「あの……?」
「お、ほ、ほほ~ほほ、ほひっ、よ、よ、妖精さん……っ」
え、ほんとこの人大丈夫か。首を傾げて歩み寄ろうとすると、イェレミーアスに抱え上げられた。
「お久しぶりです、アイゼンシュタット伯爵夫人」
アイゼンシュタット伯爵夫人んんんんん?! この挙動不審な女性騎士さんが?! 目をまん丸にしてイェレミーアスを仰ぐと、美貌のピンクサファイヤはちょっと眉尻を下げて唇を笑みの形にして頷いた。ヤバい、驚きの余り思わず指さすとこだった。
「いいいいい、いらっしゃい、ピンクサファイヤのおうじさま……妖精さんっ……ほわぁぁぁ! 妖精さんと王子さま……あなた、あなたっ! ほんとうに妖精さんだわ……っ」
「そうだろう、そうだろう? 私は嘘を吐かないよ、マルテ」
マルテ。どこかで聞いた名前だ。マルテ・アイゼンシュタット。マルテ……、……。
「堅牢のマルテ! もしや、マルテ・シュレーデルハイゲン様ですか?!」
「えっ、えっ、えっ、妖精がわたしの名前を呼んでる……っ、呼んでるわ、ルーヘン……っ! どっ、どどっ、どっ、どうしよう……っ!」
「呼んでるねぇ。あっはっは。驚いただろう? 妖精さん。妻はかわいいものが大好きでねぇ。君のこと、きっと好きだろうと思って呼んじゃった。あっはっは」
「きゃあ……っ!」
ゴスゴス鈍い音をさせて、アイゼンシュタットの肩を叩いているマルテさんを呆然と眺める。割りとゴツめのアイゼンシュタットが、その衝撃に堪えきれずよろめいている姿は怖い。普通に引く。
「こちらこそ、皇国初の女性騎士にしてオーベルジェの反乱では五万の軍勢を相手にシュレーデルハイゲン城を守り抜いた英傑『堅牢のマルテ』様にお会いできるだなんて、光栄です」
すごい人なんだよ、皇国はバカバカしいほどの男尊女卑社会だから女性は爵位を継げないし、騎士になることもできない。マルテさんはその常識を覆した初めての女性だ。もちろん、お父上のシュレーデルハイゲン閣下の力もあるが、実力がなければ認められるものではない。
「はわわ……どうしようルーヘン、妖精さんに褒められてるわたし、褒められてる……!」
しかしなんだろう、二つ名と目の前の人物が繋がらないな。始終はわわわしている。本当にこの人、ぼくが本で読んだ英雄だろうか。本が多少盛ってるにしても、こんなはわわわした人が戦えるんだろうか。アイゼンシュタット公爵と夫人は夫婦で戦場に立てば「血風灰塵」の異名を持つ。曰く、二人の通った後には塵も残らぬ、と。
「どうだい、マルテ。妖精さんをね、メグのお婿さんに来ないかって誘ってるんだけど」
「おっ、おとっ、お父様っ!」
「あっ、あなっ、あなたっ!」
「「天才ですわっ!」」
母子が見事にハモった。何だろうこれ。何だろう。アイゼンシュタット伯爵家側の反応が予想と大分、違う。ぼくの脳裏には、パイを頬張りながら勝ち誇るローデリヒの言葉が聞こえた気がした。
ルーヘン様、おもしろい人だって言ったろ? スヴェン。
考えることを放棄したぼくに、伯爵家の執事さんから救いの一言が耳へ届く。
「ともかく、お客様を屋敷の中へご案内させてくださいませ、伯爵様」
「そうだね、妖精さん! さ、こっちにおいで!」
アイゼンシュタットがぼくへ手を差し伸べる。すい、とイェレミーアスが半身を交わして笑みを浮かべた。
「お気遣いなく、アイゼンシュタット様。スヴァンテ様は私がお連れいたしますので」
「……イェレミーアス、君……」
まじまじとイェレミーアスの顔を見て、アイゼンシュタットは自分の顎を指で撫で回した。イェレミーアスはいつも通り、穏やかな笑みを浮かべてアイゼンシュタットに相対している。
「大分、いい顔をするようになったじゃないか。うん、今までの『この世の全てに興味がない』って顔より随分いい。うふふ、いいねぇ、やっぱり君は面白いねぇ、妖精さん」
まただ。アイゼンシュタットはまた、自分の唇をゆっくりと舐めた。その目には、紛う方なき狂気が浮かんでいる。やっぱり、この人は一筋縄ではいかない。
アイゼンシュタット伯爵夫人とマルグレートのためにぼくを呼んだ、というのは建前だろう。油断できない相手だ。先導されるままに屋敷の中へ入る。ベアトリクスはマルグレートと庭を散歩すると言ってその場へ残った。やはりマルグレートにぼくを会せることが目的ではなかったのだろう。
案内されて屋敷へ入ると、玄関ホールから見える大きな階段の踊り場に、
「私はね、君とイェレミーアスがどうやって知り合ったのかとても興味があるんだよ」
応接室へ通され、お茶が並ぶなりアイゼンシュタットはそう切り出した。イェレミーアスはぼくを膝へ乗せたまま、穏やかに微笑んでいるがこれぼくにも分かるぞ。作り笑いだ。それも結構、鉄壁のヤツ。
「ジーク様を通じてリヒ様からのご紹介ですよ。ジーク様は、ぼくの幼なじみですので」
嘘は言ってない。アイゼンシュタットはローデリヒを知っているようだし、ローデリヒはアイゼンシュタットを嫌っていないから、嘘は吐けないだろう。だからその部分について、ぼくらが嘘を吐くのは好ましくない。アイゼンシュタットがその穴を突かないとは限らないからだ。
ぼくがそう答えて、頭を傾けると髪の間からほろほろと小花が零れ落ちた。
「よ、妖精さん……本当に髪にお花が咲いてる……すごい……美しい……」
マルテのことは気にしないことにした。気にしたら負けだ。何故かそんな気がした。
「君、今までずっと離宮に居て表には出て来なかっただろう? 妖精さん。君が妖精と呼ばれるにはちゃんと理由がある。以前から君のことは、誰も姿を見たことがない『離宮の妖精』と一部の貴族には呼ばれていたんだ。君は知らないようだけど、フリュクレフの王族といえば精霊から愛されているから銀の髪、淡い瞳の色の美形揃いと有名だ。アンブロスもそれなりだから、フリュクレフ令嬢とアンブロスの子はきっと美しいだろう、とね」
「皆さんお暇なようです。困ったものですね、スヴァンテ様」
「知らぬものへ、人は想像を膨らませる生き物ですから」
精霊から愛されている。イェレミーアスもおそらく、アイゼンシュタットの発言を警戒しているだろう。元々フリュクレフ王家が精霊に愛されているというのなら、精霊学の第一人者であるルクレーシャスさんが知らないはずがない。アイゼンシュタットはその情報を、どこから得たのか。
「そうかな? フリュクレフ王家特有の雪色の肌一つ取っても、青白いだけのクリストフェルやシーヴとは違う。君の肌は雪というより、まるでガーデニアの花弁のように甘く匂い立つ色合いなのは何故だろうね? 君自身が花だと皆、噂していたよ?」
守るように抱き込まれ、肩へ置かれたイェレミーアスの手に力が籠るのが分かった。イェレミーアスがすごく不愉快だと感じていることだけは伝わって来る。イェレミーアスも美形だから、不躾な値踏みをする視線には覚えがあるのかもしれない。確かにこのねっとりと纏わり付く眼差しは不快だ。
「……ご期待に添えず、皆さんがっかりなさったことでしょう」
ルチ様の寵愛のお陰で、ぼくに毒の類いは効かない。だから遠慮なく紅茶へ口を付ける。アイゼンシュタットは僅かに意外、という表情をした。
「いいや。期待以上さ。アンブロスに似た平凡な髪色、瞳も鳶茶でここまで美しければ、きっとフリュクレフ王家の色彩を持って生まれていれば変態どもがこぞって君を手に入れようとしただろうね。例えば――」
つまらなさそうにティーカップを弄び、アイゼンシュタットはあの偏執的な瞳をぼくへ向けた。
「――エステル・フリュクレフに未だ執着している、ミレッカー宮中伯家とか」
「――っ」
イェレミーアスに倣って笑顔の仮面を被っておかなければ、露骨に不快感を表してしまっていただろう。ゆっくり顔を傾けると、アイゼンシュタットの虹彩はぼくの唇の左下へ流れた。