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第43話

 イェレミーアスにとってはそれでもやはり、ぼくは恩人なのだろう。だがやはり、伯爵令息のイェレミーアスが何の爵位も持たないぼくへ謙っているのはよろしくない。ぼくが恩人であろうと、いずれイェレミーアスはこの国の国防を担う辺境伯の地位を取り戻すという目的もある。戸惑うイェレミーアスへ、ぼくから提案してみる。

「じゃあ、ぼくはイェレ様をイェレ兄さまとお呼びするので、イェレ兄さまはぼくを弟のように愛称で呼ぶ、というのはどうでしょう?」

 ぼくへシャツを羽織らせ、ボタンを留めるイェレミーアスへ提案する。顔を上げ、ぼくを見つめてイェレミーアスはじんわりと頬を染めた。

「……もう一度、呼んでいただいても?」

「……イェレ、にいさま?」

 ふわぁ、っと大輪の花が開くように微笑んで、イェレミーアスはぼくの両手を下から捧げ持つようにして揺らした。

「分かりました。では、私はスヴァンテ様のことをこれから『ヴァン』とお呼びしますね」

「……っ、うぅ~ん……、はい」

 どうしよう。ルチ様もぼくのことを「ヴァン」と呼ぶけど、イェレミーアスがそう呼ぶのを聞いたら拗ねるだろうか。だがルクレーシャスさんの腕からはぼくを奪うように抱っこするルチ様も、なぜかイェレミーアスには寛容なのだ。イェレミーアスにも妖精や精霊が見えていることと関係があるのだろうか。

 シャツのボタンを留め終えると、イェレミーアスは紺地の裾に白いラインとリボンが付いた半ズボンを、穿きやすいように差し出す。

「さ、私の肩へ手を置いて。片足ずつどうぞ」

「はい」

 オッドマンチェアへ立ち上がり、ズボンの腰に通された紐を結ぶイェレミーアスのつむじを眺める。ジークフリードなら身の回りを世話する侍従や侍女も皆、子爵以上の身分である。当然だが爵位もないぼくに対して伯爵令息にこんな真似、させてはいけない。そんなわけで一応、フレートにもぼくに他の侍女を付けるよう話をしたのだが、深いため息と共に首を横へ振られてしまったのだ。

「ラルクがスヴァンテ様のお世話を出来るようになるまで、イェレミーアス様にお願いすることに決まりました。これはルクレーシャス様からのご指示で、ヨゼフィーネ伯爵夫人にもイェレミーアス様にもご了承頂いていることですので、覆りません」

 いつの間にそんなことになったのだろうか。何かあの侍女が問題を起こしたようだ。それならぼくに言ってくれればいいのに、何で仲間外れなんだろ。おまけに見かけなくなったと思っていた、入浴介助の侍従たちも解雇されてしまったようだ。最近はラルクとイェレミーアスとぼくで一緒に入る。もちろん、入浴の時もイェレミーアスがぼくのお世話をしてくれる。これやっぱ、おかしくない? よくないよね?

 納得はいかないけど、ルクレーシャスさんが決めたのなら理由があるに違いない。ぼくは渋々頷くしかなかったのである。

「さ、おぐしを整えましょう」

 とてもいい笑顔で、イェレミーアスが鏡越しに告げる。とても嫌々やっているようには見えない。だけどダメだよね? これ絶対ダメなやつだよね?

「……はい」

 でもこんなことしなくていいって言ったら、ものすごくしょんぼりするんだもん。断り切れない。

 鏡台に座らされ、寝ぐせを直しながら髪を梳かれる。

「ヴァンのおぐしは絹糸よりも滑らかでずっと触れていたくなります。だから妖精たちもヴァンのおぐしへ触れたがるのでしょうね」

「そう、かなぁ……?」

「ええ」

 寝ぐせがなくなると、イェレミーアスは整えるように軽く表面へブラシを走らせる。ここら辺で妖精たちも加わり、髪に花が編み込まれて行く。伸ばした髪は肩を過ぎ、もうすぐ背中へと達しそうだ。

「さ、参りましょうか」

「はい」

 もうね、最近はぼくも抱っこされるプロならイェレミーアスも抱っこするプロですよ。イェレミーアスに抱えられ、食堂までの廊下を行く。

 食事はルクレーシャスさん、ヨゼフィーネ伯爵夫人、イェレミーアス、ベアトリクスとぼくで取る。ラルクは最近、フレートにテーブルマナーを習っているようだ。少し寂しいが、ぼくも貴族の常識に慣れて行かなければならない。

 食後は各自少々休んだら、ぼくとイェレミーアスは一緒に勉強。ベアトリクスはヨゼフィーネ伯爵夫人にマナーとダンスを習い、午後はぼくらと入れ替わりでぼくらがマナーとダンス、ベアトリクスは女性の家庭教師に勉強を習う。その後はおやつを食べたら、イェレミーアスは剣術の稽古だ。ぼくはイェレミーアスの稽古を見学しつつ、本邸の工事を見守りながら木陰で本を読む。

 タウンハウスへ移ってから、ぼくが読書をする時、定位置にしている木陰に現れる精霊がいる。金色の長い髪に、芽吹いたばかりの若芽色の瞳をした精霊だ。話しかけても喋らないので、ぼくは勝手にその精霊を「木漏れ日の精霊」と呼んでいる。木漏れ日の精霊は、ぼくが読書の途中で居眠りしてしまった時などはすぐ傍まで来るけど、大体木の上か幹の陰からこちらを見ているだけだ。

「ひょっとして、離宮のぼくの部屋の窓から時々、こちらを見ていましたか?」

 話しかけたら慌てた様子で木の陰へ隠れてしまったけど、多分そうなんだろう。とてもシャイな精霊のようだ。今度ルチ様に知り合いかどうか聞いてみよう。タウンハウスでイノシシや鹿を飼っているという話を聞いたことはないが、背中に花が咲いているイノシシや、角に透明の薔薇が咲いている白い牝鹿が時々庭を散歩している。あれも精霊だろうか。

 木漏れ日の精霊が来ない日は好奇心から大工さんたちに色々聞いて回っている。しばらくするとルクレーシャスさんに止められてしまった。邪魔するつもりなんてないのに。その後は大体、イェレミーアスの稽古にローデリヒが合流するので、時には夕餉を食べて行く。

「そうだスヴェン、親父から招待状預かって来た」

「分かりました。ルカ様もご一緒してください。ああ、ヨゼフィーネ伯爵夫人もベアトリクス様も招待されていますね」

「それでは他の招待客を確認しておきますわ」

「ヨゼフィーネ伯爵夫人宛の招待状と、ぼくとイェレ兄さま宛の招待状を見比べてもいいですか」

「ええ、どうぞ」

 ぼくがイェレミーアスのことを「イェレ兄さま」と呼ぶと、ローデリヒは横目でイェレミーアスを見て、微かに肩を竦めた。

 招待状を見比べる。イェレミーアスへ宛てた招待状は、ヨゼフィーネ伯爵夫人やベアトリクスの名前もあり連名の招待状となっている。だがヨゼフィーネ伯爵夫人とベアトリクスのみに宛てたお茶会の招待状には、お茶会の後に晩餐のお誘いがないことに気づいた。つまりお茶会に呼んだ貴婦人たちは晩餐には呼ばれていない。その時間で話しをしよう、ということだろう。

「オレんちでメシ食っても全然楽しくねーよぉ、スヴェン」

「仕方ないですね……前菜を一品ぼくがお持ちします、とエステン公爵へお伝え願えますか。リヒ様」

「やったぁ! 親父もさ、スヴェンの料理を食うの楽しみにしてるから、早く招待してやってくれよぉ」

「お茶会には、お菓子も持参しますよ」

「かーちゃんも喜ぶよ。何しろ早く妖精に会わせろってうるさいのなんのって」

「妖精かぁ……その呼び方、何とかなりませんかね。何か、ちょっとアホな子っぽいじゃないですか……」

 ぼくがぼやくと、イェレミーアスが珍しく強い口調で否定した。

「いいえ、ヴァン。ヴァンの美しさを前に皆、まさに妖精のごとくとしか表現できなくなるのです。馬鹿にしているわけではありません。現に私もフレートもベステル・ヘクセ様も、あなたの美しさに惑わされた不埒者を排除するのにどれだけ苦労していることか」

 イェレミーアスがぼくを「ヴァン」と呼んだ瞬間、ローデリヒは仰け反って体ごと視線を動かしイェレミーアスを見た。イェレミーアスは無言でローデリヒへ笑顔を向けている。

「精霊様はスヴァンテ様に危害を加えようとする輩は弾いてくださるのですが、過ぎる好意を抱く不埒者までは弾いてくださらないようで……」

 フレートがちょっと遠い目をしてる。なんなの、不埒者って。一体いつ、どこに居たのさ。聞いてないよ、そんなの。最近ぼくに隠しごとが多いんじゃないかな。そういうの、よくないと思うよ。

「無駄ですよ、イェレミーくん。スヴァンくんはほんと、自分の容姿に無頓着だから」

「喋ると分かるのにな。スヴェンは見た目だけなら風が吹いただけで泣いちゃいそうだけど、割りと気が強いし言い返すし負けず嫌いだって」

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