冷たい風が吹き抜ける昼下がりの駅前。ビルの谷間に沈んだような場所で、人の波が行き交っていた。構内から吐き出される人々の足取りはせわしなく、誰もがスマホかイヤホンに気を取られていた。
その雑踏のすぐ近く――踏切を背にした狭い路地で、バイクが突如スリップするように転倒した。甲高いブレーキ音と金属音が交差し、跳ねたヘルメットがアスファルトを弾く。数人の通行人が振り返り、どよめきが広がる。
運転していた青年は、路上に仰向けに倒れながら、震える指でスマホを探っていた。血は出ていない。大きな外傷も見当たらない。それでも、彼の顔には明らかな怯えが浮かんでいた。
「……急に、ブレーキが効かなくなって……」
ふと漏れたその声に、近くの交番から駆けつけた若い警官が眉をひそめる。軽傷で済んだことに安堵する一方で、その“呟き”が妙に耳に残った。
整備不良か、操作ミスか。現場検証では原因は判然としないままだった。
――他にも、似たような“偶発事故”が重なっていた。
夕暮れ時、足早に通勤帰りの人々が列をなす中、一人の女性が警報音の中でつまづくように転んだ。警報機がけたたましく鳴り、電車の接近を知らせる。
彼女を見つけた男性が咄嗟に腕を引いて救出したが、救急搬送の最中に女性が言った。
「……足を掴まれたんです。誰かに、でも……誰も、いなかった……」
踏切カメラには、周囲に誰もいない様子が映っていた。足元にも障害物はなし。検証に訪れた警察官たちが顔を見合わせた。
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「てな感じで最近、よう事件を目にするんや。悲しいことに、空飛んでると街の異変がよう見えるんやなー」
錆びついた街灯の上に、黒い影がとまっていた。カラスのハヤトだ。橙に染まる空を背に、光を吸い込むような漆黒の羽が風に揺れる。
彼は一声短く鳴いてから、ふわりと羽ばたいて地面へと降りた。すぐ下のベンチには、一匹の白猫が背筋を伸ばして座っている。
ハヤトは軽やかに隣へ着地した。小さな音すら立てない。猫とカラスが並ぶその光景は、通りを歩く人間たちの目には映らない。彼らにとって、それはただの風景の一部だった。
夕暮れに照らされた小さな広場。ベンチの背後には落ち葉の溜まった植え込みがあり、風が通り抜けるたびに乾いた音がする。
二人は毎日のようにこの場所で会っていた。正確には、シロウの散歩時間にハヤトが合わせて飛んでくるのだ。最初はただの偶然だったが、今ではすっかり日課のようになっていた。
シロウは細い前足で体を伸ばし、大きなあくびを一つ。
「で? 何が言いたいんだよ……俺たち小さき動物には、あんま関係ない話だろ」
気だるげな口調とは裏腹に、その金色の瞳はほんのわずかに警戒心を滲ませていた。
「それがなぁ、大アリなんや!」
ハヤトは翼を小さくバサバサと揺らし、興奮気味に前へにじり出た。
「俺が言いたいのはな――偶然ちゃう、ってことや。街で起きてる“事故”、全部な、よう見たら妙なんや」
「……ん?」
シロウは片目だけを開けて、相棒を見やる。
「この一週間で、踏切事故、ブレーキ故障、駅のホームでの転倒……いっこいっこは小さい。でもな、よーく見たら“結”が反応しとる!」
ハヤトの声色が、少し低くなる。
「ほんの一瞬やったけどな……確かに見えた。俺ら勇者が使う“結”とは明らかに違う。濁ってて、重くて、――黒い結や」
その言葉に、シロウの尻尾がぴくりと揺れた。
視線をそらしながらも、心の奥では確かな記憶が疼いていた。
(俺を“猫”にしたあのときの……あの黒く濁った結。あれと同じだってのか? ……だとすれば、あいつらがこの街に……)
その想像に、胸の奥で微かに警戒の火が灯る。
「どうするんや?」
「……もし黒い結を使う奴が街にいるんなら、ラッキーじゃないか?」
シロウは肩をすくめるように答えた。
「俺たちの今の姿じゃ遠くまでは行けねぇし。まあ、街にいるってんなら、一応探してみる価値はあるだろ」
「ほんま、お前ってやつは、前向きなんか投げやりなんか分からん猫やな」
ハヤトはくちばしで胸元の羽を整えながら、ふっと笑った。
舗道に伸びた影が、風に揺れた街路樹の影と重なって、地面にゆらりと歪んだ模様を描く。
「ただの悪戯や事故のレベルなのが、不思議よな……」
ハヤトが空を仰ぎ見るように首を傾けた。薄雲が太陽を遮り、空が一層重苦しい灰色に沈む。
「俺たちの姿を動物に変えられるほどの実現力がある奴らが、“足を引っかける”とか、“ブレーキを効かなくする”とか、そんな小規模なことばっかり……」
「……実験してるのかもな」
シロウが静かに呟いた。目を細め、なにかを探るように空気の流れに耳をすます。
「実験……?」
「黒い結の“届き方”をな。距離、強さ、対象……どういう条件で願いが現実化するか、試してるんじゃないか?」
その仮説に、ハヤトが小さく鳴いた。カラスとしての本能なのか、周囲をくるりと見渡すように首を回しながら、不安そうに羽を震わせる。
「なるほどな……まずは目立たん小さな事故からってわけか。けどなぁ……」
不意に、ハヤトの声色が重くなった。
「俺をカラスにしたような奴が、そんなちまちまテストするようなタイプに思えんのや」
羽ばたきひとつでビルを越え、雷鳴のような一撃を見舞うSランク勇者、久我ハヤト。その彼を一撃で地に落とした“黒い結”の持ち主を思い返すと、確かに性質が噛み合わない。
「もっとこう、ド派手に暴れ回るタイプやと……思ってたんやけどなぁ」
「……まぁ、多分別人だ」
「お前をカラスにした奴と、俺をネコにした奴――あれは別人だ」
一瞬、ベンチの上に静寂が走る。
街の喧騒が遠のいたように感じられた。風が落ち葉を転がす音だけが、世界に残されたように響いている。
「……なんやて?」
ハヤトの声は、かすれるようにして漏れた。
その黒い瞳がじわじわとシロウに向けられる。羽ばたきもせず、ただそこにじっと立ち尽くしている。
「理由ははっきりしてる。俺の相手は、俺の目の前でナイフで自害した。実力はそこそこだったが、あれが勇者ランキング5位のお前に勝てるとは到底思えねえよ」
そして、
「つまり――お前をカラスにした奴と、俺を猫にした奴は別人。共通しているのは、どちらも“黒い結”を使っていたってことだ」
……その意味を、ハヤトはじっくりと噛みしめていた。
しばらく沈黙が落ちる。
羽根の先が微かに震えていた。
「……“黒い結”を使える奴が、複数いる……?」
「その可能性が高くなるよな……しかも、それぞれが特定のターゲットを狙っている節があるんだよな……」
ハヤトはぎこちなく、数歩だけベンチの上を歩いた。まるで、何かを確かめるように。
「偶然やなしに、“組織”の可能性もあるやんけ……。共通の思想を持った集団が、勇者を潰そうとしてるとか……そういう方向か……」
「……今起きている小さな事故が、その準備段階の実験かもしれないな――」
曇天の空の下、二匹の小さな影はじっと動かず、雲の隙間を照らす夕焼けを見つめていた。
人々は、スマホを見ながら笑い合い、すれ違っていく。彼らは知らない。この街に、黒い願いが確実に忍び寄っていることを。
「……っと、そろそろ帰らねーと。仁美に散歩してるのバレちまう」
シロウはひょいとベンチから飛び降り、しっぽを軽く揺らした。
「またな、ハヤト。……あんまり無茶すんなよ」
「分かっとる分かっとる。異変があったらすぐ知らせるわ」
そう言ってハヤトはふわりと宙に舞い上がる。街の上空、くすんだ雲と夕焼けが入り混じる空へと、黒い羽根の影が消えていった。
シロウはその背を見送りながら、そっとひとつ息を吐いた。
(……まだ、証拠はない。だが、偶然とは思えない)
(……もしかしたら、思ったより早く元に戻れるかもしれないな)
(……でも。俺がいなくなったら、仁美は……)
その考えを振り払うように、白猫はしっぽを高く掲げて住宅街の方へと駆け出した。