昨夜はそのまま、イェレミーアスに付き添って一緒に眠った。朝、目が覚めてもいつもと違って魂が抜けたようになってしまったイェレミーアスの顔を濡らしたタオルで拭って、準備してあった服へ着替えさせ、ぼくの着替えはフレートに手伝ってもらった。
「アス……」
顔を合わせても、一言も発することのないイェレミーアスを支え、ローデリヒはぼくらの馬車へ乗り込む。
「母上、オレはアスたちと一緒にスヴェンのところへ行って来るよ」
「分かったわ。わたくしも明日にはそちらへお邪魔してもいいかしら、スヴァンテちゃん」
「はい。お願いします」
きっと、ヨゼフィーネとベアトリクスにはエステン公爵夫人が付き添ってくれた方がいいだろう。エステン公爵夫人は、馬車に乗り込むヨゼフィーネとベアトリクスの手を握って抱きしめていた。
「明日には伺うわ。ヨゼフィーネ、ベアトリクス」
「ええ、ユーディト。待っているわ……」
彼らにとって、ここからが始まりなのだ。ようやく、始まった。何故、夫は、父は、殺されなくてはならなかったのか。解明し、向き合わなくてはならない。長く、辛い戦いが始まるのだ。
「スヴァンテ君。あとは任せておきなさい」
「はい、エステン公爵閣下。よろしくお願いいたします」
「私のことはヴェルンヘルと呼びなさい。息子の恩人にまで閣下だなんて呼ばれたくないんだ」
「……ありがとうございます、ヴェルンヘル様」
小さく頷いて、エステン公爵は最後にイェレミーアスの肩へそっと触れた。ぼくもその場で頭を下げ、イェレミーアスの背中へ手を置く。
「イェレ兄さま。帰りましょう」
「……」
ぼくが手を引くと、無言のまま付き従う。吐き出してくれた方が、周りとしては助かる。だが、イェレミーアスの中では今、きっと様々な思いが渦巻いていて外へ出すどころではないのだろう。だからゆっくり、吐き出してくれるのを待とう。
馬車に乗ってしばらく揺られながら、見るとはなしに外の風景を眺める。ローデリヒも、ルクレーシャスさんも、視線は外へ向けているが気持ちはイェレミーアスを見ている。
「……絶対に」
手を握ったまま、イェレミーアスの肩へ頭を寄せる。繋いだ手が、僅かに動いた。
「イェレ兄さまを、おうちに帰してさしあげますね。それまではタウンハウスがぼくらのおうちで、ぼくはイェレ兄さまの家族ですよ」
「……っ、ふ……っ! ……っ、うぅ……」」
覆い被さるように、抱きしめられた。大粒の涙が、すすり泣きと共にぼくの肩へ降り注ぐ。泣いてしまえばいい。好きなだけ、思い切り。つらくて当然だ。悲しくて当たり前なんだ。
イェレミーアスの背中を撫でながら、ふと目をやるとローデリヒが唇を引き結んで泣いていた。穏やかな親友が泣く姿など、おそらく今まで見たことがなかったのだろう。イェレミーアスの背中を撫でながら、ぼくは自然と口ずさんだ。
「うさぎ追いし彼の山……
日本語で歌ってしまったのだが、ローデリヒもルクレーシャスさんも無言でぼくの歌を聞いている。ぼくはこの世界の歌をあまり知らないから、レパートリーが少ない。馬車の単調な揺れに、この歌はよく合う。他にもいくつか日本の童謡を、小さな声で歌った。
ぼくがいつまでも、前世を忘れられないように。帰りたいよね。戻りたいよね。戻りたいのも、帰りたいのも、もう戻らないひとの居た、幸せな時間だとしても。切望する気持ちは、誰に否定できるものでも、無理に押し込めておけるものでもない。
気が付くと、イェレミーアスはぼくに凭れたというか、覆い被さったまま寝てしまっていた。慎重に体を動かそうとしたら、ローデリヒとルクレーシャスさんが手伝ってくれた。膝枕の状態で、イェレミーアスの前髪を払う。残る涙の後が、普段なら落ち着いた態度のイェレミーアスも、まだ子供であると訴えかけるようだ。
志を果たして、いつの日にか帰らん。この歌は、まさにイェレミーアスの心情に近いのではないだろうか。
そういえばルチ様もこの歌、好きだったな。リズムが単調で心地いいのだろうか。何かこの世界の人の好む要素があるのかも知れない。
ぼくの歌を聞いていたルクレーシャスさんが、ぼそりと漏らす。
「不思議な歌だね。なんだかとても懐かしくなるよ」
「そうですね。この歌は、『いつか帰りたい』と故郷を懐かしむ歌なんですよ」
ローデリヒがすん、と洟を啜りながらイェレミーアスへ目を向けた。
「これまでは、突然のことに呆然としていたところがあるのではないかと思うんです。これからはお父君を奪われた理不尽に、向き合って行かなくてはならない。怒りも焦燥も、これまで以上に味わうことになるでしょう。だからリヒ様、どうかイェレ兄さまを支えてくださいね。今まで通りで、いてください。きっとそれが、イェレ兄さまにとっては一番の支えになるから」
「……うん」
タウンハウスへ到着すると、いつもなら玄関先へ待ち構えているはずのルチ様が、馬車の中まで迎えに来た。
「ルチ様、あのね……」
そっと首を横へ振って、ぼくごとイェレミーアスを抱え込むと滑るように歩き出す。ぼくに膝枕されているイェレミーアスを見たら、きっと不機嫌になると思ったのに意外だ。ぼくが何か言ったわけでもないのに、イェレミーアスの部屋へ向かって行く。そしてまた、ぼくごとイェレミーアスと一緒に、ベッドへ下ろされた。
「しばらくはぼく、イェレ兄さまとおねんねするかもです」
『……うん』
珍しく聞きわけがいいな。でも正直、助かる。イェレミーアスの現状を考えると、いつも通りに拗ねられたならさすがにぼくも本気で怒らなくてはならないと思っていたからだ。
「またお歌を、歌いますね。聞いて行かれますか」
『うん』
イェレミーアスを起こさないよう、小さな声で歌うぼくの横へ寝転がったルチ様が、ぼくを抱え込む。胎児のように丸まるイェレミーアスへ寄り添うぼくをさらにルチ様が抱え込んでいるので、三人歪な川の字に並んでいて、何だか不思議な図である。
『ヴァン、もっと、歌って』
答えずさらに歌を続ける。そうしていつの間にか、ぼくも眠ってしまったようだった。
目を開くと、イェレミーアスに手を握られていた。穏やかな勿忘草色がぼくを見つめている。いつからそうしていたのだろう。勿忘草色をぼんやりと眺める。瞬きのたびに音がしそうなほど長い睫毛のせいか、その虹彩は縁が少しだけピンクがかって見える。
「ヴァン。私の絶望を照らす太陽。私の世界の中心に、君はいる」
「ぼくは……おひさまなんかじゃ、ありません」
そう。どちらかといえば。
「日中でも、月が見えることがあるでしょう? 月って昼間に太陽と共に上るんです。だから夜に見える月は、実は沈んで行くところなんですよ」
ぼくは太陽じゃなくて、せいぜい昼の月か沈む夜の月です。
「そうか。でもね、ヴァン。ヴァンは欠けたり満ちたり沈んだりしない。いつも変わらず不動で優しく見守ってくれている。まるで、あの中天の星のように」
「ふふ……夜空の真ん中にある星は、ポラリスって、言うんですよ……」
「ポラリス?」
「そう。ポーラスター。北極星ですよ」
「そうか。そう……、そうだな。きみはあの、控えめだが強く煌めく星のようだ」
優しい手がぼくを抱きしめた。頬を寄せられ、目を閉じる。
「ならば私は君を休ませる夜になろう。君に仇なすものから君を隠す温かな闇になろう。片時も君の傍を離れぬ影になろう。私はあの愚かな明け空の星のように、君を目指して夜明けに旅立つだろう。何度でも、永遠に」
明け空の星。明けの明星。神に逆らい堕ちた天使の名を冠するあの星の名は。
まだぼんやりと霞がかかった思考のまま、無意識に自分の手で口を覆った。
「――」
ぼくは、似たような囁きを聞いたことがある。勿忘草色の虹彩は、縁が少しだけピンクがかって見える。下瞼の目頭辺りにできる、笑い皺。
「……」
そんなわけがない。きっと偶然だ。ぼくは自分へそう言い聞かせ、その疑問へ蓋をした。