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第42話 甘やかな時間を、キミと

 司教室の場所を印した、聖堂の中の簡単な間取り図を書いた紙のメモを受け取り、イドラは聖堂を出た。裏口の鍵を開けておくので、夜に侵入して司教室を調べてみるという筋書きだった。

 外まで見送りに来てくれたミロウは、まだ少し意気消沈というか、元気のない様子をしていた。


(やっぱり、司教を疑いたくないって気持ちが強いのかな)


 イドラにとってはいけ好かない、近寄りたくない相手だが、ミロウにとってはそうではないはずだ。

 協会の中に詳しいとは言えないイドラだが、司教という役職が集める羨望や信頼は知っている。固い信仰と優れた人格あってこそ、大陸にひとつしかない司教の席に着くことができる。

 そんな相手に疑念を差し向けるのだから、心中は推して知るべし、だ。もとよりミロウは優秀さから司教に近い位置で動くことも多かったようなのだし。


「……ん? なんだ、通りの方がやけに騒がしいじゃないか」


 外に出てすぐ、遠くの方で賑やかな声がいくつも届いてくる。まだ昼間だというのに、まるで宴会騒ぎのようだ。


「忘れてるんですか? イドラ。感謝祭ですよ」

「あ……そっか、もうそんな時期になるのか。流石、デーグラムは派手にやるんだな」


 感謝祭と言えば、年に二度ある、ロトコル神の恵んでくださった自然への感謝を捧げる大切なお祭りだ。大陸のどこでも、それこそイドラの故郷であるメドイン村でも当然のように行われていた。

 母、リティの舞いを思い出す。扇を手にして踊る母の姿は、今でもイドラの記憶の中に鮮明に残されている。聖堂のお膝元であるこの町ではそれは盛大に祝うのだろうが、町中のどんな舞踊家を連れてこようが、リティには敵うまいとイドラは思った。


(故郷で過ごした最後の感謝祭から……ええと、もう七回目、か。時が経つのは早いな)


 この三年、旅先の各地で感謝祭を迎えても、特になにかしたことはなかった。不死を断つ旅はいつも孤独で、騒いだりする気にはなれなかった。

 しかし今回くらいは、なにかしらをするべきか。今は独りではなく、あの子がいるのだから。

 結局最後まで口数少なかったミロウと別れ、イドラは宿に戻るため歩き出す。だが真っすぐ帰らず、少しだけ大通りの方に寄り道をすることに決めた。


「酒場が空いてるよー! お肉に魚、なんでもあるよ!」

「東方の珍しいお菓子だヨ! おいしいヨ!」

「安い、安い、実際安い」

「その時っ、不死殺しの青い天恵がぁー、イモータルの白いくびを断ちぃ——」


 常より活気ある町ではあるが、今日の熱気は大したものだった。道には食べ物の屋台や民芸品を売る露天商の店が立ち並び、酒場の呼び込みが通りへ声を張り上げる。吟遊詩人の唄にはなにやら覚えのある単語が混じっていたような気がしないでもなかったが、イドラは聞かなかったことにした。

 ごった返す人の波。中へ飛び込み、イドラも流れるように進んでいく。


「……お」


 その途中、歩きつつも、人と人との間からなにか土産になるものはないかと店々を眺めていると、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。



「いるか、ソニア?」


 包み紙を手に、空いた手で宿のドアをノックする。中からはすぐ「はーいっ」と元気な声が届いてきた。

 前の、協会の手配してくれた宿では相部屋だったが、普通に考えてうら若い少女が男と同じ部屋で生活するべきではない。そんなわけで宿を変える際、隣同士の部屋を二つ取ることにしたのだった。

 ソニアはお金ももったいないからいっしょでも大丈夫だと言っていたが、そういうわけにもいかない。これは貞操観念上当たり前のことだ。


「おかえりなさいイドラさんっ、どうでした? 雲の上……禁書の方は」


 ドアが開き、笑顔でソニアが出迎える。ちらりと隙間から視界に入った部屋の奥では、丸いテーブルの上になにやら布の切れ端のようなものがいくつか乗っていた。


「ばっちりだ。ミロウにも会えて、昨日ソニアが見つけてくれたビンのおかげで協力も取り付けられた。それで今夜動くことになったんだが、その話の前に」

「あれ? この香り……」


 橙色の丸い瞳が、イドラの持つ包み紙に向けられる。中から漏れ出るのは温かで甘い芳香。


「ちょっとしたお土産だ。ミロウに言われるまですっかり忘れてたが、感謝祭でたくさんお店が出てた。中、入ってもいいか?」

「もちろんですっ。でも……お菓子は味のわからないわたしにはもったいないかも」

「迷惑だったら食べなくてもいいが、栄養は取った方がいい。味がわからなくともだ」


 ただでさえソニアは、監禁されていて満足に食事のできていなかったであろう時期が長かった。イモータル化の影響で体が強くなったからか、そのことで不調などは出ていないようだが、それでもしっかり食べておくに越したことはない。まだ育ち盛りの歳だ。


「じゃ、じゃあ……」


 半ば強引に包み紙を渡され、ソニアは中のものを取り出す。それは二つ折りのふわふわとしたワッフルで、たっぷりのカスタードクリームと旬のフルーツが挟まれていた。

 これまでソニアはイモータル化の影響で、食事をしても味を感じられなかった。そんな自分が菓子を口にすることに罪悪感を覚えているのか、どこか申し訳なさそうにおずおずと口元に運ぶ。しかし食べ始めてすぐ、ぱっと目を見開いた。


「——。おいしい……おいしいです!」

「え? そうなのか?」

「は、はいっ……とっても甘くて……とってもおいしいですっ」


 華やいだ表情。直前までの縮こまった様子とは打って変わって、夢中で焼き菓子を食べ進む。

 イドラのマイナスナイフで毎晩の発作を抑えなければ命さえ危うい彼女だが、今このひと時だけは、そうした運命の悲痛を忘れて甘味の幸福に身を浸しているようだった。

 瞬く間に食べ終えたソニアの横顔を見て、こんな風に年相応で幸せそうな姿は初めて見るかもしれない、とイドラは思った。


「甘味はいくらか感じる、ってことか? もしかして」

「あ……そうみたい、です。どうやら」


 指摘され、すぐそばにイドラがいたことをそれで思い出したかのようにソニアは頬を赤くする。


「そっか。いいことだな、それは。なにを食べても味がまったくわからないってわけじゃなかったんだ」


 我がことのようにイドラは喜び、笑いかける。

 食は生活の根幹であり、娯楽だ。それを楽しめなくなることが彼女の人生に落とす影の大きさを、イドラは密かに憂いていた。イドラ自身、三年の旅は悲嘆の多い路だったが、そんな中でも美味しい食事は楽しみのひとつだった。人は食欲には逆らえない。


「それなら今度から、街に出たら甘いお菓子を買って行こう。もちろん健康を害さない範囲でだけど」

「え……そんなっ、そこまでしてもらうわけには」

「まあ、なんだ。僕も食べたいしね。実を言うと、甘いものには目がなくて。ワッフルを買ったのも、故郷で食べたビスケットをつい思い出しちゃってさ」

「そうなんですか? でも、そんなところこれまで一度も……」


 そこまで言って、ソニアはなにかに気が付いたかのように顔を上げ、イドラの顔を見る。


「——?」

「……わたしに気を遣って……食べないようにしてくれてたんですね」


 いきなり凝視されて疑問符を浮かべるイドラ。

 お人よしの不死殺しに聞こえてしまわないよう、白い髪の少女は小さな声で呟いた。


「なにか言ったか? あ、お金はそんなに余裕ないから、しょっちゅうってわけにもいかないと思う。うーん、こんなことなら聖殺作戦で協会からもっとせびっておけばよかったな。思えばかなりの大仕事をしたはずだよな、僕たち」

「ふふっ。そうですね、あははっ」

「え? な、なにがそんなに面白かったんだ?」


 笑い声につれて、細い肩が揺れる。少女の様子にイドラはただ首をかしげるばかり。

 それを見てソニアはくすくすと、なおさら楽しげに笑い続けた。


「……本当に、もう。イドラさんってば」

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