「ヴェルンヘル。オレからも頼む。オレの軽率さがスヴェンを巻き込んでしまった。お前が責任を感じる必要はない。だが、どうかスヴェンを助けてやってくれ。頼む。そのためなら、いくらでもオレの名前を使って構わん」
「……そんな……君は、それでいいのか?」
エステン公爵はまっとうな「親」の顔でぼくを見た。ああ、この人なら信じていいだろう。にっこりと微笑んで見せる。
「大丈夫ですよ。ジーク様は、ぼくがこれからこき使う予定ですから」
「う……うむ……。お手柔らかに頼む……」
「手加減なんか、しませんよ?」
命がかかっているかも知れないからね。割りと真顔で言ったぼくに、ジークフリードは少しだけ不安な表情をした。ジークフリードとぼくの間に、小さな光が点る。そこを起点に、魔法陣が展開されて行く。
「ただいま」
魔法陣から現れたルクレーシャスさんの手には、茶色い髪の男性がぞんざいに摘まれている。重力に耐えきれなくなった男性は、床へどさりと落ちた。ぴくりとも動かない。
「……まさかルカ様……殺してしまったんじゃないでしょうね……」
「……まったく、君はわたくしを何だと思っているんだい。うるさかったから、気絶させただけだよ。人聞きの悪い」
「日頃の行いのせいですからね、ルカ様。エーベルハルト卿をブタに変えようとしていたこと、ぼく忘れてませんよ」
「んふっ」
ジークフリードがお茶を零しそうになっていた。吹き出さなかっただけまだ偉い。メイドが慌ててタオルを持って来る。ジークフリードはタオルを受け取って、自分の口の周りを拭いている。
「……んんっ……、ほら、スヴァンくん。こいつが自殺できないように、加護を付与しておきなさい」
「ごまかした」
「ごまかしたな」
「ごまかしましたね」
「ごまかしましたな」
ルクレーシャスさんへツッコミを入れたぼくたちとは打って変わり、イェレミーアスと、ヨゼフィーネ伯爵夫人、それからベアトリクスは床に転がった男を一切の感情が削げ落ちた瞳で見つめていた。ブラウンシュバイクを目にした途端、罵るかと思った。だが三人は帳を下したように無表情だ。だからこそ、彼らの胸の内は計り知れない。ここはさっさとブラウンシュバイクを見えない場所へやってしまうに限る。ぼくはエステン公爵へ尋ねた。
「エステン公爵閣下、ブラウンシュバイクをどちらへ収監しますか」
「あ、ああ。ルーペルト、牢へ入れておけ」
「かしこまりました」
執事が出て行ってしばらくすると、騎士たちがやって来てブラウンシュバイクを連れて行った。
「ブラウンシュバイクはいつ頃、目を覚ましますか? ルカ様」
「一時間もすれば自然に目を覚ますよ」
「二、三日は食事だけ与えて放置しておきましょう。彼にはここがエステン公爵邸であることを悟られないようにしてください。三日後、ぼくが話を聞きに来ます。本当に黒幕がミレッカーなら、ここが皇都でエステン公爵家だと知れば連絡を取ろうとするかも知れません。今はまだ、ブラウンシュバイクに対して情報を遮断して混乱させておいた方がいい。ハンスイェルクが口封じに来たと考えるなら、そうさせておきましょう。もしそのようなことを言ったならば、エステン公爵閣下がブラウンシュバイクを助け出した、ということにして情報を引き出せばよいのです」
「天使さまみてーな顔しておっかねーなぁ……」
ローデリヒがぼそりと呟く。ジークフリードが苦笑いした。
「摘み取る時は、一つ残らず根こそぎ絶やさねば意味がないのですよ、リヒ様」
例え謀られたのだとしても、この人が協力しなければラウシェンバッハ伯爵が殺されることはなかっただろう。だからこそ、ブラウンシュバイクを謀った人間を許してはいけない。だからこそ、ハンスイェルクを唆した人間をそのままにしてはいけない。だからこそ、どのような理由があろうとも愚かにも唆され、加担した者を許してはならないのだ。椅子を降り、イェレミーアスの横へ立つ。膝で握り締められた拳へ手を置き、寄り添う。
「絶対に、一人残らず償わせますから。だから少し、お部屋で休ませてもらいましょう? イェレ兄さま、ヨゼフィーネ様も、ベアトリクス様も」
きっと、ここでは泣けないから。ぼくの考えを汲んだのか、エステン公爵夫人がヨゼフィーネの肩を包む。
「さ、案内するわ。ヨゼフィーネ、ベアトリクス」
二人はまるで影のように立ち上がった。ぼくとイェレミーアスに歩み寄って来たメイドが、深々と頭を下げる。
「さ、お二人もお部屋へご案内いたします」
「ええ。お願いします。ジーク様、ぼくらは失礼しますね。お見送り、できないかも知れませんので今ご挨拶させてください。お気を付けて」
「ああ……気にするな。オレは適当に帰る。二人とも、今日は休んでくれ」
イェレミーアスのために用意された客間へ案内してくれたメイドに尋ねると、ぼくの部屋は隣だと言われた。まるで水の中を進むように足取りの重いイェレミーアスを、とりあえずソファへ座らせる。黙って隣へ座り、膝へ置かれた手を握る。しばらく無言で己の膝へ置いた手へ目を落としていたが、搾り出すようにイェレミーアスが言葉を吐き出した。
「……父は、私が初めての狩りで獲物を捕まえた時、本当に嬉しそうに才能があると褒めてくれた。バルテルにだって、叔父へだって、他の家臣と同じに公平に評価していたけれど、それでも他とは違う信頼を示していた。家臣を思い、領民を思い、最善を尽くしていた。自慢の父だった。だから私は、父にとって自慢の息子でありたいと願った」
ただただ、頷く。何を口にしても、無責任な他人の意見でしかない。イェレミーアスの想いをぼくが知ることはできない。ぼくはイェレミーアスではないから、彼の痛みを一つ残らず理解することはできない。
「……父が、何をしたっていうんだ……?」
握った手の甲へ、ぽつりと熱い雫が落ちた。人は人を殺す。事情があってもなくても、他人から見ればどうでもいいことや、逆恨みでしかないことを理由に、人は人を陥れる。復讐せよとも、復讐するなとも、他人に口出しができるだろうか。イェレミーアスの痛みは、イェレミーアスにしか分からないのに。
ぼくの体じゃイェレミーアスを包み込むことができない。けれど手を伸ばした。ぎゅっと抱きしめる。不格好に横から張り付いているようにしか見えなくても、抱きしめる。一人にしないことくらいしか、ぼくにはできないから。
「どうして……っ」
その疑問もまた、同じだ。どうして「そう」したのか。行動を起こした本人の口から理由を聞いたとして、本当にそれを理解することはできない。何故なら、どうやっても当人にはなれないのだから。
だからこそ、苦しいのだ。だからこそ、どうしても理不尽に奪われた命とあるはずだった未来を、思いを、消せないのだ。
ぼくの胸へ縋りついた、イェレミーアスの頭を包み込む。ピンクブロンドの髪を小さな手で撫でる。この時ほど切実に、大人の体だったらと願ったことはない。
ぼくの胸に嗚咽を滲み込ませるイェレミーアスの頭を、ぼくはいつまでも静かに撫で続けた。