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第53話

「……ぼく、おなか空いちゃいました」

「私もだ」

「ふふっ。じゃあ、こっそり厨房へ行ってダニーに何か作ってもらいましょう?」

「うん」

 その時、一緒にイェレミーアスの目を冷やすタオルももらわなくちゃ。起き上がると、ぎゅっと抱きしめられた。抱きしめられたイェレミーアスの肩越しに、窓から差し込む陽射しを眺める。太陽はもう、高い位置にあるようだ。

「ヴァン」

「はい」

「愛してる」

 「ごめん」と「ありがとう」をやめようと言ったから、「大好き」よりももっと強い感謝を表すために、そう言ったのだろう。兄が弟を見守るように。君が健やかであれと願うこの想いは、間違いなく年長者としての愛情であると言えるだろう。だってぼく、実際前世ではお兄ちゃんだったし。ぼくはイェレミーアスの背へ手を回し、素直な気持ちで答えた。

「ぼくもですよ、イェレ兄さま」

 この世界に、本当の意味でぼくの家族は居ない。だからぼくは、父母に冷遇されてもさして傷つくことがなかった。その寂しさがふとぼくを包んだ。前世では、母を亡くした以外に身内を喪った記憶がない。むしろぼくは、前世では父と妹を置いて死んだ側だった。

 けれど、だから想像してしまう。初めから持たなかった喪失より、確かに手にしていたものを喪う方がつらいのではないだろうか。だからぼくは、ただ寄り添うことしかできない。まだ小さな腕をうんと伸ばして、背中へ回すことしかできない。

 ぼくには君へしてあげられることが、とても少ないけれど。

 精いっぱいを、誓おう。ぼくにできる、精いっぱいを君に。

「さ、食事をしよう。ヴァンのおなかが、鳴り出す前に」

 そう言ってぼくへ手を差し伸べたイェレミーアスは、いつも通りだけれど僅かに大人びた表情をしていた。ぼくはふと、いつの間にか精神的に成長してしまったジークフリードを思い出した。そうやって、少年は成長していくのだ。ひとの心というのは、経験によって成熟していく。その瞬間を、ぼくは見たのだろう。

 これは確かに成長ではあるが、本来なら負わなくて済んだはずの傷でもある。ぼくはこの子を、これからできるだけ傷を負わずとも成長できるように見守って行きたい。ぼくが貴族向けの養護院でしたかったのは、おそらくそういうことなのだ。

 貴族の、しかも男児が厨房に近づくことは皇国の常識ではタブーである。しかしぼくはよく料理をするので、厨房への出入りを止める使用人はいない。一階の端っこ、北側の一番広いスペースが厨房だ。

「ダニー、おなか空きました。パンと、ハムと、チーズと野菜を少しもらってもいいですか」

「おや、坊ちゃん。おはようございます」

「うん。おはよう、ダニー」

 イェレミーアスは、ダニーがぼくのために空けてくれた作業台の隅へ椅子を置いた。それからぼくを抱え直し、椅子へ座る。好きなように野菜とハムとチーズをパンへ挟んで、皿へ載せてイェレミーアスへ差し出す。

 イェレミーアスは両手でぼくを抱えたまま、手を上げようとしない。仕方ないのでぼくは、サンドウィッチをイェレミーアスの口元へ運んだ。顔のパーツとしては小さなイェレミーアスの口は、開くと意外と大きいのだとぼんやり眺める。まるでぼくに聞かせるため、と言わんばかりに額を押し付けられ、咀嚼の音が骨を伝って響くことに僅かばかり安堵する。

 小食のイェレミーアスがぼくへ伝えてくれる。食べようとしている。生きようとしている。今はまだ、それだけで十分だ。

 ダニーが水の入ったコップを二つ、ぼくらの前へ置いた。

「ありがと、ダニー」

「坊ちゃん、ゆっくり食べてください」

「あとでまた、お菓子を作りに来ますね」

「はい。何か準備しておくものはありますか?」

「うーん。じゃあ、バターを常温にしておいてください」

「かしこまりました」

 サンドウィッチを食べてダニーへ礼を言って厨房を後にする。イェレミーアスがぼくを抱っこしようとしたが、首を振って見せた。

「コモンルームまで、歩きます」

「……分かった。歩くのが早かったら、言うんだよ? ヴァン」

「はい、イェレ兄さま」

 元気よく答えた五分後、ぼくはイェレミーアスへ向かって両手を上げた。

「イェレ兄さま、抱っこしてください……」

 くそう。コモンルームはもう、目前なのに。もう一歩も足を前へ出せる気がしない。

 いつも通りにイェレミーアスに抱っこされて現れたぼくへ、ルクレーシャスさんは少し微笑んだ。ローデリヒはだらしなくソファの肘掛けに載せていた足を退け、体を起こして自分の服についたお菓子の食べかすを払った。ヨゼフィーネとベアトリクスはいない。ぼくがコモンルームを見渡すと、ローデリヒが先んじて答えた。

「かーちゃんが来てるから、伯爵夫人とトリクシィは温室で茶を飲んでる」

「そうですか。約束通りに来てくださったんですね。あとでお礼にまいります」

 いつも通りにぼくを膝に乗せてソファへ座ったイェレミーアスへ、問いかける。

「イェレ兄さま。これからぼく、イェレ兄さまにとってはとてもつらい話をします。だから、つらくなったらお部屋へ戻ってください」

 イェレミーアスは、勿忘草色の虹彩でぼくをじっと見つめた。その瞳は風雨に晒されくたびれたように、僅かにざらついている。

「大丈夫だ、ヴァン。ただ私がつらくなったら、抱きしめてくれるかい?」

「はい」

 ぎゅ、っと抱きしめる。まぁ、細っこくて小さいぼくがイェレミーアスに張り付いているようにしか見えないわけだけども。しばらく抱きしめて、それからいつものようにイェレミーアスの膝へ横向きになろうとした。するとイェレミーアスは、ぼくの膝を揃えて自分の足の上へ置いた。それからぼくのお腹を守るように自分の手を回し、肩へ顎を載せて頬をくっつける。

「……アスが重症化してる……」

「うんまぁ、しばらくは仕方ない、のかな……広い心で見なかったことにしなさい、リヒくん」

 うん。二人の反応も分かるけど、イェレミーアスの気持ちも分からないではないので上半身をずらしてイェレミーアスの顔を見る。微かに疲れが見える弱った美少年の笑みに、勝てる人間がいるだろうか。ぼくは負けた。頬を軽く押し当て、お腹へ置かれたイェレミーアスの手へ自分の手を重ねる。

「来週から、ぼくとイェレ兄さまは皇宮でジーク様と一緒に勉強と剣術を習うので、リヒ様はいつも通りにしてください。剣術の時だけ皇宮へおいでになる、とかでも結構です」

「お、うん」

「ぼくは、合間の時間に皇后陛下を診察する皇宮医や薬学士と接触を図ります。時間がかかってもいいので、食物アレルギーについての知識があるかどうか確認します。併せてジーク様と共に皇宮の記録の中にもそのような記述があるか、調べますのでイェレ兄さま、リヒ様と別行動になることも出て来ると思います」

「うん。分かった」

「そんなわけで、ルカ様にも当分はご一緒いただきたいのです」

「わたくしは、君のおやつさえあればどこへでも行くよ」

「はは……」

 ほんと、ぼくはルクレーシャスさんの食べている姿しか、ここ最近見ていないわけだが。それでも頼れる師匠ではある。

「それから、こちらの方が先になると思われますが」

 イェレミーアスの手を軽く握った。これは今、ヨゼフィーネとベアトリクスが居ない時に言う必要がある。

「三日後、エステン公爵家へお邪魔させていただきます。ルカ様、ぼくの声を大人の男性の声に変えられますか?」

「できる。わたくしにできないことなどないよ、スヴァンくん」

「では、ぼくがブラウンシュバイクを尋問します。誰が自分を襲う可能性があると思っているのか、ミレッカーが関わっていることまで知っているのか、確認します」

「私も行くよ、ヴァン」

 イェレミーアスの手を握り締めたぼくの手の上へ、手を重ねられた。重ねられた手のひらが熱い。

「聞きたいんだ。聞かなくちゃ、私は前に進めない。どうして、父上を殺したのか。殺すつもりではなかったとして、なぜ父上ではなくハンスイェルクを信じたのか。いつから、父を、私たちを、憎んでいたのか」

「……」

 ローデリヒは、ショックを受けた表情でイェレミーアスを見つめた。それは単純に「信じていた家臣に裏切られた」のではない。過ごして来た何年もの日々を、踏み躙られる行為であると実感したのかも知れない。

「イェレ兄さま。到底納得できない理由かもしれません。それでも?」

「それでも……なぜ父上が殺されなくてはならなかったのか、知らなくては。恨むことも、憎むことも、できない」

「……分かりました。でも、ぼくが止めたら帰りましょう。いいですね?」

「……うん……」

 小さく答えて、イェレミーアスはぼくの肩へ顔を埋めた。脇へ下りて膝立ちになり、イェレミーアスの頭を抱える。

「大丈夫ですよ、イェレ兄さま。ぼくが一緒にいますからね」

「……うん」

 例えブラウンシュバイクに会わせた途端、罵倒したとしてもそれがイェレミーアスに必要なら止める気はない。復讐は何も生まないなんて思わない。それでイェレミーアスの心を守れるのなら、構わないとすら思う。けれどきっと、この優しく思慮深い子はそんなことをしないだろう。だからこそ、好きにさせて寄り添うべきだとぼくは思った。

 そんなのはぼくの都合のいい希望的思考でしかないのだと、思い知らされることになるのは大分後のことになる。

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