「じゃあな、スヴェン、ジーク、アス。また来るわ!」
晩餐を済ませて帰る頃には、ローデリヒはすっかりいつも通りだった。ジークフリードは晩餐後も少し残ってお茶を飲んでいた。旧シュトラッサー伯爵家別荘のコモンルームには、庭へ出るためのフランス窓はない。それでも採光のために大きく取られた窓から見える、まだ花の植わっていない庭の上空に三日月が浮かんでいた。
「……すまん」
ジークフリードは本当に聡い子だ。この件に巻き込まれたことで、一番割を食ったのはぼくである。黒幕が本当にミレッカー宮中伯であるならば、他の誰よりも己を危険に晒すことになったのもまた、ぼくだ。ジークフリードにはそれがよく分かっている。
「いいんですよ。その代わりジーク様の権力は使えるだけ使わせていただくので」
「うむ。好きなだけ使え。……それから、アス」
「はい、殿下」
ソファから立ち上がりながら、ジークフリードはイェレミーアスへ硬い声で命じた。
「スヴェンを信じろ。お前だけはスヴェンを絶対に疑うな。迷うな。……独りにするな。それが危険を顧みず何の縁もないお前を救おうと奮闘するスヴェンに対する、何よりの礼儀だ。よいな」
「はっ」
音を鳴らすほど強く踵を打ち合わせ、手を当てた胸を張ったイェレミーアスは紛うことなき騎士だった。改めて、彼は騎士となるべく育てられたのだと実感する。それから、幼い時から戦うべく育てられることの意味をふと思った。それを、イェレミーアスは本当に望むのだろうか。もし別の生き方もあると示したら、イェレミーアスは騎士として生きることを選ぶのだろうか。この世界では、誰もが狭い選択肢の中で生きている。
見送りのために立ち上がると、ジークフリードは軽く手を上げて首を横へ振った。
「見送りは要らん。ここはオレの別荘だからな。だろう? スヴェン」
「少し見ないうちに、ジーク様は図々しくなられまして」
「ははっ! お前は嫌味になった」
「いってらっしゃいませ。お早いお帰りをお待ちしておりますよ、ジーク様」
手を振って、扉の向こうへ待たせたオーベルマイヤーと立ち去るジークフリードの背中を眺める。
それから三日は、タウンハウスへ越してからすっかり定番になった生活をしていた。
朝、剣の稽古を終えたイェレミーアスがぼくを寝室へ起こしに来る。ベッテがメイド長になって多忙になり、ベッテ以外の侍女に着替えを手伝ってもらうのが苦手なぼくの身支度を手伝うのが、イェレミーアスの日課になってしまっているのだ。
ぼくはベッテ以外にお世話をされたことがないので、普通の侍女が何をどこまでしてくれるものなのかも分からない。胸の間で温めた靴下とか、ちょっと怖いじゃない? 気遣いなのかも知れないけどベッテにはそんなこと、されたことないもん。木下藤吉郎かよ。普通に嫌だわ。そりゃ信長だって怒鳴り飛ばすわ。
そんなわけで、ぼくが侍女が少し苦手なのだと話をしたら翌日、イェレミーアスが隠れて様子を見ていてくれたらしい。ぼくも気づかなかったんだけど。
そしたら途中で血相変えて出て来て、すぐさまその侍女を連れて出て行ってしまった。最近その侍女を見かけない。別の場所へやられたわけでもなさそうで、解雇されてしまったのかな……と少し気になっている。だって他の侍女も胸の間から靴下とか下着とか出して来てたから、あれが普通なのかと思ってたんだよね。違うのかな。疑問を口にしたら、イェレミーアスの顔色が変わった。
「スヴァンテ様、他にも気になることはございませんか?」
「え……? えっと、ここの侍従はみんな、入浴の時ぼくの体を素手で洗うんですけど、他のおうちでもそうなんですかね……?」
「……少々ここでこのままお待ち下さい、スヴァンテ様」
爆速で走り去るイェレミーアスが消えた廊下の角辺りから、フレートが鬼の形相でどこかへ走り去るのが見えた。イェレミーアス以上の爆速だったので、二度見したくらいだ。その後戻って来たイェレミーアスは、片時もぼくの傍から離れなくなってしまった。何があったんだろう。
そんなわけで、それ以降ぼくの着替えや入浴はイェレミーアスが手伝ってくれることになっている。
「スヴァンテ様。おはようございます」
「うん……、おはよ、ございます……」
目が開かない。まだ寝てたい。でもイェレミーアスが起こしに来てくれたのに、そんなわけには行かない。
ベッドから起き上がろうとするぼくの背中へ、イェレミーアスの手が添えられた。イェレミーアスの手は、常にほんわり温かい。
「イェレ様のおてて、いつもあったかいですね」
「ああ……私は炎の魔法を使うせいか人より体温が高いようです。不愉快なようならおっしゃってくださいね、スヴァンテ様。抑えることもできますので」
「大丈夫。あったかいです。だからイェレ様のだっこ、気持ちよくて眠くなっちゃうんですね……」
穏やかで物静かなイェレミーアスが炎の魔法使い。印象とは逆のような気がしてしまう。ぼくのごくごく個人的な見解を述べると、イェレミーアスには水や土の方が似合うと思う。人となりと、使える魔法の属性は一致しないものなのだろうか。
すぐ脇のマットレスが、少し沈んだ。イェレミーアスが腰をかけたのだろう。
「目を擦ってはいけません。赤くなってしまいますよ。ほら」
目に濡らしたタオルが当てられた。しばらくそのまま大人しくしておく。優しく両目を拭かれ、離れて行くタオルの感覚に目を開く。
「お湯を用意しました。洗面台へ移動しますね」
「はい」
イェレミーアスへ凭れかかり、抱え上げられる。洗面台の足元には、ぼく専用の踏み台が置かれている。踏み台にはマットが敷かれている。その上へ慎重にぼくを下し、イェレミーアスは洗面器へ準備されたお湯へ手を入れ、少し湯加減を見た。
「どうぞ」
「はい」
じゃばじゃばと顔を洗い、目を閉じたまま顔を上げる。途端に背中へ手を添えられ、顔にはタオルを当てられた。
「イェレ様。ぼく、一人でできますよ……」
「私がしたくてしていることです。させて、もらえませんか?」
ぽんぽん、と柔らかく水気を拭き取られ目を開く。起き抜けから美少年を浴びせかけられて断れる人間など存在するのだろうか。ぼくはここ数日繰り返した自問自答に、いつも通り負けた。
慎重にソファへ下される。オッドマンチェアへ足を置くと、両手で包んで温められた。
「イェレ様、あんよはばっちいですよ……」
「スヴァンテ様の小さなかわいいあんよは、汚くなんかないですよ」
「でもね、イェレ様。イェレ様はルカ様が『お預かり』している伯爵令息で、ぼくと身分は変わらないのですよ。だから、こんな、使用人みたいなことはしなくてもいいんです……」
なんなら身分的には爵位を持たないぼくより、イェレミーアスの方が上だ。靴下を履かせながらイェレミーアスは破顔した。ソックスガーターを手際よく付けながら、ぼくを仰ぎイェレミーアスが答える。
「そうですね。でも私は、スヴァンテ様のお着替えを手伝うのが楽しいのです。他の者にはとても譲れません。ダメ、ですか?」
「……うぅ……っ」
確かに最近はイェレミーアスが服を選んでくれるから、フリフリだのヒラヒラだのが少し押さえられている。温かいからと三日連続で侍女からカボチャパンツっぽい半ズボンを差し出された時は、イェレミーアスの後ろに隠れて一時間駄々を捏ねた。イェレミーアスが服を選んでくれるようになって、ぼくはカボチャパンツから解放されている。カボチャパンツかイェレミーアスに朝から傅かれる日々か。究極の選択である。
しかしそれでも、線引きは必要である。貴族社会というのは、他人の目にどう映るかが重要だからだ。
「あの、でもぼくやっぱりこういうことはきちんとしないといけないと思うんです。だから例えば、イェレ様はぼくへ様付けして呼ぶのをやめる、というのはどうでしょう?」
「うーん、しかし私は敬語の方が楽なのです、スヴァンテ様」
「敬語が楽なのはぼくもなので分かります。でもイェレ様はぼくより大分お兄さんですし、やっぱり呼び捨てにしてほしいです。ダメ、ですか?」
敬語が楽なのはほんと理解できる。相手の年齢も立場も関係なく、敬語で喋る癖が付いていれば意図せず無礼を働く可能性が限りなく低くなるからだ。さらにぼくは、前世の記憶があるから余計に、である。
年が近いと紹介されて出会う同年代の子供たち、精神的には全員年下だからね。イェレミーアスやローデリヒは年上だが、それはこの世界に於いてであり、どうしても彼らが自分より年下という気持ちが抜けない。だからこそ、満遍なく敬語で話すのが楽なのである。
「……ですが……」