目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第44話 地の底にて、不死を謳う

「イドラさん……? 気を付けてください、一体なにが出てくるか」

「……ああ」


 心配げなソニアの声も、滑ってどこかへ消えていく。

 階段は思いのほか長く続いていた。壁が近く狭苦しいそこを下り終えてやがて底にたどり着くと、いきなり左右の壁面は鉄格子になってしまう。

 初めは檻の中に閉じ込められたのかと思ったイドラだったが、逆だ。左右に牢がある。こんなものが司教室の下にあるなどと、知る者はきっとほかにおるまい。


(こんなのを用意しているなんて、やっぱりソニアをさらったのは……でも一体なんのために? そこだけが、どうやってもまるでわからない)


 目的が不明。けれどそれについて改めて考える前に、イドラの思考は格子の向こうに釘付けになった。

 そこには、ひとりだけ。地面に座り込んで、かすかに体を揺らす影があった。

 壁の奥に備えられた燭台の灯されたロウソクの火が、その地面にぺたりと付いてしまうほど長い髪を柔らかく濡らす。


「この方は……?」

「——。そんな、まさか……そんなはずが」


 光に濡らされたその髪は、懐かしい亜麻色をしていた。

 記憶の箱が開き、断片化された出来事とそれに付随する感情が胸に蘇る。驚愕、怒り、悲しみ、苦悩、失望。

 それと、無知の日に触れた、仮面の優しさに対して感じた幸福。


「オルファ、さん」


 三年の時を経て、シスターは、変わり果てた姿でそこにいた。


「ぁ、——ぅ?」


 うめくような声。うねった髪の間からぎろりと目が覗く。やけに大きく見開かれたその瞳は、月の狂気が満ち満ちるような、黄金の色をしていた。


「……! この人、髪と目が……この色はまるで、わたしと同じ不死憑きの……!」

「え? あ……」


 ソニアの言葉に遅れてイドラは気付く。オルファの髪は亜麻色ではない。記憶の残滓がそうさせたのもあるのか、燭台の赤い灯のせいでそのように錯覚しただけだ。

 本来の今の彼女の髪は。雪のような。ソニアのような。……イモータルのような。

 鮮やかさを失った、色のない白に塗りつぶされていた。


「あの人が……どうしてこんな場所に、こんな姿で。オルファさんっ!」


 綺麗だった亜麻色の髪も、緑がかった瞳も、そよ風のように穏やかな雰囲気も失い、身に着ける服もアサインドシスターズとしての修道服ではなくなって。それでもなお、彼女をすぐにシスター・オルファだと気づけたのは、それだけ彼女の姿が脳裏に焼き付いているからだ。

 別れ方こそ、よいものとは言えなくとも。三年間も同じ村で過ごし、何度も顔を合わせた。ともに食卓を囲んだことも多々あった。

 そんなオルファは、牢のそばで名前を呼んだのに反応したのかぬっと身を乗り出し、四つん這いになった姿勢でイドラの方を見た。


「うぅ、ぁ。くろ、黒い、目。あれぇ? あは、は。あははは……?」


 黄金の双眸。そこから、とうに正気は失せていた。

 偽りの日々で見せた優しさでもなく。曇天の庭で見せた凍土の冷たさでもなく。そこにあるのは、情緒の散り散りになってしまった、ただの残骸だった。


「……ああ、そうか。あなたは」

「ぅ? ああぁ——あっ。あ、ああ! 見える。見えます! 星が、たくさん……瞬いて!」

「僕がわからない、のか」

「すごい、ぅ、うぅっ、すごく綺麗! なんで、なんで!?」


 同じ村で過ごし、恩人を殺した女。三年が経っても、胸に残る感情はひどく複雑で濁っていた。

 顔を合わせれば、どんな気持ちを抱き、どんな言葉を口にするのか。イドラ自身でさえわからなかった。しかし同時に、石の入り混じった砂をふるいにかけるように、再開の機会さえあればなにかはっきりとしたものが残るはずだとも思っていた。感情を精査し、複雑さを分解していくことができるはずだと。


 どうやらその機会は失われてしまった。こんなものは、再開でもなんでもない。

 女は焦点の合わない金の目で、鉄格子を両手で握りしめながら頭を乱雑に振り回している。伸び放題で脂ぎった毛髪に覆われた額が、ときおり格子にぶつかってゴンッと鈍い音を立てた。ひっくり返って、薄着の服を地面で汚しながら喚き散らす。ツンと悪臭がイドラの鼻をついた。

 オルファは完全に狂っている。……こんな有り様になってしまって、なにをどう気持ちを整理すればいい?

 そもそも会話をすることさえできはしない!


「あぁ、ああっ! 見える……視られている! なんで気が付かなかったんだろう——恐怖の大王はすぐそこに!!」

「……っ」


 仰臥ぎょうがの体勢のまま狂人が叫ぶ。見ていられず、イドラは視線を外した。


「わたしと同じ不死憑き……もしイドラさんがいなければ、わたしもこうなってた、ってこと……? わたしもこんな風に——」


 顔面蒼白でソニアが呟く。同じ白い髪。発作の段階が進めば、やがて瞳も常から黄金の狂気に染まり、言動からは論理が欠け落ちるだろう。不死の浸食は、程度の差はあれど人間に耐えられるものではない。

 よほどショックだったのかソニアはふらつき、逆側の格子にもたれかかる。そちらは無人だった。


「どうだ。君の故郷の村人を殺した女……ん? 殺されたのは逗留中の旅人だったか? すまないね、あまり覚えていない。なにせ報告に目を通したのは三年も前なうえ、どの道オルファ君のこと以外は協会に関係もないのでよく知らん」

「レツェリ! お前は……なんのつもりで! どうして! オルファさんをこんな目に遭わせたんだ!!」

「研究のためだ。オルファ君は、まあ、ちょうどよかったのでね。君の村の一件で処分が下って協会を追放になったのがよかった。そのタイミングなら消えても誰も気づかない」

「……なんだそれ。研究?」

「そうだとも。見せたかったのはオルファ君だ。彼女は私の研究——『不死宿し』の失敗作と言える。そしてそこのソニア君もそうだった。だからこそ、地震に乗じて逃げだした時ももはや長く生きられまいと看過したわけだが……まさか今も生き永らえているとは。それも正常な意識を保ったまま」

「やっぱりお前がソニアを……なにが不死宿しだ! お前のせいで、この子がどれだけ苦しんだかわかっているのか!? 人間扱いもされず、暗い岩の中に閉じ込められて!」

「知ったことか。必要な過程だ」


 イドラの激昂を、レツェリは心底どうでもいいというように一蹴する。彼が声を出すと、鉄格子のそばにいたオルファはびくりと肩を震わせ、壁の方へ四つん這いで離れていった。


「いいか、不死殺し! 無限の時間があればあらゆる悲劇を克服できる。私が行うのはそういうことだ。人が直面する悲しみ、ひいては誕生と同時に人生に巣食う死という病魔。そこから我々を解放する方法を探している」

「無限の時間、死の病魔だと? イモータル……いや、そんな。お前は、不死身になりたいのか?」


 不死の研究。人類の夢。

 それは、決してたどり着けない目標だ。変わらないものなどありはしないし、人は老い、いつか果てにたどり着く。

 しかしこの地平には例外がある。天より賜りし不壊の武具。そして、死のゼロを越えた不具合エラーたち。先達がある以上、それはまったくの不可能とも——


「そうだ。間抜けな顔をするなよ不死殺し、その不死身の生物を殺して回っているのがお前だろう。……不可能ではない。仮に神の摂理がそれを許さないのだとしても、私は必ずたどり着く」


 神の眼下で赤目がうそぶく。この世に真に朽ちぬものがあるとすれば、妥協も変化も許さぬその意志だ。

 時間が解決する、なんて成句がある。

 まったくもってその通り。不老不死、無限の時間があるのなら——どんな悲劇も苦痛も苦悩も、和らいでしまうまで待てばいい。あらゆる問題は、終わらない猶予が解決する。

 それこそがレツェリの想う安らぎであり、人という不完全な被造物が救われる唯一の方途だった。


「ソニアやオルファさんの体をイモータルに近づけたのは……イモータルの不死を、宿すため。他人で試したってことかよ」


 不死宿し。災厄をその身に宿すことで、劣化しない肉体を作る。

 だが災厄とは文字通り災い、飼いならせるものではない。その結果が、正気を溶かされたオルファの姿だ。ソニアももしイドラのマイナスナイフがなければ同様に、自分が誰かさえわからない状態に陥っていただろう。


「難航ばかりの我が研究にとって、貴様ら二人は希望の光だ。わかるだろう? 不死殺し……不死にとって天敵と言える君のギフトは、ソニア君に埋め込んだ不死の脈動を抑制している。そうでなければ説明がつかない。一年も経って、未だに自我を問題なく保ち、健常に生きているというのはな」

「勝手なことを! 今さら協力を頼み込むつもりか!? ソニアの人生を捻じ曲げておいて……そのソニア本人と、僕に! そんな勝手な話があるか!」

「頼み込む? ハッ、馬鹿を言うな」


 空気が寸断されるような威圧感。司教としての温和な言葉遣いなどとうに捨て、そこにあるのはむき出しの野望。

 星を掴もうと手を伸ばし、やがて届かないと知って手を戻す。そんな誰しもが諦める幼稚な願望を、しかし諦めきれなかった。どれだけの年月を経てもくすまぬその願い。

 一念を抱き続けるこの男こそ、生まれながらに狂っていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?