翌朝。
真昼間の都会にてゴミ袋の隙間に、ぴくりと尻尾が動いた。
目を覚ました猫――神城シロウは、まだ自分が置かれた状況を理解していなかった。
(……え、俺、なんで……こんなところに……?)
ゴミの臭いが鼻を突き、背中に紙くずが貼りついている。足を動かそうとしても、違和感しかない。
(手じゃねえ、これ……足……猫みたいだ……?)
自分の姿が、人間ではないと気づくのに、そう時間はかからなかった。
神城シロウは、すぐに“現実”を突きつけられた。
目の前にある水たまり。その水面に映る自分の姿は——どう見ても「猫」だった。
白く輝く毛並み。尖った耳。丸い瞳。小さく、軽すぎる身体。
(うっそ……だろ……?)
シロウは全身をバネのようにして飛び上がり、金属ゴミの山をよじ登る。
だが、それすらうまくいかない。
(動きが、鈍い……いや、違う。身体が軽すぎるんだ。体重が……バグってる……!)
鼓動が速くなる。理解が追いつかない。
猫に変わってしまったという事実も意味が分からないが、それ以上に、志郎にとって恐ろしい事実があった。
(結が使えない……)
体内に”結”の流れを感じる。結は猫に姿が変わっても保持できているようだ。しかし操作することができなかった。結は操作できなければなんの意味を持たない。
(どうすれば……)
これまでの人生、何が起きると”結”で解決してきた。持って生まれた類稀なる結の才能があれば、私生活で困ることなどないに等しい。それ故に結が使えない状況が恐ろしかった。
猫としての身体は軽く、小回りは利く。しかし、結を操作できないという事実は、「ただの動物」でしかない現実を突きつけてくる。
――そんなときだった。
カサッ、と近くの袋が揺れた。
反射的にシロウは飛び退く。ゴミ袋の影から現れたのは……、
痩せた野良猫だった。目が合った瞬間、相手は威嚇の声を上げた。
「シャアアアッ!!」
バチン、と音がするほどしっぽが逆立つ。
(あ、これケンカ売られているやつ……)
だがシロウは戦えなかった。身体が強張って動かない。筋肉の使い方も、バランスの取り方も、人間のそれとはまるで違っていた。
野良猫はさらに低い姿勢を取り、間合いを詰めてくる。
(やばい、マジでやばい……)
神城は本能的に逃げ出した。
小さな足で路地を駆け、壁をよじ登り、隙間をすり抜ける。
背後から聞こえる、野良猫の唸り声。人間だった頃の“神城シロウ”なら、目もくれなかったであろう、ちっぽけな相手――
けれど今のシロウにとっては、十分すぎる脅威だった。
やがて野良猫は諦めたのか、途中で追うのをやめた。
(はあ……はあ……なんなんだよこれ……)
息を切らしながら、シロウは小さな植え込みの陰に身を潜めた。
冷たい風が吹き抜ける。その風の中で、神城の心には冷えきった孤独が残った。
(俺は“最強”だったはずだ……。最強じゃないなら “俺”じゃない……)
すでに真昼間で人が多い都会をとぼとぼと慣れない四足歩行で歩く。
こんな姿から見上げる人間は子供だろうと恐ろしく巨大だ。
(人間ってこんなにでかいんだ……)
できるだけ車や人通りの少ない道を選んで歩くようにした。
猫の姿で結も使えない今のシロウでは幼稚園児にすら勝てない。
車に跳ねられでもしたら一発アウトだ。
(あー、今ごろ田所は慌てふためいて、俺をさがしているんだろうな)
本来なら今日のこの時間も、撮影や、インタビューの仕事をしていたはずだ。
当日仕事を飛ばして消えたとなれば、マネージャーの田所は顔を青くしていることだろう。
ましてや、神城は勇者ランキング1位で、国民的勇者である。いなくなったとなれば、大々的なニュースになることだろう。
(腹減ったなー)
とぼとぼと人を避けて、道の端を歩きながら、腹の減りを感じる。
しかし、猫のエサの獲り方などしらない。結が使えればなんとでもなるが、今のシロウはあまりに無力すぎる。
空っぽの胃が、何度も音を立てる。飲食店の匂いが鼻を刺すたびに、よだれが出そうになるが、どうすることもできなかった。ゴミ箱を漁ることすらできなかった。プライドがそれを許さなかった。
――気づけば、彼は高級タワーマンションの前に辿り着いた。
(……ここ、アミのマンションじゃん)
昨晩、向かう予定だった場所だ。本来なら人気女優アミと楽しい夜を過ごせるはずだったのに……。
彼女とは何度か番組で共演し、最近はいい雰囲気になりつつあった。
(……もしかしたら……アミなら、気づいてくれるかもしれない。彼女は優しいし、もしかしたら何が食べ物をくれるかもしれない)
そんな期待を抱き、神城はマンションのエントランス前に座り込んだ。
何度も入り口を見つめ、時折来る人の顔に反応し、そして……待った。
――そして、ようやく夜。10時間ほど冷たいコンクリートの上で待っていた時。
高級車が一台止まり、アミが現れた。サングラスを外し、軽やかな足取りでエントランスに向かう。
シロウは必死に駆け寄り、鳴き声を上げた。
「ニャッ……ニャァッ!」
(俺だ!神城シロウだ!!昨日は行けなくてごめん……こんな姿になってしまったんだ。気づいてくれ!!あとなにか食べ物をくれ!!)
だが彼女は立ち止まり、猫の姿をした神城を見下ろした。
「……」
「……キモ。野良猫?ばい菌だらけの身体で近づくんじゃねーよ」
嫌悪感を露わにしたその一言。アミはそれ以上目もくれず、エントランスの自動ドアを通って、冷たく建物の中へと消えていった。
(は?……)
(……嘘、だろ……)
胸が痛んだ。心臓が締め付けられるようだった。
(女優なんて裏の顔があって当たり前だ。そんなこと知ってたはずなのに分かっていたのに……期待なんかして……だせー……)
自分1人でなにもできず他人にすがることしか考えれなくなった自分が……情けない。
(俺はこんな情けないやつじゃない……1人で最強なのに……)
自分の存在が、誰にも認識されず、見向きもされず、ただの野良猫として扱われる。その現実が、シロウの心を深くえぐった。
それからというもの、シロウはひたすら彷徨った。
昼も夜も関係なく、都会の片隅をさまよい、食べ物を求めてゴミ箱を見ては――結局手を出せず、空腹のまま歩き続けた。
何もかもが、怖かった。自分よりもずっと大きな人間たち。通り過ぎる車。無邪気にボールを追いかける子どもすら、恐怖の対象だった。
(……俺は、なんでこんなことになってんだ)
理由なんてわかっていた。あの突然現れた不気味な男が、死に際に放った“願い”。あの強烈すぎる、呪いのような願いのせいだ。
(“弱くなればいい”……か)
その通りだ。今のシロウは、最強でも、勇者でも、国民的アイドルでもない。ただの野良猫だ。名前すらない、ちっぽけな命。
気づけば、街灯もない道に入り込んでいた。
舗装された道路から外れ、草が伸び放題の空き地を越え、シロウはいつの間にか、都会の喧騒が届かない郊外の住宅街へと辿り着いていた。
空腹と寒さと疲労が限界を迎え、足がもつれた。ふらついた拍子に、溝に転げ落ちる。泥にまみれながら、それでも立ち上がることができず、シロウはそのまま、冷たいコンクリートの上に倒れ込んだ。
(……もう、ダメだ……)
目が霞む。呼吸が浅くなる。鼓動が遠くなる。誰かの声が、ふと耳元で聞こえた気がした。
「……大丈夫……?」
それが幻聴ではないと気づいたのは、小さな手がそっと身体に触れたときだった。
「やだ……どうしたの?……」
優しい声だった。どこか懐かしい。あたたかくて、柔らかな布で包まれて、神城はゆっくりと意識を手放した。
弱り切った勇者に救いの手が差し伸べられた。
♦︎
部屋の中は静かだった。
日が暮れた郊外の住宅街。アパートの一室、蛍光灯の白い光の下で、仁美はソファの上に寝かせたタオルの塊をじっと見つめていた。
その中で丸くなっていたのは、今にも息を引き取りそうな白猫だった。
「……生きてる、よね?」
小さく震える身体。目も開かない。口元は乾いていて、足は泥だらけ。明らかに衰弱していた。
仁美はそっと指先で猫の額をなでた。
「大丈夫……もう怖くないから。ここ、あったかいよ」
猫は反応を見せなかった。けれど、仁美はそれでも話しかけるのをやめなかった。
「ひとりだったの? ……わかるよ。わたしも、ひとりだから」
仁美は、白い湯気の立つボウルを運んできた。中には、ミルクを薄めた温かいスープが入っている。スプーンですくって、そっと猫の口元に当てる。
すると、ほんのわずかに、舌が動いた。
「あ……飲んでる……」
仁美はホッと息をついた。知らない命が、彼女の手の中で、確かに生きようとしていた。どこから来たのかも、なぜこんなに傷ついているのかもわからない。だけど、助けたいと思った。
自分にできることなんて少ない。でも、「今ここにいるこの命を守ること」なら、きっと……
仁美はそっと微笑んだ。
「……名前、つけようか。んー……真っ白な毛並み……」
仁美は白猫の顔をじっと見つめた。
「――“シロ”って、どう?」