「ビルギット嬢か。グラーツ高等貴族女子学校の一年で十六歳、だったか。二つ年下のイルゼ嬢と仲がよいと聞いている」
十六歳ならば既に婚約者がいてもおかしくない年頃であるが、ぼくの記憶を浚ってもミレッカー宮中伯令嬢の婚約者の話を聞いたことがない。宮中伯家の立場的にも、難しいのだろう。そういう意味でも、社交が重要な時期なのではないだろうか。エステン公爵夫人のお茶会や、イルゼ嬢のところにいたのは偶然かもしれない。
「従姉妹同士ですものね。実はどんな人物か知りたかったので、収穫はありました」
「ああ。宮中伯夫人が気の病に伏せって長いからな。代わりにビルギット嬢が社交の場に出ているのだろう」
「……気の、病、ですか?」
「ああ……。その、先代夫人から……宮中伯家へ嫁いだ女性は、気の病に伏せる者が多いようだ」
「先代夫人というと、メスナー伯爵から嫁いだという……」
「ああ。確か、一昨年辺りから療養のためにメスナー伯爵家へ戻られたはずだ」
この世界の医学は進んでいない。だから「気の病」、いわゆる精神疾患は、それこそオカルトな治療が横行する未知の病扱いだ。気の病に罹った家族を幽閉してしまう貴族も多い。しかしあんな一族に嫁いだら、おかしくなるのも無理はない気がする。挙動がおかしすぎるんだよ、あの親子。
「ヴァン、乗馬は得意?」
「イェレ兄さま……いいえ。ぼく、乗馬は習ったことがなくて」
「じゃあ、私が乗せて行こう。おいで」
馬上から手を差し伸べるイェレミーアス、想像できるだろうか。リアルな白馬の王子様との乗馬である。課金しないと一緒に乗馬できないイベントかと思った。思わず全財産
イェレミーアスはともかく、ルクレーシャスさんまで乗馬がこなせるとは思わなかった。ぐぬう。乗馬を習うことも検討せねばなるまい。なんか悔しい。
エステン公爵家の屋敷から西へ入った森の中、狩猟小屋の脇に小さな塔が見えて来た。背中に当たるイェレミーアスの体がいつもより熱い。手綱を握る手へ手を重ね、背を凭れる。
「……ヴァン。私の傍にいてくれ」
「はい。イェレ兄さま」
塔の入口に二人、塔の中にも数名の騎士が配備されている。塔の最上階まで案内された。当然、ぼくは途中でバテてイェレミーアスに抱っこしてもらった。最上階の牢に、栗色の髪の男が目隠しされて転がされていた。
「ルカ様」
「はいよ。風の精霊炎の精霊届く音を遮り惑わせ
魔法をかけてもらい、牢の前へ移動する。できるだけ足音を立てないようにするのに、妖精たちに手伝ってもらった。
「んんっ。おい、
わぁ、ほんとに見知らぬおっさんの声が自分から出てる。幼子の高音に慣れていたので中々、シュールである。ブラウンシュバイクを「子熊」と呼んだぼくへ、イェレミーアスは目を丸くして見せた。ブラウンシュバイクは力技の槍で「黒熊」の異名がある。でもまぁ、ぼくみたいに騎士名鑑を隅から隅まで読んで覚えてる人間なんかそう居ないだろうね。徳川歴代将軍は覚えられなくても、ゲットだぜなモンスターなら覚えられるのと一緒なんだけどそれはぼくがヲタクだからだし。
「……? 東部訛り……? 貴様、ハンスイェルクの手の者か……!」
わざと分かりやすく東部訛りで声をかけたけど、ぼくは実際に東部訛りの皇国語を聞いたことはない。ただ、本に書いてあったように訛って見せただけだ。ここまで簡単に引っかかるなんてブラウンシュバイクが心配になる。こんなに単純だから騙されるんだよ。
「オレがわざと東部訛りで喋ってるとは、思わないんだ?」
「――っ! まさか、鼠野郎かっ!」
「!」
イェレミーアスと目を合わせる。初代ミレッカー宮中伯は、主君を裏切った「鼠伯」と死ぬまで揶揄された。皇国に於いて、「鼠野郎」などと詰られる人間は初代ミレッカー宮中伯ヴォルフラム・ミレッカー、ひいてはミレッカー家の人間以外に居ない。つまりブラウンシュバイクは現在、ハンスイェルクとも、ミレッカーとも反目している状態である可能性が高い。
「全部、全部陛下に話してやるっ! 貴様らの企み、全部っ、……っ!」
「話せば? そんでどうやってあの人たちが殺したって証明するんだよ? 実行犯はおっさんだろ、証拠がなきゃ訴え出たって全部アンタ一人の犯行ってことにされて終わりだよ。まぬけの子熊野郎」
「……っ、クソッ! クソォォォ!」
証拠、ないんだなぁ。力のある家門の出でもないし、処理するのは難しくないだろうし。あまり脅威ではないだろうな。だからこそ、主犯として利用されたのだろう。何にせよ、早めに身柄を確保して良かった。
「オレは依頼主におっさんが証拠持ってるかどうか、確かめろって言われただけだから関係ねぇや。『罪の重さに耐えかねて』自殺してもらっても別に構わねぇし、それは依頼主が決めることだからよ」
「卑怯な鼠野郎が考えそうなことだ……人間のクズめ……!」
ミレッカーが関わっていることは間違いなさそうだ。それをブラウンシュバイクも知っている。ならば当然、ハンスイェルクもシェルケも知っているだろう。これ以上、ブラウンシュバイクを揺さぶっても新しい情報は出て来なさそうだ。ぼくの肩へ置かれた、イェレミーアスの手がどんどん熱くなっている。
ぼくはルクレーシャスさんへ視線を向けた。頷いてルクレーシャスさんがパチンと指を弾く。こほん、と咳払いを一つして、エステン公爵へ囁いた。
「目隠しを取ってください」
「……しかし……、いいのか」
エステン公爵の目が、一瞬ぼくの後ろへ流れた。ぼくの肩へ置かれた手はますます熱くなって行く。
「ええ。彼はその愚かしさの罰を受けなければなりません」
エステン公爵家の騎士が、ブラウンシュバイクの目隠しを解いた。ブラウンシュバイクの瞳に積み上がった憎しみは、ぼくの後ろへ立つ人間を捉えた瞬間、音を立てて崩れ落ちて行くのが分かった。
「イェレミーアス、さま……」
「久しいな、バルテル。元気そうでなによりだ」
ぼくは、こんなに冷えたイェレミーアスの声を初めて聞いた。短い付き合いではあるが、こんな風に人を威圧できる子だとは思わなかった。ぼくの肩へ置かれた手は、ちり、と痛んで温度が高いのか低いのか分からなくなった。
長い、長い沈黙が重たくのしかかる。イェレミーアスの勿忘草色の虹彩は、薄暗い監獄で燃える炎のようだ。すう、と吐息を吸い込む音がしてその場に居た全員は全身を耳にした。イェレミーアスは、静かに凍てついた言葉を吐き出した。
「私に、何か言うことはあるか」
「――っ、……申し開きも、ございません……」
謝罪を口にしながら、まるで見えない手に押さえつけられたかのように、ブラウンシュバイクはひれ伏した。額を監獄の冷たい石畳へ押し付けたまま、身じろぎ一つしない。
「はっ……。この期に及んで、申し開きができると思っているのか。いくらお前が許しを乞うたところで、父上は戻って来ぬ」
イェレミーアスが一歩前へ出た。じゃり、と足元で踏みつけられた石畳が音を立てた。
「父上が何をした。殺されてしかるべきと考えるほどの、どんな仕打ちを貴様にしたと言うのだ」
「……すべては、わたくしの……愚かな心得違いでございました……」
何十歳も年下の少年に気圧され、ブラウンシュバイクの声は小刻みに震えていた。顔を上げることができず、ただただ平伏している。
「『勘違いでした』と言われて『そうか』と納得できるとでも! 死んだ人間は、二度と戻らぬ!」
叫んで薙ぎ払った手に宿った炎は牢獄の中でも青白く冷たい。その青さが、イェレミーアスの怒りを表すようだ。
「戻せ。その罪を自覚しているのならば。父上を、生きて、ここへ、戻せ」
炎を纏った手が、鉄格子を掴んだ。じゅうう、と音を立てて炎が床へ落ちる。青い炎が消えた後、鉄格子は歪な形で途中から消失していた。音に顔を上げたブラウンシュバイクは、その青い炎を目にすると呆けたように語り出した。