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第55話

 実のところ、ロマーヌスが屋敷に居ようが居まいが関係なかった。ぼくらが遊びに行った、という事実さえあればよかったのだ。それが噂になればなおいい。

 ローデリヒと一緒にガンツェ・ヴェルトゲボイデ剣と世界樹の紋章が入った大きなタウンコーチで貴族街を行く。それがどこへ行くか。どこへ行ったか。放っておいても勝手に噂になる。それが社交界というやつだ。だから、フリューだけ渡して帰る気満々だったぼくは、イルゼ嬢に引き留められていささか面食らった。

「スヴァンテ様、わたくしの友人がぜひお会いしたいと申しておりますの。お時間があれば、ぜひお茶を」

「すみません。ロン様もお留守のようですし、あまりリヒ様を引き留めすぎるとエステン公爵に申し訳ないので本日はここで失礼させていただきたく存じます」

「ごめんなぁ、オレ勉強が進んでないって母上に怒られててさぁ。スヴェンとこで勉強するって約束で遊びに来てるんだよ」

「まぁ、ローデリヒ様……。スヴァンテ様に教わっているのですね……」

「なんでみんなオレがスヴェンから勉強を教わってることが前提で話を進めるんだよ。その通りだけど」

 ここにロマーヌスが居たらきっと爆笑していただろう。だが生憎、ロマーヌスはエンケ侯爵家に遊びに行ってしまったらしい。そう、ジークフリードの侍従候補だった、ティモ・エンケ侯爵令息のところだ。

「イリー? どなたがいらっしゃったの?」

「あ、ビルケ。ローデリヒ様はご存知でしょう? こちらはイェレミーアス・ラウシェンバッハ様と、スヴァンテ・スタンレイ様よ」

「初めまして、スヴァンテ・スタンレイと申します」

「初めまして、イェレミーアス・ラウシェンバッハです」

 薔薇の生垣の向こうから現れた、冬の空気に冷えた白磁のように冴え冴えとした青白い肌、夜の影のように黒い髪、闇から零れ落ちたように深い藍色の瞳。見覚えのあるその少女へ、ぼくは深々と頭を下げた。目を合わせたくなかったのだ。

「……ああ……うふふ、あなたが。あははっ、ああ、あの愚か者どもが色めき立つわけですわ……ふふっ」

 容姿は整っている。だが、なぜかこの少女を表す言葉として「病的」という表現が浮かんでしまうのだ。まるで血のような深紅のドレスを翻し、青白い少女は猫のように鋭く大きな目ばかりを、ギラギラさせて優雅にカーテシーをして見せた。

「……はじめまして。ビルギット・ミレッカーと申します。お会いできてうれしく思いますわ、スヴァンテ公子」

 ナイフで傷つけたように細い、真っ赤な唇が笑みの形に歪んだ。

「キヒッ」

 青白い肌は細い指を顎へ当て、まるで奇妙な生き物の鳴き声のようにひしゃげた音を吐き出して笑った。イルゼ嬢が体をびくりと強張らせた。イェレミーアスがぼくを庇うように抱き上げた。が、イェレミーアスが抱き上げたことでビルギットと目線が近くなった。ずい、と顔を寄せられて無意識に体を引いてしまう。

「間違いない。……けどおかしいわ。色が違う」

「……っ」

「ねぇ、あなたはどう思う?」

 問いは確かに、イェレミーアスへ放たれたものだ。だがビルギットの瞳はぼくだけを捉えている。

 おそらく、だけれど。この子も普通ではない。ぼくを見つめる異様に粘ついた瞳がミレッカーの血を語るようだ。その瞳に囚われてしまうような焦燥感に目眩を覚えて額を押さえる。ぼくをビルギットから遠ざけるため、イェレミーアスは体を翻した。

「ヴァンの体調がよくないみたいだ。失礼するよ、レディ・イルゼ。ご挨拶のみで辞することをお許しください、レディ・ビルギット」

「何だよ、スヴェン。具合悪いなら早く言えよな。オレんちで少し休んで行けよ。じゃーな、イルゼ。ロンによろしく」

 イェレミーアスとローデリヒの機転に支えられ、メッテルニヒ伯爵家を後にする。馬車に乗り込んだ途端、ローデリヒがぼそりと呟いた。

「なんだあれ、おっかねぇ目。バルティの姉ちゃんってあんなだったっけ……」

「あの一族は、スヴァンくんを見る目がおかしいんだよ。気持ち悪いったらありゃしない」

 馬車の中で待っていたルクレーシャスさんが吐き捨てる。エステン公爵家へ向けて走り出した馬車に揺られまだばくばく言っている心臓を押さえながら、ルクレーシャスさんへ茫洋とぶつける。

「ルカ様、フリュクレフ王家には何か秘密があります。絶対です。何か、フリュクレフ王家だけに伝わる秘密と、それを持つ人間が一目で分かる外見的特徴があるはずです……それが分かれば、彼らがぼくへ異様に興味を示す理由が分かるのに……」

「……外見的、特徴ね……」

 至って真剣な話をしているというのに、ルクレーシャスさんはいつもの残念な子を見る目でぼくを見た。

「……オレ、それ分かるぜ。スヴェン」

「ええっ? 本当ですか、リヒ様」

「うん……。っていうか、君以外の人間には多分、分かってると思うよ……スヴァンくん」

「えっ? なんだろう、なんですか、ルカ様。あっ、ほくろ?」

 だからみんなぼくの唇の左下のほくろを見てたのかな。でもほくろって珍しいけどなくはないじゃない?

「……違うと思うよ、ヴァン」

「……確実にほくろではないね、スヴァンくん」

 イェレミーアスまで言うのだから、ほくろではないのだろう。じゃあ何だろう? ぼくは途方に暮れてしまう。

「とにかく、ミレッカー家にはフリュクレフ王族にのみ現れる何か不思議な力とかそういうものが伝わっているんじゃないでしょうか。ミレッカー家はその見分け方を知っているはずです。一体なんだろう……」

「……それも、君の常識外れな妖精や精霊の加護を見た今のわたくしには分かるよスヴァンくん……。フリュクレフ王国が高山地域にしか国土を持たないのにあれほど豊かで、長年他国からの侵攻を退けていた理由もスヴァンくん並みに精霊の寵愛を受けた王族が居たからだとすれば納得だよ。外見的特徴も君を見れば一目瞭然だから分かりみしかないよ。そりゃ、先々代皇王もヴェンもミレッカーも血眼になるよね……」

 さすがルクレーシャスさん。何か分かっているらしい。お菓子ばかり食べているようで、精霊学の第一人者と名乗るだけはある。

「でもさすがに妖精さんや精霊さんの寵愛だけで国が保護できたりはしないですよ、ルカ様ったら」

「……わたくし、このクソ鈍い弟子へ他にどう言えばいいんだろうね?」

「んんっ……そう……ですね……」

 ルクレーシャスさんに適当な相槌を打っているイェレミーアスが気の毒だ。

「君にご執心の明星様はなんて言ってるのさ、スヴァンくん」

「ルチ様ですか? ルチ様の言うことって端的で分かりにくいんですよね。精霊は発生地点に深く関わってはいけないらしいんですけど、発生地点を起点にして現在過去未来どの時間にも存在できるんですって。あと、特別な約束をした時以外は人間にはあまり関わっちゃいけないらしいですよ」

「もう完全に話にオチがついたよね? 気づいてないの本人だけでしょ、これ」

「そうですね……」

「ただでさえ薬学士が何をどこまで知っているか調べなくちゃいけないのに、ミレッカー家しか知らないフリュクレフ王家の秘密まであるなんて……。一体どんな秘密なんだろう……」

「なんだろうね、これわざとじゃないなら何か本人に自覚させないように魔法がかかってると思った方が自然だと思えるよ、わたくし」

「……」

「……」

 ぼくは至って真剣な話をしているのに。むぅ、と唇を突き出してルクレーシャスさんと睨み合う。膠着状態のルクレーシャスさんとぼくへ、助け舟を出したのはイェレミーアスだ。

「えーっと、ヴァン?」

 イェレミーアスに顔を覗き込まれ、勿忘草色の虹彩を見つめる。

「はい」

「とりあえず、バルテルの尋問と、皇宮で薬学士との接触を図ることを今は優先しよう」

「そうですね。考えても仕方のないことは後回しにしましょう」

「いや、君以外には答えが分かってるよスヴァンくん……」

「ベステル・ヘクセ様」

 イェレミーアスが静かに首を横へ振って見せた。なんなの、最近ぼくに秘密が多くない?

 馬車がエステン公爵家へ近づくにつれて、誰からともなく会話が途切れる。静まり返った中、単調な揺れと馬の足音がだけが響く。広大なお屋敷の門をくぐる。屋敷の前に、エステン公爵が待っているのが見えた。

「リヒは自室で家庭教師が待っている。上がりなさい」

「えっ、あっ、じゃあな、また後でな、アス、スヴェン」

 執事に襟首を掴まれ、玄関ホールの中へ吸い込まれて行くローデリヒを見送る。今日こそは逃さないという、エステン公爵とエステン公爵家執事の強い意志が見えた気がした。

「……君たちはすぐ、離れへ向かうか?」

「ええ。お願いできますか、ヴェルンヘル様」

 罪人を入れておく牢は、離れたところにあるのだろう。どこにあるのか、ここからは窺えない。ちょっと考えていると、エステン公爵が立ち止まる。

「ああ。少し歩くが、良ければ馬を用意しよう……スヴァンテ公子。どうした、顔色が悪いようだが」

「ええ。メッテルニヒ伯爵のところへ寄って来たのですが、そこでミレッカー家のご令嬢と顔を合わせてしまいまして」

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