わたしは十五の少年兵でした。取り立てて強かったわけでも、武勲を立てたわけでもない。それでも当主様は、どの戦でもわたしを気遣ってくださった。子供だったからです。お優しい方だった。だからわたしは、僅かでも当主様の役に立とうと必死になった。不思議とどんな時もあの方のお声だけは聞き取れた。ただひたすら、あの方のお声とお姿を探した。あの方に降り注ぐ矢をわたしが代わりに受けたかった。あの方に向かう槍を全て叩き落した。そうしてわたしは、あの方に名を。初めて名を呼んでいただいた時のこと、忘れられません。
「身分が欲しいわけではなかった。ただあの方のお傍にいられればそれでよかった。それなのに、当主様は――」
再び伏して、額を床へ打ち付けながら喚く言葉から、ようやく聞き取れたのはひび割れて狂って乾いて破片になって散らばる。
「ヴァルター伯の腹心のご令嬢と婚姻を結べ、と。見知らぬ家の婿になれ、と。何度も何度もお願いしたのです。わたしはここに居たいのだ、と。わたしはあなたのお傍を離れたくないのだ、と。悪い所があるのならば直すから、どうかラウシェンバッハから出ていけなとど言わないでほしい、と!」
「……何の、話だ」
ぽつりと零したイェレミーアスの声は枯れ木を踏むように乾いている。覚えずぼくは、イェレミーアスの手を握り締めた。
「……わたしは、わたしはただ……今まで通りでいたかっただけです……! 殺すつもりなどなかった。ただほんの少しだけ、やはりお前がお傍に居らねばならぬと笑ってほしかっただけ。まさか、死んでしまうだなんて」
「……それだけ?」
体の中が、空洞になったみたいな声でイェレミーアスが問うた。ブラウンシュバイクはまるで、話せば理解してもらえると信じているように身を低くしたまま、イェレミーアスを仰いだ。
「わたしはどんなに慕っても、あの方の家族にはなれない。わたしにとってあの方がどんなに特別でも、あの方にとっては部下の一人でしかない。わたしがわたしの全てを捧げたとしても、あの方にとってわたしは
「……そんなことのために、父上を……そんなことのために私からこの世に一人しかいない父を奪ったのか!」
「……、……っ」
ブラウンシュバイクは純粋に、何故理解してもらえないのか分からない、という表情でおろおろと床を這っている。ずしゃ、と隣でイェレミーアスが床へ膝を付いた音がした。両手で顔を覆うイェレミーアスを抱きしめ、背中を温めるように撫でる。
「……どんなに願っても、あなたがラウシェンバッハ辺境伯の家族になることはありません」
ぼくがそう発すると、ブラウンシュバイクはまるで水底に沈められたかのように、緩慢な動きで顔を上げた。
「あなたはラウシェンバッハ辺境伯にとって、大切な、信頼に値する家臣だからです。ラウシェンバッハ辺境伯はあなたの思うような、あなたが思うだけの愛を返さねばならなかったでしょうか? 返さねば、殺されてもやむを得ないとあなたは思いますか?」
「……わた、わたしは……」
まるでぼくに脅されたかのように怯えながら、ブラウンシュバイクは言葉を詰らせた。何度も何度も唾を飲み込むが、声が出ないといった様子で俯いて震えている。
「あなたの幸せを、誰かが奪ったとお考えですか。いいえ、違います。あなたは、あなたを信じた人より『あなたを信じた人を陥れる人間の言葉』が自分にとって都合がいいからと選んだにすぎません。いくらでも疑うことができたのに、本当に大切なものは何かなんて分かっていたのに、聞きたい言葉だけを聞いたのです。そして喪った。誰かに奪われたのではなく、あなたが手放し、あなたが壊したのです」
「……!」
ぼくの言葉に打ち据えられ、ブラウンシュバイクは顔を上げた。ぼくに無体を働かれたとでも言いたげに唇を震わせている。
「あなたは自ら手放したのです。偲ぶ権利を。その悲しみを。ぼくはラウシェンバッハ伯爵を知りません。けれどきっとイェレ兄さまに似ていたのだろうと、思います。ラウシェンバッハ伯爵を知らぬぼくでもそう思うのです。だから、ぼくはイェレ兄さまの中にラウシェンバッハ伯爵は生きていると思います。ラウシェンバッハ伯爵をよく知る人ならば、イェレ様のふとした仕草に同じ癖を見つけるかもしれません」
「……」
繋いだ手が、微かに動いてぼくの手を握り締めた。勿忘草色の虹彩から綺麗な水滴が美しい頬のカーヴを落ちて行く。
「そうして喪ったひとを、確かにそこに生きていたという痕跡を、家族の中に見つけながら、その人の生きた痕跡を抱きながら、悲しみを越えて行くのでしょう。だからラウシェンバッハ伯爵は、伯が大切にしていた人たちの中に生き続ける。ラウシェンバッハ伯爵は、あなたもその輪に入れたかったのでしょう。いいえ、あなたもその輪に、自分の死後も居るのだろうと思っていたはずです。けれどあなたは、その権利を自ら捨てたのです」
「……! ……違う。ちがう、ちがう、ちがう……ううう……」
頭を抱え、ブラウンシュバイクは石畳へ額を打ち付ける。鈍い音と、嗚咽が響いた。
「ならばお聞きします。ラウシェンバッハ辺境伯は、こうなることを望んだでしょうか?」
尋ねた途端、ブラウンシュバイクは動きを止めた。
「あくまでも、ぼくの個人的な考えですが……。ラウシェンバッハ伯の腹心で、家名という後ろ盾がないのはあなただけです。友好的な関係にあるヴァルター伯の腹心、その家名と後ろ盾は強固なものになるでしょう。だから伯は、追い出そうとしたのではなく……あなたを守ろうとしたのではないでしょうか。『家名』という後ろ盾を与えて、再び並び立てるように」
「う……あ……、うあああああ――! ディートハルト様……ディートハルト様……っ」
ぼくはこの世界に来て初めて、大人の男の人が声を上げて泣くのを見た。それでも、イェレミーアスを陥れた者へ加担した罪が許されるはずも、消えるはずもない。
「……ヴェルンヘル様、今日は帰ります。お手数をおかけしますが、この人はこのままここで預かっていただけますか」
「あ、ああ……。気をつけて帰りなさい。また連絡しよう」
「……お願いします」
ぼくはイェレミーアスの手を引いた。思考と、感情が飽和してしまったのだろうか。イェレミーアスは黙ってぼくの手を握っている。
「イェレ兄さま。行きましょう。ルカ様、鉄格子を直しておいてください」
「君はわたくしを何だと思ってるの……」
ルクレーシャスさんがぶつぶつ文句を言う声が聞こえて来たけれど、今はそれどころじゃないので無視をした。牢獄から離れた場所でイェレミーアスを椅子に座らせ、両手を握り締めて根気よく話しかける。
「イェレ兄さま。無理に飲み込まなくていいんですよ。今日はもう、おうちに帰りましょう? ぼくと一緒にねんねしてください。ぼくが、寂しいんです。ね? おねがい」
「……ん」
頷く間も美しい勿忘草色は、悲しみの粒を零し続ける。それでもイェレミーアスはぼくを抱え上げた。ぼくは抱っこされたまま、イェレミーアスの涙をハンカチで拭く。再び馬に乗ってエステン公爵家の本邸へ戻ると、準備されたぼくらの馬車の横にローデリヒが立っているのが見えた。
「……アス」
「うん。……今日は帰るよ。また来る。じゃあな、リヒ」
ローデリヒへ、そう呟いたイェレミーアスはまるで幼子のようだった。本来の、たった十一歳のイェレミーアスはこんなにも幼い子供なのだ。そう胸に過ぎった途端、ぼくは堪らなくなってしまった。何でもいいからめちゃくちゃに叫んで走り出してしまいたい気持ちで、イェレミーアスへ顔を寄せる。ローデリヒはただ、俯いたままイェレミーアスの腕へ軽く触れた。
少し遅れて戻って来たルクレーシャスさんと、ぼく、イェレミーアスで馬車に乗り込む。イェレミーアスはすっかり甘えん坊になってしまっていて、膝に抱えたぼくの胸へ顔を埋めるようにしたまま動かない。ぼくはできるだけ邪魔しないように、ピンクブロンドの髪を撫でた。
タウンハウスへ到着すると、待ち構えていたルチ様はイェレミーアスへ目を向けて何故だか僅かに何かを思い出そうとするような表情をした。
「? ルチ様?」
『……今は、一緒に居てやれ』
「……はい」
絶対に拗ねると思ったのに意外である。何かルチ様、イェレミーアスには寛大じゃない? やっぱアレか。美少年だからか。妖精と精霊は美しいものが好きだっていうから、そのせいか。じゃあぼくに構うのは何でだ? アレか。おもろか。おもろいからか。何か悔しい。キィッ!
ふざけていないと、頭に浮かぶ有り得ない想像が膨らんでしまうから、ぼくは必死でその考えを打ち消した。
発生地点、とルチ様は言った。では、発生条件とは何だろう。