱり……あの、実は味をあんまり感じなくて。匂いなんかはわかるんですけど……たぶん、これもイモータル化の影響なんでしょうね。あはは……」

「——」


 何故か申し訳なさそうに、ソニアは笑う。子どもらしくない卑屈な微笑。

 味覚に支障が出ている。その事実を聞いてなによりも、そのことにまるで気が付かなかった自分に対してイドラは驚いた。

 いっしょに過ごして、宿でも同じ卓を囲んで。これまでなにを見てきたのだろう?

——節穴か、僕の眼は!


「でもでもっ、この方がよかったのかもしれません。おいしくないっていう魔物の味、わからなくて済みますから」


 そんな顔で笑うな。喉まででかかった言葉は、野菜と肉の味がほんのり溶けた液体で押し込んだ。

 ソニアという少女の人生は、狂いに狂っている。一年前、体をおかしくされた時から大きくねじ曲げられている。

 恐ろしいのは、犯人やその動機がまるでわかっていないことだ。彼女自身に一切の非がなく、怒りも後悔もやり場がない。どんな思いを抱えてあの集落の岩屋に閉じ込められていたのか、想像するだけで胸が痛くなる。


 罪人である自分はいい。イドラは、イモータルなどという怪物にあろうことか感傷を覚え、そのせいで恩人を助け損なった。これはイドラにとって明確な罪であり、罰を受けるべきものだ。

 しかし、ソニアは絶対に違う。誰かを貶めたわけでも、失敗したわけでもない。

 理不尽に人生を奪われた。あるはずだった、幸福で平凡な日々を失わされた。

 ただ、やるせなかった。世界はどこまでも残酷で、不条理ばかりが満ちているのだと否応なしに思わされた。


「……ああ、マズいなぁ、本当においしくない! 相変わらず最悪だな魔物の肉は!」


 そうではないと信じたかった。イドラは衝動的に、胸にある名状しがたいもやもやとした思いを吐き出すように大声で言って、やにわに立ち上がった。


「うぇっ、イ、イドラさんっ!?」

「みんなもそう思うよなぁ! 魔物の肉はおいしいか!?」


 周囲のエクソシストたちは、一瞬ぽかんとイドラを見たが——


「おいしくなーい! いいなぁソニアちゃんってば味覚薄いんだってー? この味を感じなくて済むなんて羨ましいー!」


 にっと笑って、わざわざ周囲に届くように上げたベルチャーナの声で、目に見えて空気が変わる。


「そりゃあいい、魔物を喰うよりは腐肉の方がまだマシだろうよ!」

「言えてるな、幼児の作るメシ以下だ!」

「そうだそうだ! 味付けしたの俺だけど!!」


 近い距離だ。もしかしたら、噂の不死殺しの一行がする会話につい聞き耳を立てていた者もいたのかもしれない。


白髪はくはつの嬢ちゃんが羨ましいぜ!」

「まったくだ、ああ不味い不味い! こんなくそったれな飯を味わわなくていいなんてツイてるよ!」


 大げさな悪態をついて騒ぎ、エクソシストたちは嫌な顔を作りながらも食事の手を進める。

 先ほどまでも静かなわけではなかったが、これではちょっとした宴だ。

 状況がわかっているのかいないのか。おそらくはソニアの事情など聞こえていない者が大半だっただろうが、流れに便乗する騒ぎたがりが大勢いたのかもしれない。


「みなさんまで、そんな……」


 その軽さ、言ってみれば深い関心のなさが、ソニアにとって心地のいいものであればいいとイドラは願った。それこそが一年前、彼女の手のひらから零れ落ちた日常の正常さだ。


「迷惑だったか?」


 我に返ると、軽率で思慮のない行動だったと自省した。不安に思いながら隣を窺うと、少女は「ううん」と小さくはにかんで、周囲と同じように器の中身を口にする。

 さっきとは違う、自虐的でない笑みだった。

 余計な、出すぎたことをしてしまったのではないか。そんな思いに駆られかけていたイドラはほっと息をつき、硬い肉を噛みしめる。


「……嘘つき。おいしいじゃないですか、このお肉」


 少女の呟きは喧噪の中にかき消され、彼女の内以外には響かなかった。



 下りきった夜の帳が、森の闇をさらに色濃く染め上げる。

 深夜。耳を澄ませば虫の声。夜行性の獣や魔物に遭遇しないことを祈りながら、イドラとソニアは寝床を抜け出した。


「すいません、わたしのせいで……」


 少しよろめいた足取りで、イドラに手を引かれたソニアが謝る。その直後、おぼつかない足は地面から浮いた木の根につまずき、大きく体勢を崩す。


「きゃっ」

「危ない! ……平気か?」

「は、はい。ごめんなさい」


 前のめりに倒れかけた体を、イドラはすぐに受け止めた。

——熱い。

 伝わるソニアの体温は、高熱を患っているかのように高かった。

 発作の前兆。息も荒く苦しげで、動いていることもあって上気した顔はうっすらとだけ汗ばんでいる。


「無事ならいい。謝るのは、もうナシだ。これは決めたことなんだから」

「そう、ですよね。すみま——じゃなかった。えっと、お世話になります?」

「……それもちょっと違和感あるけども」


 だが大事はない。本格的になる前にマイナスナイフで対処する。そのために皆のいる寝床を抜け出し、離れた方へと向かっているのだ。


「この辺りまで来ればいいだろう」


 あまり遠くに行きすぎて、戻り方がわからなくなってしまったら笑い話にもならない。

 ちょうど、草の柔らかくて寝そべるには都合のいい場所を見つけ、そこにソニアを座らせる。


「今夜も……お願いします。イドラさん」


 服をまくって腹部を晒し、仰向けになるとソニアはいくぶん楽になったらしく、長く息を吐く。

 呼吸によって、白いお腹がかすかに上下する。そこにはクモの巣を思わせる模様が淡く光って浮かんでいた。


「ああ。すぐに終えるから、力を抜いて楽にしてくれ」

「はい——」


 潤んだ瞳が閉じられる。ソニアは身じろぎひとつせず、ただイドラを待っている。

 きん、と短く、鋭い音が響く。ケースからマイナスナイフを抜いた音だ。手の内で柄を半回転させ、イドラは慣れ親しんだ獲物を逆手に持つと、屈みこんで少女に近づく。


「——……っ」


 青みを帯びた、不死を殺す天恵が陶器のような肌を刺す。白皙の少女はその入り込んでくる負数の刃に身をゆだね、小さく湿った吐息を漏らした。

 肌を重ね、静かな夜が過ぎていく。その数だけ、傷ついた心同士が混じり合い、つながりを強くする。

 逢瀬のような密やかな儀礼を、草や葉の間から小さな虫たちだけが見つめていた。

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