「ァ————ァァァァァァァッ!!」
鼓膜を震わせるヴェートラルの声。イモータル特有のザリザリとした、ノイズめいた音だ。それも発する個体のサイズがこれなので、音も同じように大きい。
不愉快極まる壊れた音調に臆さず、不死殺しと不死憑き、それからエクソシストたちは駆け出した。
策もなにもない特攻。とにかく火力をぶつけ、隙を作り、マイナスナイフを通し続ける。そうするほかなかった。
ヴェートラルが軽く身をよじると、それだけで谷底の中心を通る川の水面が跳ね上がる。顔まで届く水しぶきを手で払いながら、イドラはひとまずその巨大な白いとぐろの元まで肉薄した。
さして狙いもつけず、真っ白な鱗に覆われた表皮へと、マイナスナイフの青い刃を振るう。
軽い手ごたえとともに刃は通り、わずかに白い砂がこぼれる。
「……通る。マイナスナイフは通る、問題なく効くようだ!」
「なら、いけるってことですねっ!」
「どれだけ攻撃が必要かはわかりませんが——いずれ殺しきれる。ふ、そうでなければ一巻の終わりです」
周囲のエクソシストたちからも歓声が湧き上がる。それは自らへの鼓舞でもあるのだろう。
一方白の大蛇は、矮小な蟻が自身の表皮を切り裂いたことを認識し、明確な敵意を三つ目に乗せてイドラに向けていた。
「ァァァァァ——ァァアアッ!」
ナイフのような牙を剥き、頭上から一直線にイドラに飛び掛かる。
手足がもげてもとは言ったものの、実際体がちぎれた時マイナスナイフで治せるか、イドラはまだ試したことがなかった。試しにやってみてハイできませんでした、ではとんだ間抜けだからだ。
素直に回避に専念し、その場を飛びのく。まさしく蛇の執念さでヴェートラルは追撃に身をくねらせ、反撃の機を奪う。
……不死殺しにおいて、よく陥るパターンだった。
イモータルの連撃によって、回避を強いられ、反撃のタイミングを失う。なにせ相手は不死。マイナスナイフに限ってはその不死さえ殺せるが、しかし相手が異常な生命であることに変わりはない。
恐れはなく、痛みも感じず、疲れさえ覚えず、最後に砂になってしまう瞬間までイモータルは向かってくる。
イドラが反撃をするには、同じものになるしかなかった。
マイナスナイフで傷を治す。それを前提にした捨て身。目の前の怪物と同じように、自らを不死だと信じ込むかのごとき猛攻。
それをしなければ、反撃の刃を届かせることは叶わない。
(——でも)
ずっとそうしてきた。そうするしかなかった。
でも。だけど、それをやめてほしいと願った少女がいた。
罰を求めるようだと言った人もいた。魂を削るようだと言った女もいた。
決して口にはしないけれど——口にしたら、心を支えるなにかが折れてしまいそうだから言ってこなかったけれど、そんな戦い方はイドラだってやりたくなかった。痛いのは嫌だ。傷を負わないでいいのなら、その方がいいに決まっている。
けれどそうするしかない。手傷を前提としなければ、不死の怪物に反撃を届かせられない。
——本当に?
「イドラさんは、わたしが守る——っ!」
横合いから振り抜かれた力任せの一刀が、白い蛇の顔面を殴打した。
鈍い音が響き渡る。振るわれたのは日本刀、それも太刀だったが、少女はまるでバットでも使うように振り回していた。
「ァ、ァァ————ッ」
「ソニア……! ありがとう、助かった!」
「お礼なんていいです。わたしの方がずっとずっと、助けられてます!」
いかにそれが一応はギフトと言えど、イモータルの蛇にはダメージを与えない。が、いきなり殴られれば衝撃で怯むくらいはする。それによって、イドラが反撃をするだけの『隙』は確かに作られた。
畳みかけるイドラ。青い負数が躍り、少しずつヴェートラルの体表から白い砂が零れだす。
だが原初のイモータル、大いなる厄災がそれだけで終わるはずもない。普段イドラが狩ってきた、並のイモータルであれば既に砂と還っていたであろう手傷を与えられても、ヴェートラルの動きに支障はなかった。ソニアが振るうワダツミの一撃も無視し、今度こそとイドラへ突進する。
「イドラ殿、ここは俺が」
その間に割って入ったのは、熊とも見紛う大男。手にはなにもない。強いて言えば昨日は気付かなかった、真っ黒な腕輪を右手に着けているくらいだ。
「ホルテルム……!? だが、なにも持たずになんて……まさか壁になろうってのか!? ダメだそんなの!」
「誤解するな、俺はここで死ぬつもりはない。加えて言えば、イドラ殿もソニア殿もミロウ殿も、誰一人死なせん。——防げ、ディサイダー!」
向かってくる白い頭。それが届くより先に、ホルテルムは太い腕を虚空に向けて伸ばす。
黒い稲妻が、イドラの目に映った。
「——!?」
さしもの怪物もともすると、困惑は覚えたか。なにせ、なにもなかったはずの空間に黒い壁が現れ、進行を阻害されたのだから。
壁——そう呼ぶのは正確ではないだろう。
それは剣だった。ただし同じ刀剣のくくりでも、ソニアのワダツミの刀身が十本くらいは集まらないと匹敵できないような幅。宇宙のように真っ黒い、異常に巨大な大剣の類だった。
「く……流石に重い」
ホルテルムがいかに大男であっても、人間と比にならないヴェートラルとまともにぶつかりあえるわけもない。ホルテルムは衝撃を斜めに受け流し、一歩後退する。
突如として。同時にその手から、あの黒い大剣が消失した。
瞠目するイドラに構わず、ホルテルムは空になった右腕を振りかぶる。まるでまだ、その手の中に剣でも握っているかのように。
「——ふぅッ!」
振り抜かれたその手に、またしても黒い稲光がきらめく。
果たして剣は現れた。さっきよりもいささか細身の、それでも太い腕に似合うロングソード。その形状を取る、艶のない暗黒。
現れては消え、また現れる。神出鬼没、出没自在——それこそがホルテルムのギフトだと、イドラにもようやく理解が及んだ。
直前までなにも手にしていなかった腕の勢いは相当なものだ。インパクトの瞬間にだけ剣を出現させることで、動作を機敏にし、破壊力をも増している。
「なんてギフトだ……消えたり出たりするなんて、まるで見たことないぞ」
「俺からすればイドラ殿の方が埒外だ、イモータルを殺してしまうというのだから。……この通り俺では傷ひとつ付きはしない。エクソシストというのは心底、難しい」
そうは言いつつも、かすかに表情に笑みを帯びる。冷静さという
どんな魔物さえ両断してしまいそうなホルテルムの一撃を受け、ヴェートラルの白い表皮には傷ひとつない。砂の一粒も零れない。
これは単に、そういうものだというだけだ。イモータルという死のゼロを越えた怪物が、そういう風に在るというだけ。
「ともあれ我々は攻撃面において、イドラ殿を頼るほかない。だからこそ防御面は安心してほしい。意地にかけて、俺が防ごう」
「でしたらわたくしは誇りにかけて。あなたをサポートしてみせます」
「わたしも……! こんな体になって悔んでばかりでしたけど、イドラさんの役に立つならいくらでもがんばります!」
イドラを守る仲間たち。彼らだけでなく、話したことのない、顔さえ知らぬエクソシストたちが一様にイドラを見つめ、意志を込めた頷きを返す。
「みんな……」
これこそが、イドラがこれまで得られなかった方法だった。
防げない攻撃は、防いでもらえばいいのだ。誰かに。他者に。
決して、マイナスの力で戻すのではなく。痛みを抱え込む以外のやり方を、ようやくイドラは知ることができた。
「ァァ——ァ、ァアアアア——!」
身の毛がよだつような咆哮に、しかし怯む者はいない。
エクソシストたちは連携に長けていた。イドラが動くための隙を作り、的確にヴェートラルの攻撃を阻み、行動を妨げる。
もしもヴェートラルに感情があるのだとすれば、苛立ちは相当なものだろう。
ちくちくと針で刺されるように削られる体。蟻の一匹を踏み潰せばそれは止むというのに、ほかの蟻たちが団結して邪魔をする。
そんなことを何度も繰り返し——ようやくヴェートラルは、たかだか一匹の蟻を殺すことに本腰を入れた。
「ァ、ァ、ア——————」
突如、ヴェートラルが鎌首をもたげた。またいきなり飛び掛かる気かと、全員が身構える。しかしそんな様子でもなかった。
それは人に例えるのなら、虫の一匹を殺すためだけに、ライフル銃を持ってきて撃ちまくるようなものだ。
ヴェートラルの魔法器官とはそういう規模のものだった。本来であれば単なる人間一人ではなく、村だとか町だとか、人の集まりそのものを破壊するための機能だった。
「なに……? 頭の輪っかが、光って」
「——魔法!」
「魔法です、総員気を付けて!」
イモータルと戦った経験の多さからか。動作の意味に真っ先に気が付いたのは、イドラとミロウの二人だった。
ヴェートラルの頭部と一体化した輪のような器官。それが突如色を持ち始める。薄く光を放つ……三つ目と同じ、黄金色を。
まるで
凝縮した光は、音よりも速く放たれた。
「……………………え」
魔法が来ると、イドラは警戒していた。ミロウは注意を呼びかけた。
油断をしている者など、一人たりともいなかった。
「……。イドラさん?」
そうしてなお、その光芒を見切ることができた者はいなかった。不死憑きの眼ですら追えなかった。
当然だろう。光速、そんな魔法に反応などできるはずがない。
一同の結束を嘲笑うかのような一撃。
イドラ自身、撃たれたと気が付いたのは——無様に血を吐いて地面に倒れ込んでからだった。
(なんだ……なんだ、今のは……!?)
痛みより先に、恐怖より先に、驚愕が脳を占める。何が起きたのか本当に理解ができない。
レーザー。そんな言葉はこの世に存在しなかった。
イドラの知識や経験では、どうあっても理解の及ばない概念。魔法によって創られたその光は、容赦なくイドラの腹部に風穴を開けていた。
即死でなかったのは不幸中の幸いだった。最速の魔法はイドラの体を貫きはしたが、心臓のやや横を通ってくれていた。肺の片側はほぼなくなってしまったが。
地に倒れながらも、イドラには右手に冷たい感覚があった。倒れた拍子に片腕が川に浸かったか。
その手にはまだマイナスナイフが握られている。しかし腕は動かなかった。
——まずいかもしれない。
遠くなり始めた意識が警鐘を鳴らすも、四肢に力は籠らない。それだけの傷だった。
体に穴が開いている。即死でなくとも、じきに死ぬ。ベルチャーナのヒーリングリングでもどうにもならないし、ローバルクのところまで運ばれても無意味だろう。
だが、マイナスナイフさえ使えれば完治する。不条理とまで言える青い負数は、明確に死んでさえいなければ、どれだけの傷でも無に還す。
だからこの手を動かせば。この右腕を持ち上げて、傷口にさえ持っていくことができれば——
思いとは裏腹に、イドラの手からは力が失われるばかり。冷えた感覚は川の流れのせいか、それとも血の流出のせいか。
じきにこの、頼りにしてきたナイフさえ離してしまうだろう。
(————ああ。先生)
意識が、消える。
視界が失せる。
耳には、近くで泣き叫ぶ、少女の声が響いていた。
とても大事なその少女のことを思い出すだけの血液は残っていなかった。だから空いた胸をよぎったのは、筋道の不明瞭な、死にたくなるような罪悪感だけだった。