蝉の声が、遠い。
薄い絹を一枚、また一枚と重ねた向こう側から、じわじわと響いてくるように、現実感のない記憶が鼓膜を揺らす。
確か、茹だるような暑気に当てられたはずだ。でも、肌を撫でる風はひんやりと冷たい。温度も曖昧な不思議な感覚だった。
目の前には、鬱蒼と茂る木々。葉の一枚一枚が、陽を吸い込んでは淡く発光しているように見える。鮮やかな緑。
踏みしめる土の感触は、水面を歩いているかのように頼りない。
「待って!」
自然と声が出た。俺は誰かを呼ばなければならない。
誰かを追いかけなければならない。胸の奥から、燻る焦燥感が俺を急き立てる。
ふと、視界の端に白い影が映った。
――いつの間にか、木陰の下に彼はいた。
自分よりも小柄な少年が、陽の光を避けるように木陰に佇んでいる。色素の薄い髪が、時折吹く奇妙な風にさらさらと揺れていた。
白いシャツに、膝丈のズボン。肌は驚くほど白く、磨かれた磁器のよう。
顔立ちは、靄がかかったようにはっきりとは見えない。けれど、その存在だけは俺を惹きつけてやまない。
「……やっと来たね」
幼く声は澄み切っていた。近づきたいのに、足が思うように動かない。泥でもがいている気分だ。
少年の細く、白い指が差し伸べられた。
その手のひらに、何か黒いものが描かれているのが見えた。文字だろうか。滲んでいるけど、「はやと」と拙い字で俺の名前が。
視界に走るノイズ。
『これで、ずっと一緒だな!』
『――うん、ずっと』
懐かしいような、胸が締め付けられるような、甘く切ない響き。
この手を……手を繋がなければ。あの手に、触れなければ!
必死に手を伸ばそうとした瞬間、足元の地面がぐにゃりと歪んだ。視界が暗転し、深い穴に落ちていくような浮遊感に襲われる。
「あっ! ダメだ、まだ! アイツにまだっ」
叫びは音にならず、喉の奥で空回り。
最後に見たのは、こちらを見つめる少年の――悲しげな、なにかを諦めてしまったような、そんな瞳だった。
「……俺はっ!」
俺は、勢いよく上半身を起こした。
心臓が、警鐘のように激しく脈打っている。全身にびっしょりと汗をかいていた。荒い息を整えようと、深く深呼吸を繰り返す。
見慣れた天井。放り出された机の上の教科書。好きなバンドのポスターは壁に貼られる。
窓の外は、まだ薄暗い。ほんのり明けが差す、街が目覚める寸前の静寂だ。
俺の部屋だ……間違いなく、俺の。
「はあ、またあの夢か」
ここ最近、決まって見る夢だった。
内容はいつも断片的。けれど、後に残る胸のざわめきと、言いようのない喪失感だけは、妙に生々しい。
夢の中の少年。
顔も名前も思い出せないのに、ひどく懐かしい。そして、どうしようもなく切ない。どこかにとても大切なものを置き忘れてきたような、感覚に囚われる。
「誰なんだよ、あいつ。……クソ」
悪態まみれの声は掠れていた。
俺は、汗に濡れた前髪を乱暴にかき上げると、ベッドの端に腰掛け、しばらくの間、暗い窓の外をぼんやりと眺めた。
何も聞こえない、静かな都会の朝。
なのに、耳の奥ではまだ、あの蝉時雨が鳴り響いているような気がした。
****
アスファルトの照り返しが、熱となり揺らめく七月の初め。
俺、
成績のこと、部活のこと、友人のどうでもいい噂――全部ぜんぶ思考の表面を滑って消える。
最近、見てる夢のせいで、なににも身が入らない。
それが断ち切られたのは、親父の一声だった。
「隼人、ちょっといいか?」
親父の、いつもより改まった声色に、俺は億劫になった。食卓に、母さんがどこか申し訳なさそうな顔で座っている。
嫌な予感がした。
「なんだよ、親父」
「
「ああ、まあ。そうだな」
水楢村。親父の実家がある、山間の小さな村。最後に訪れたのは、いつだったか思い出せないほど幼い頃だ。
祖父の顔も、ぼんやりとした影のようにしか記憶にない。
「でな、ばあちゃん、最近は足腰も弱ってきてるらしい、いろいろと大変でさ」
「いろいろって?」
「土地の管理とかそういうの。早めにおれに譲るって言うんだ」
「あー……山持ってるんだっけ?」
「そうそう。で、母さんと相談して、こっちの仕事は畳んで、水楢に戻ろうと思う」
「は? マジで?!」
もうスマホをいじってる場合じゃない。冗談じゃないのは、親父の真剣な眼差しが物語っていた。
「んん、ばあちゃんの世話もあるしな。おれも仕事、なんとかなると思うし。しばらくは向こうが拠点になる」
「ちょ、待てよ! なんで俺まで!」
思わず漏れた不満の声に、親父が眉間に皺を寄せた。
「当たり前だろう、家族なんだから」
「でも、学校は……」
「手続きはこっちでする。あっちの高校に転校だ」
「わかるけど! 友だちだっているのに……」
「ああ、それは……悪いな。でも、昔は水楢で楽しそうにしてただろ? 虫捕りとか、川遊びとか。小さい頃、じいちゃんやばあちゃんに懐いてたじゃないか」
俺には幼い頃、母さんが長い闘病生活に入ったせいで、祖父母の家で暮らしてた時期がある。
だが、それが良い思い出だったのか、悪い思い出だったのかすら今となっては判然としない、霞のように微かな記憶だった。
「そんなの、覚えてねえよ……」
ようやく返せたのはぶっきらぼうな返事。でも、本心だった。
ただ、小さな棘が引っかかっているようで、憂鬱な気分になった。