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第3話 新たな生

 翌朝。神城シロウは、ゆっくりと目を開けた。


 柔らかい布の感触。天井の灯りは消えており、窓から差す朝の光だけが部屋を照らしていた。


(……あれ? ここ……どこだ……)


 寝ぼけた意識のまま身体を起こそうとして、足の短さにまた混乱する。


(ああ、そうだった……俺、猫になったんだったな)


 だが昨日までとは何かが違っていた。


 身体の芯がぬくもりに包まれている。腹の痛みも、寒さもない。目覚めた瞬間から、空腹の苦しさがいくぶん和らいでいた。


(なんで……あのまま、確かに倒れて……)


 そのとき、視界の端に誰かの姿が映った。


「……起きた?」


 黒髪の地味な女の子。スウェット姿のまま、猫の姿をした神城の前にしゃがみ込んだ。


 どこか不器用そうな微笑み。それでも、どこか優しい光を持った瞳。


(誰だ、こいつ……)


 問いかけることはできない。だが女の子はそんなシロウの戸惑いにも構わず、そっと猫缶を差し出した。


「おはよう。昨日、ずっとぐったりしてたから……ちゃんと飲めたの、うれしかったんだよ」


 美味しそう匂いが鼻をくすぐる。


 目の前に現れた猫缶にシロウは一瞬だけ躊躇したが、腹の虫が遠慮なく鳴いた。


 プライドを捨てることにした。口をさらに近づけそ直接、ガツガツと夢中で食べた。


(……うま……)


 猫の味覚になってしまったのだろう。こんなにうまいと思った食事は、人生で初めてだった。 


 仁美はそんな様子をじっと見て、ふわりと笑った。


「……よかった、食べてくれて」


 シロウは彼女の目をじっと見つめた。なぜこんな自分を――名前も知らない野良猫を、ここまで手厚く世話してくれるのか。


(わからない……)


 人間として生きていた頃、こういう無償の優しさを疑いの目でしか見てこなかった。


 けれど今、この小さな身体では、それを拒むこともできなかった。


 ただ、受け取ることしかできない。無様で、情けない、けど確かに――救われていた。




♦︎

 数日が過ぎた。

 神城シロウは、仁美という女の子と、奇妙な共同生活を送っていた。


 朝になると、仁美は安い電子レンジでパンを温め、学校に行く準備をする。


 猫となった神城は、その足元で丸くなりながら、ぼんやりとその姿を眺めていた。


「……今日も雨、か」


 窓の外を見上げてつぶやく仁美の声は、いつも少し眠たげで、どこか寂しそうだった。


(なんか……地味だな、こいつ)


 最初の印象は、ただそれだけだった。

 地味なスウェット。すっぴん。髪もひとつに結んでいて、化粧っ気はまるでない。

 でも、だからこそ逆に、神城には彼女の“素”がよく見えた。


 掃除も洗濯も最低限。料理はインスタントや冷凍食品が中心。

 けれど――それでも、仁美の部屋はどこか“安心できる匂い”がした。


(……妙に、落ち着くんだよな)


 神城シロウは、これまで高級ホテルのスイートや、豪華な自宅のベッドで眠ってきた。


 だが今、薄いタオルと洗いざらしの布団の中で、初めて「休まる」という感覚を知っていた。


 仁美は大学生だった。

 会話の中で自然と分かったことだが、どうやら奨学金とバイトでなんとか暮らしているらしい。


「……この間のバイト、また人足りないって。代わりに入れないかな……とか」


 誰に言うでもなく、独り言をぽつぽつとこぼす仁美。

 そんな声に耳を傾けながら、神城は思った。


(この女……下手くそな生き方しているな……)


 自分より誰かを優先する。それが当たり前のように染みついている。

 そういう人間は、神城にとって未知だった。

 強者の生き方しかしらない自分にとって――仁美は、まるで知らない別の生き物のようだった。


「……シロ、今日は一緒にお昼寝する?」


 ベッドの上をポンポンと叩いて笑いかける仁美。

 気づけば“神城シロウ”は、その名で呼ばれることにも違和感を覚えなくなっていた。


(……なんだよ、これ。俺、完全に飼われてるじゃん)


 屈辱……のはずだった。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。




♦︎

 仁美に拾われてから2週間が過ぎた。

 今日も、仁美が皿に開けた猫缶を。ムシャムシャと食べる猫は、最強の勇者である神城シロウである。


 不思議なことに、猫缶は究極に美味しく感じるし、時間もぐうたらしているだけであっという間に過ぎる。勇者の時はあれだけ時間と戦っていたのに、今は時計を確認することもない。


 それだけ身体だけではなく、あらゆる感覚が、猫になってしまったのだと感じる。


(さて、どうしようか……)

 拾われて数日は、逃げ出すことも考えた。けれど行動に移そうとした瞬間、身体が硬直する。


 シロウは外の世界が怖くなっていた。

 無数の精霊を屠り、最前線で英雄として称賛されてきた“神城シロウ”が――。


 今は、玄関の外に出ることすら躊躇っている。


 仁美のアパートから一歩でも離れると、途端にあの「何も持たない」世界の寒さが蘇る気がして。


(……なんだよ、それ。情けねぇにも程があるだろ)


 自嘲するように、にゃあと一声鳴いて、また毛布に潜り込む。


 プライドはずたずただ。それでも、ぬくもりからは離れたくなかった。

 その夜、仁美はバイトから遅れて帰ってきた。


「……ただいま、シロ」


 カギの開く音。細く疲れた声。部屋の灯りがついて、いつもの帰宅風景が広がる。


 神城シロウは、布団から頭だけを出してその姿を見た。


 びしょ濡れの傘をたたみ、制服のようなシャツの裾から、ほんの少し肌が覗く。少し猫背気味に重たいリュックを降ろすと、ため息をついて小さく笑った。


「今日は……大変だったなあ。あ、でもシロはちゃんとお利口にしてた?」


(別に何もしてねぇよ……寝てただけだし)


 反射的に心の中で毒づいたが、すぐにそれを虚しく思った。


 “最強”でない今の自分に、こうして毎日声をかけてくれる人がいる。


 名前を呼ばれ、ただそこにいるだけで、「ありがとう」と言われる。


(……それだけで、こんなに……)


 胸の奥に、小さく灯る火があった。

 “強さ”や“称賛”では埋められなかった、何かが――確かに満たされはじめていた。


 仁美はジャケットを脱ぐと財布をとりだして、小銭を貯金箱に何枚も入れる。


 ほぼ毎日みる光景。


 小銭を入れ終わるたんびに、そこそこ重量のありそうな貯金箱をもちあげ、ルンルンで嬉しそうに重さを確める彼女がいた。


 そんな様子を観察するシロウに仁美は気付いた。


「……ふふっ、何? そんな顔して。撫でてほしいの?」


 しゃがみこんだ仁美が、優しく指先でシロウの頭を撫でる。


 その手つきに、敵意も打算もない。ただ、無条件の“ぬくもり”だけがあった。


(……馬鹿か、俺は)


 最強の勇者が、地味な女子大生に甘えている。


 だけど――それが、どうしようもなく心地よかった。


 その晩、布団の隅でうとうとと眠りに落ちようとする中で、仁美の声がふと聞こえた。


「……シロ。ほんとはね、私……ペットを飼えるほどお金がないの……バイトだってたくさん入れているけど、ほとんど大学の授業料で消えちゃう……」


 ぽつりと呟くような声。


「でもさ。なんでだろうね。手を差し伸べたくなったの…・いつもそうなんだよね。困っている人を放っておけなくて……お金だって全然ないのに……君を拾ってきちゃった……」


 シロウは、身体を丸めたまま、目を開けて彼女の顔を見た。


 それは告白ではなく、ただの独り言だった。そして彼女の目には涙が滲んでいた。


(……そんな理由で、俺を……?)


 かつて無数の人々を救いながら、その全てを“結果”と“人気”のために計算していた神城レイには、その在り方が理解できなかった。


 けれど今、人を助けることに見返りを求めない彼女の考え方に――少しだけ、憧れに似た感情を覚えていた。


「……元気になったらいつでも出て行っていいからね……」


 彼女の顔はなにかを押し殺し、どこか寂しそうに見えた。


(……いつか、また“人間”に戻れたら)


 もし、戻れたとしたら。俺は。


どう生きればいいのだろう……



 翌朝、仁美は遅刻ぎりぎりの時間に、慌ただしく身支度をしていた。


「うわー、ヤバい……シロ、今日のごはんここに置いておくね!」


 パンをくわえたまま片手で靴を履き、玄関を飛び出していく。


(ったく……朝からドジばっかり)


 布団の上で丸まっていたシロウは、あきれたようにため息をついた。


 けれど。


(……行ってらっしゃい、くらい言ってやってもいいか)


 思ってしまった自分に驚いた。


 他人がどうでもよくて、自分のためだけに生きてきた自分がこんな誰かのことを気にするなんて。


(本当、弱くなったな……)


 数時間後、インターホンが鳴った。


「ピンポーン……宅配でーす」


 シロウは顔を上げた。仁美はもう学校に行っている。当然、猫のシロウはインターホンに出ることが出来ないし、扉も開けられない。何も出来ない。


 チャイムのあと、玄関のドアノブがカチャ、と揺れた。


(……なんだ?)


 次の瞬間。


 ドアが不自然にこじ開けられる音がして、無遠慮に中年男が部屋に上がり込んできた。


「へぇ、女子大生の一人暮らしか? 適当に漁って終わりだな」


 強盗だった。


 薄暗い部屋に、物色する足音が響く。リュックに物を詰める音。


(ふざけんな……!)


 布団の下から飛び出したシロウは、思わず吠えるように鳴いた。


「にゃあああああ!!」


 男は驚いて足を止める。


「……なんだよ、猫か。うるせぇな、蹴るぞ?」


(……やめろ!泥靴で踏み込むな)



 毛を逆立てて、低く唸る。しっぽを膨らませ、侵入者の足元に飛びかかった。


「うおっ、なんだよコイツ!」


 男が思わずリュックを振り回す。シロウは空中でそれを食らい、壁際に叩きつけられた。


 「ギャッ……!」


 骨がきしみ、身体がしびれる。視界が揺れて、腹に鈍痛が走る。


(……チッ、力が、足りない……)


「ペットの分際で、あまり俺をおこらせるな。殺すぞ!!」


 男は再び背をむけ、物色を再開する。雑に引き出しや棚をあけ、何もなければイライラしだし、中身をぶちまける。


 部屋は何かの資料や、小物で散らかり酷い状況だ。


「何もねーじゃねーか!!ハズレかよ!!今時の女子大生は金持っているんじゃねーのかよ!!」


 男は荒々しく家具を蹴り倒し、ぐしゃぐしゃにされた教科書の束を足で踏みつけた。


 そのときだった。


 カラン――と、鈍く小さな音が鳴る。


「……ん?」


 棚の下、埃にまみれた隙間から、男の目に“陶器の豚”が映った。


 丸っこいボディ。赤いリボンが首に巻かれていて、背中には小銭投入口。


「なんだよコレ……貯金箱か?」


 ずしり、と持ち上げる。


 中にはずっしりと詰まった硬貨の重み。シャラシャラと心地よい金属音が響いた。


「……まぁこれだけでいいか……ショボイけどな……」


 にやりと笑い、リュックの中に押し込もうとする――その瞬間。


 「ニャァァ」


 低く、獣の声が部屋に響いた。


 猫の鳴き声のはずが、そこには“意志”が込められていた。


 足元は震えている。片目には傷があり、口元から血が滲んでいた。


 だが、その瞳だけは――燃えるような怒りで、侵入者を睨みつけていた。


「……まだいたのかよ、クソ猫が……」


 男は貯金箱をリュックに突っ込みながら、足で追い払おうと前に出る。


 その瞬間。


 部屋の空気が、びりりと揺れた。


 白猫の全身が、一瞬だけ光をまとったように見えた。


 それは“結”。神城シロウの勇者の力。


(その貯金箱は、あいつが……)


 低く、怒りを噛み殺すように唸った。


(毎日、嬉しそうに小銭を入れていた……)


(仁美が、どんな気持ちで小銭を貯めていたのか。そんなはした金を貯めてなんになるのか俺には分からない。けど、それを失ったらまたあいつは泣いちまう)


 あいつがどれだけ慎ましく、弱いなりにどれだけ必死に日々を過ごしていたのか。


 この部屋のぬくもりが、どれほど努力の末に守られていたものか――


 それを知っているのは自分だけだった。


「だから……お前なんかに、触らせねえ!」


 瞬間、猫の姿のまま、風が巻き起こった。


 神城シロウが“他人のために使用する”――”結”。


 床を蹴る音すらなかった。


 気がつけば、空き巣の手元から貯金箱がはじき飛ばされ、床に転がっていた。


「……なっ!?」


 男が振り返る暇もなく、視界いっぱいに鋭い閃光が走る。


 猫の爪が、正確に男の顔面へと飛びかかった。


「うがああああああああ!!」


 悲鳴とともに、サングラスが吹き飛ぶ。頬には三本の鮮血が走った。


 痛みと恐怖に耐えきれず、男はリュックを放り投げて、玄関から転げるように逃げ出していった。


 激しく閉まるドアの音。


 それが、この小さな部屋に静寂を戻す合図だった。


 息を荒くするシロウの足元で、コロンと転がる豚の貯金箱。


 薄くひびが入っていた。


 シロウは静かに、それを鼻先で押し戻した。


 それが――彼女が大切にしていた「生活の証」だから。


 彼の瞳には、もう“世界を救う使命”なんてものはない。




♦️

 午後9時。外はすっかり日が暮れていた。


 仁美は肩からずり落ちかけたトートバッグを引き上げながら、静かな住宅街を急ぎ足で歩いていた。


 いつもより遅くなったバイト。客のクレーム対応で時間を取られたせいだ。疲労が全身にまとわりつき、靴の底が地面に貼り付くような感覚すら覚えていた。


 ポストの鍵を開け、階段を上って自室のドアノブに手をかけた。


 ――カチャ。


 開いていた。


「……え?」


 胸が一気に冷える。誰かが入った形跡。いつもと違う部屋の匂い。


 仁美は玄関を飛び越えるようにして中へ駆け込んだ。


「――ッ!」


 部屋はめちゃくちゃだった。


 開きっぱなしの引き出し。棚から落ちた本。床に散らばる紙と小物。机の上に置いてあった文庫本には、踏みつけられたような泥の跡。




「……うそ、でしょ……空き巣……?」

「……」

「お金は!?」


 仁美が探したのは貯金箱だった。彼女が毎日、小銭を入れていた大切なもの。5年もの間ちょっとずつためた努力の証。


 急いで、棚の下を確認する。

「ある……」


 けれど貯金箱には傷がついていたけれど、中身は無事だった。


「よかった…………」


 立ち尽くす仁美の足元に、ふらりと黒い影が現れる。

「ニャァー」

 白色の子猫が見知らぬリュックを押して仁美に近づく。

 そのリュックには仁美のもろもろの貴重品がいくつも入っていた。



「シロ……」


 尻尾を引きずりながらも、しっかりとした目でこちらを見上げていた。鼻の頭には血がにじんでいる。片足をかばって歩いているようだった。


 仁美は膝をつき、両手でそっとシロを抱きしめた。


「ごめんね……こんな時に、ひとりで……」


 震えた声で呟く。


「……守ってくれたんだよね。あの貯金箱、割れちゃったけど……中身、無事だったもん」


 胸元で、シロが小さく喉を鳴らす。


 仁美はその音を聞きながら泣いた。


 悔しさでも、怒りでもない。


 大切なものを守ってくれた、その小さな存在に対する――感謝だった。


「ありがとう……」


 優しい声だった。


 神城シロウは、それをただ静かに聞いていた。


 (対して何もできなかった……俺が守れたのは貯金箱だけ……結局空き巣を部屋を荒らされてしまった……それでも……)


 最強の力で世界を守っていた頃とは違う。


 たったひとりの、無力な女子大生の「ありがとう」に――今までにないほど、心が揺れていた。



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