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エピローグ ~夏の来な処で君を想う~

 どれほどの時間が経ったのか、俺には分からなかった。

 俺が顔を上げた時、夕闇が森を深く包み込み、木々の影が異形の姿となって俺に迫る。

 でも、もう恐れるものは何もなかった。


「はあ。なんで連れて行ってくれねえんだよ」


 あれほどまでに感じていた不気味な気配は、嘘のように消え失せている。石祠は、ただの古びた石塊として、静かにそこに在るだけだった。


「クッソ、連れてけよ! 俺を向こう側に連れていけ!」


 乱暴に石祠を蹴り上げたり、倒そうとしたが、ビクともしなかった。

 子ども二人で動かせたのが、嘘みたいだった。散々八つ当たりして、自分にはどうしようもないんだとわかったのは、拳がずいぶんと血に染まってからだった。


「……クソ、みなとぉ、ごめんな」


 岐の神の領域との繋がりは、湊の自己犠牲によって、完全に断たれたのだろう。

 いや、もしかしたら違うのかもしれない。湊がこの森の、この場所の一部になったことで、もう願いを叶えることはしなくなったのかもしれない。

 真相は誰にも分からない。


 夜の帳が降りる頃、俺は這うようにして、石祠の場所を後にした。

 秘密基地だった廃屋を通り過ぎ、神社の境内へ戻る。振り返っても、そこに湊の姿はもうどこにもない。

 家に着いたら、親には散々怒られたし、その上、ばあちゃんにはめちゃくちゃ泣かれた。


「隼人ぉ、あんたがなあ、子供のころいなくなってな。神様に連れて行かれそうになったんじゃないかって……」

「あー、ばあちゃん。悪かったって」

「あん時は、反応もろくになくなって。じいちゃんとどんだけ心配したか。ばあちゃんより先に死なないでくれ、頼むぅ……」

「……ごめん、なさい。本当に、ごめんなさい」


 そのあと病院に行ったら、拳が骨折してたもんだから、なおさらこってり絞られた。

 しばらく、外出するのが許可制になったくらいだ。


「あの、さ。ばあちゃん、子供の頃の俺の親友、覚えてる?」

「あ? さあなぁ、アンタが確かにすごく仲良しの子がいて。うちにつれてきたことたぁ、覚えてんだけどもな」

「……そっか」


 翌日、村の空気は一変していた。

 今までどこか冷たかった風が、穏やかな夏の熱を帯び、止まっていたかのように感じられた時間が、再び動き出したように思えた。

 ただ、蝉の声は相変わらずやかましい。

 一番大きな違いは、俺の世界から、夏生 湊という存在だけが、ぽっかりと抜け落ちてしまっていたことだった。

 高校へ行っても、誰も湊がいないことに気づいていないようだった。

 担任も、クラスメイトも、彼の席が空いていることに何の疑問も抱かない。昨日まで、確かに彼はそこにいたはずなのに。


「夏生、そんなやついたっけ?」


 聞いても話にならなかった。写真から彼の姿が消えたように、人々の記憶からも、彼の存在は消去されてしまったのかもしれない。


 ――俺を除いて。

 俺の心には、湊との全ての記憶が、鮮明に刻み込まれている。

 あの夏の日の陽射しも、秘密基地で交わした約束も、再会した時の胸の高鳴りも、そして、最後に見たあの儚い笑顔も。

 それは、決して消えることのない、痛みと温もりを伴う、かけがえのない記憶。

 俺だけが、湊の全てを覚えている。

 それが、湊が俺のために、この世界に残した、最後の贈り物だったのだと悟った。

 この痛みも、この記憶も、俺だけのものだった。


「こんな残酷な、プレゼントあるかよ……湊」


 もう一生、忘れてやらない。

 俺はそう決めた。


****


 あれから、数年の歳月が流れた。

 俺は都会の大学へ進学し、水楢村を離れた。両親と祖母は、今もあの村で静かに暮らしている。

 俺の日常は、表面的には元通りになった。

 新しい友人を作り、講義に出席し、時には馬鹿騒ぎもする。けれど、心のどこかに、常にぽっかりとした空洞を抱えているような感覚は消えなかった。


「俺の心にあいつがいた場所は、ずっと空席のままだ」


 それは、湊がいた場所。

 そして、毎年夏になると、俺は必ず水楢村へ帰省する。

 祖母の家は、相変わらず古く、縁側からは手入れの行き届いた庭が見渡せる。ずいぶん年老いたが、以前のような寂しげな表情は薄れ、俺の両親と楽しそうに過ごしていた

 蝉時雨が降り注ぐのは、あの頃と変わらない。


 ひなびた村の道を一人で歩く。かつて湊と渡った橋。一緒に涼んだ大きなクスノキ。二人だけの秘密基地だった廃屋の跡。そして、あの神社の奥、今はもう誰も近づかない、静まり返った森の中の石祠。

 俺は誰もいないその場所に佇み、今はもういない湊に語りかける。


「なあ、湊。今年も夏が来たぜ。元気か?」


 大学での出来事、読んだ本の話、くだらない悩み、そして、決して色褪せることのない、彼との思い出。

 返事はない。けれど、風が木々の葉を揺らす音や、木漏れ日がキラキラと揺れる様、ふとした瞬間に香るクチナシのような甘い匂いが、まるで湊がそこにいるかのように感じられることがあった。


「最近、だいぶ暑くてさ。お前がいるところは、涼しいのか? 一応、ちゃんと冷えてる奴、持ってきたんだけどさ」


 持ってきた缶コーヒーのプルタブを開け、石祠の前にそっと置く。昔、秘密基地で湊が好きだと言っていた、がっつり甘いコーヒーミルクだ。


 独り言は、木々に吸い込まれていく。

 ふと、足元に落ちていた、形がいびつな白い小石に目が留まった。

 子供の頃、湊と集めた、他愛もない宝物の一つに似ている。


「……覚えてるか、湊。お前、こういう変な形の石、好きだったよな」


 そっと小石を拾い上げ、手のひらで転がす。

 その瞬間、涼やかな風が、さあっと頬を撫でていった。

 風は、まるで優しい誰かの吐息のように、俺の髪を揺らし、そして、祠の奥へと吹き抜けていく。

 目を開けると、目の前に広がる木々の葉が、夏の陽射しを浴びて、鮮やかな緑色に輝いていた。

 ――あの日、夢の中で見た、淡く発光するような緑。


(ああ、お前は、本当にここにいるんだな)


 声には出さない。けれど、確かにそう感じた。

 湊はもう、人の形をしていないのかもしれない。けれど、この森の風に、木漏れ日に、土の匂いに、存在が溶け込んでいる。

 俺が、覚えている限り。湊との記憶を語り続ける限り。


「お前が読んでた本、たまに思い出して読んでるんだ。洋書ばかりで、中身硬くてさ。アレしんどいよ」


 目を閉じると、瞼の裏に、白いシャツを着て、はにかむように笑う湊の姿が浮かんだ。

 色素の薄い髪、磨かれた磁器のような肌、そして、どこか憂いを帯びた、優しい瞳。

 俺の、たった一人の、かけがえのない……。


「お前も、俺のことを忘れんなよ」


 石祠に向かって、指でなぞる。「はやと」と。

 夏の来な処――夏が、もう二度と本当の意味では訪れないかのような、時間が止まった場所に、湊はいる。

 けれど、俺が湊を想い、語り続ける限り、俺たちの夏は終わらない。

 心の奥底で、今も鮮やかに。

 どこからか、あの懐かしい鼻歌が聞こえたような気がした。


 ――ゆらりゆらゆら、こかげのゆめ。かくれんぼだよ、あちらとこちら。


 木々の隙間から、空を見上げる。

 夏の青空は、どこまでも高く澄み渡っていた。その遥か向こうへ向けて、俺はそっと目を細めた。


(また来るよ、湊。お前の夢を見るために)


 最後に心の中で呟いて、俺は森を後にした。

 耳の奥には、遠い蝉時雨の音が、いつまでも優しく響いていた。

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