「それに、社交月が終わって辺境伯たちはそろそろ領地へ帰る準備に忙しいでしょう? ミレッカーとシェルケ、ハンスイェルクたちが直接会うことが難しい冬の間に薬学士から情報を引き出しておきたいですね」
「うむ。父上から、オレが同席することを条件に薬学士の情報をスヴェンに見せてもいいと許可もいただいている。冬の間が勝負だな」
「はい」
ジークフリードが大変有能だ。ほんとこの子、さすが
ルクレーシャスさんはぼくの付き添いなので、いつも通りぼくらの机の向かいにソファを出してどっかりと座っている。今日のおやつはあんまきである。薄力粉とコーンスターチと重曹、卵、砂糖を混ぜたタネを薄く伸ばして焼くのだ。ちなみに生地的にはどら焼きと同じだよ。ほんとはね、みりんがあるとなおいいんだけどこの世界にはないんだよ、みりん。しょぼん。中身はあんことバターだよ。この組み合わせは美味しいに決まってるよね。
生クリームがあったらもっといいんだけど、牛乳を温めて遠心分離機で分離させるんじゃないかなって想像はすれども、どうも分からない。撹拌か? 撹拌すればイケるのか? 何もかもの加減が分からないじゃない? しかもぼく、魔法使えないしさ。仕組みが分かってないのに、ざっくりした説明でルクレーシャスさんに頼むのも気が引ける。
もっもっも。無言であんまきを飲み込むルクレーシャスの金色の耳がぱたぱたしている。最近ルクレーシャスさんの食べている姿しか見ていない気がする。この人、すごい人なんだよ。ほんとだよ?
「さ、エルンストを呼びに行かせよう。フレッド」
「はい。かしこまりました」
エルンスト卿は広い視点から天文学を説いてくれるとてもいい先生だ。こないだもね、時代によってポラリスと呼ばれる星が実は変化しているという話で大変盛り上がったんだ。大満足の授業の後、ジークフリードと一緒に訓練場までイェレミーアスを迎えに行く。
「足が止まっているぞ、イェレミーアス!」
「ハイッ!」
「目だけで追うな、肌で捉えろ!」
「く……ッ!」
弾かれて飛んだ木剣が訓練場の壁に当たった。落ちた木剣を拾いに行き、ウード公のところへ戻って来て構えたイェレミーアスの気迫にジークフリードが息を飲んだ。
「イェレ兄さま。ウード公。次は神学の時間ですよ」
ぼくはできるだけ朗らかに二人へ声をかけた。途端に二人はいつもの顔に戻って微笑んだ。
「おお、スヴァンテ公子」
「ヴァン、お迎えに来てくれたんだ?」
「こんにちは、ウード公。イェレ兄さま、参りましょう?」
イェレミーアスへタオルを差し出し、準備してきた飲み物を渡す。受け取った手のひらのマメが全部潰れて、治り切らないうちにまた傷が付いているのが見えた。精霊の加護が備わっているはずなのに、だ。
こんなになったら剣を握ることすら難しいだろうに。それでもそうせずにはいられないのだろう。
「イェレ兄さま。ぼくらが皇后陛下のお見舞いに行っている間も、ウード公に稽古をつけていただきますか?」
「いいや。私も行くよ。行かせてくれ、ヴァン。他人事でいては、いけないことだからね」
ウード公の授業を受けた後、少し休んで皇后陛下のお見舞いへ向かう。皇宮医のアイスラーは顔見知りではあるが、診察を受けたことはない。皇宮医にかからねばならぬほど、重篤な病になったことがないのだ。そういう意味ではなるほど、妖精や精霊の加護のお陰なのかも知れない。
ジークフリードの後に続き、特に警備の厳重な奥の宮へ通される。皇后の居城、
いつもジークフリードと一緒に勉強している部屋は、ただの勉強部屋である。ぼくもジークフリードを自室へ招き入れたことはないから、余程親しくない限り寝室へ招き入れることはしないのが皇国のマナーのようだ。
そのことから照らし合わせてもおそらく、皇族のルールとして皇后は妊娠中、月明宮から外へ出ることはしないのが慣例なのだろう。
奥の宮の一角にある扉を開くとそこには広大な庭が広がっていた。そこからさらに歩き、途中ぼくは案の定ヘバってイェレミーアスに抱っこされ、どうにか月明宮に辿り着いた。そこからさらに三階まで上がると言われたぼくの顔を見て、ジークフリードが堪えきれず吹き出したのを一生忘れない。ぷん、だ。
「母上、ベステル・ヘクセ殿とスヴェンとアスが見舞いに来てくれました」
軽くノックをして、ジークフリードが顔を覗かせると、嬉しそうな声が聞こえて来た。
「まぁ、どうぞ。入って」
招く声を待ち、部屋へ入ると皇后はソファへ凭れかかるような体勢になっていた。さすがに皇后の前で抱っこされたままは不敬である。イェレミーアスがそっとぼくを下してくれた。皇后に笑顔で手招かれて、ソファへ歩み寄る。
イェレミーアスは小さな花束を。ルクレーシャスさんは安産祈願の祈りが込められた護符を。ぼくは腹巻を編んだものを、それぞれ見舞いの品として持参した。
「まぁぁ、スヴァンテちゃん。これはいいわ、お腹が温かいわぁ」
プレゼントに喜んで見せた皇后のベッドの脇には、皇宮医のアイスラーと青白い肌、長い手足の老人がまるで影のようにひっそりと立っている。この人がリトホルムだろう。
「これから寒くなりますし、妊娠初期はお腹を冷やすのはよくありませんから。気に入っていただいたのなら、もう一つ作って参りますよ」
「!」
皇后へ腹巻を渡すと、茫洋と視線を漂わせていたリトホルムは突然ぼくへ顔を向けた。驚いたような表情で、少し目を見開いている。気にはなったが、ぼくは皇后の機嫌を取る方を優先した。
「いいの? ありがとう、スヴァンテちゃん」
「つわりはもう、終わった頃ですか? 食欲も体調も戻って来るでしょうけれど、あまり無理はなさらず。これからどんどんお腹が大きくなってきますよ、ジーク様。皇后陛下を労わってくださいね」
「……」
リトホルムは何故か、ぼくをじっと見つめている。見すぎじゃない? いくら薬学士が平民とはいえ、貴族相手をすることが主なはず。貴族の顔を凝視するなんて失礼に当たると知っているだろうに。ぼくはわざと顔を上げた。目が合うと、視線を逸らされる。
「ジーク様、お兄さんになるんですね。嬉しいですね」
「うむ。お前に幼なじみが増えるぞ、スヴェン」
「楽しみです、ジーク様」
新しい命が生まれる。それだけで少し、明るい気持ちになるから不思議だ。アイスラーの指示を書き留め、リトホルムはその場でいくつかの乾燥させた薬草らしきものを取り出して混ぜ合わせた。
「一日一回、就寝前にこちらを煎じて温かいうちにお飲みください」
少し足を引き摺ってアイスラーへ歩み寄ったリトホルムの手元を眺める。漢方薬みたいな感じだ。
「三日分、くらいの量なんですね」
アレルギーがあるならすぐに症状が出るだろうし、改善傾向なら三日くらいで現れるのだろうか。そういえば、風邪薬も大体三日分処方されるよな。そんなことを考えながら、リトホルムの手元を覗き込む。後退る時も、リトホルムは左足を引き摺っていた。
「……そうです。公子は、薬草に興味がおありですか?」
高齢のフリュクレフ人は、手足に傷を負ったものが珍しくない。奴隷時代の名残だ。非道な主に手や足を傷つけられ、折られ、切られ、焼かれる。そんなことがまかり通っていた時代は、まだほんの五十年ほど前のことだ。
リトホルムも、おそらく幼い頃に受けた傷が治らないままなのだろう。覚えずその手へ触れ、問いかける。
「そうですね、今までは関わることが禁じられていたのですけれど、家名を捨てたので関われることになったんです」
「……」
あっ、やってしまった。一同、しん、と静まり返る。皇宮医のアイスラーを初め、リトホルムはもちろん、皇后としても何とも返答しようがないだろう。
「その通りだ。スヴェンは賢いヤツだから、薬学を学べば必ずや国のためになるだろう。父上から、薬学典範の閲覧許可も得ている」
「まぁぁ、そうなのね? ヴェンがいいと言ったのなら、心置きなく学んでちょうだいな、スヴァンテちゃん」
すぐに切り替えたのはさすが皇后と言ったところか。ぼくは胸へ手を当て、頭を垂れた。