ティアラ・クレメンティスは、豪華な天井画の描かれた屋敷の広間に立ち尽くしていた。その目は、父である伯爵エドワード・クレメンティスをじっと見つめている。父は手元の書類を無表情で握りしめ、彼女に一枚の手紙を差し出した。手紙の封蝋には、隣国の名門公爵家、ハロルド公爵家の紋章がくっきりと刻まれていた。
「ティアラ、お前にとって喜ばしい知らせだ。このたび、隣国の公爵レオン様との縁談が決まった。公爵家から正式な婚約の申し入れがあったのだ」
父の言葉を耳にした瞬間、ティアラの心臓は跳ね上がった。喜ばしい? どこが? 彼女はそう叫びたかったが、口を閉ざしたままだった。伯爵家の次女であるティアラにとって、この話が自分の意思を無視して進められたものであることは明白だった。
「私が……隣国の公爵様と?」
ようやく声を絞り出したティアラの顔には、困惑と驚き、そして怒りが浮かんでいた。
「そうだ。この縁談は我が家の未来を左右する大事なものだ。お前がハロルド公爵家に嫁げば、我が家は隣国の後ろ盾を得られる。そして何より、公爵家からの資金援助で我が家の財政難も解消される」
父の声には、感情の欠片もなかった。それは単なる事実を述べているだけであり、そこには父親としての温かさも、娘への配慮も感じられなかった。
「お言葉ですが……その公爵様は、どのような方なのでしょうか? 私は一度もお会いしたことがありません」
ティアラはできるだけ冷静に問いかけた。だがその内心では、不安と恐怖が渦巻いていた。
「レオン・ハロルド公爵だ。隣国で最も力を持つ名門の当主であり、若くしてその地位を継いだ才覚ある人物だ。しかし噂では冷酷無比とも言われている……だが、そんな噂は無意味だ。お前が彼の妻となることで我が家は救われる。それがすべてだ」
父の説明を聞きながら、ティアラは拳を握りしめた。冷酷無比――それがどれほどのものかは分からないが、自分が幸せな結婚生活を送れる未来は、今の時点で薄いものに思えた。
「お断りすることは、できないのでしょうか……」
彼女は思わずそう口にした。だが、父はその言葉を聞き流すように、机の上の手紙を指で軽く叩いた。
「断るなど論外だ。我が家の存続がかかっているのだぞ、ティアラ。お前が望むかどうかなど、考慮する余地はない」
ティアラの胸には、父の言葉がまるで刃のように突き刺さった。伯爵家の一員としての義務、それは彼女が幼い頃から教え込まれてきたものだった。しかし、それが自分の人生そのものを犠牲にする形で強要されるとは思ってもみなかった。
「では、私は……家のための駒というわけですね」
ティアラは静かに言い放った。その声には悲しみも怒りも込められていたが、父は眉ひとつ動かさずに彼女を見つめた。
「そうだ。それが貴族としての務めだ。お前もそれを理解しているはずだ」
理解――確かに頭では分かっている。だが、心はそれを受け入れることを拒絶していた。ティアラは静かに頭を下げ、その場から立ち去った。
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部屋に戻ると、ティアラは窓際の椅子に腰を下ろし、庭を見つめた。そこには色とりどりの花が咲き乱れ、美しい光景が広がっていた。しかし、今の彼女にはそれがまるで別世界のように感じられた。
「どうして……私がこんな目に遭わなければならないの?」
小さな声でつぶやいたティアラの目には、涙が浮かんでいた。彼女はこれまで、伯爵家の一員として、何事にも従順であるよう努めてきた。だが、それが報われることはなかった。今回の縁談はその象徴のように思えた。
ティアラはふと、母の言葉を思い出した。幼い頃、母は彼女にこう語ったことがある。
「ティアラ、貴族の娘として生まれた以上、私たちは家族のために生きるの。でも、どんな状況でも、自分の心だけは失わないようにしなさい」
母の言葉は、彼女の中に小さな希望を灯した。自分の心を失わない――それがどんなに難しいことであっても、ティアラはそれを胸に誓った。
「たとえこの結婚がどんなに不幸なものでも、私は……私自身であり続けるわ」
そうつぶやいたティアラの瞳には、少しだけ光が戻っていた。彼女は立ち上がり、決意を新たにした。そして、まだ見ぬ未来に向けて、一歩を踏み出す覚悟を固めた。