『できる』
「えっ?」
ぼくを抱えて座るイェレミーアスの隣に陣取ったルチ様が、眼球だけを動かしてルクレーシャスさんを見た。
『できる。学んだから、入れなくできる』
「じゃあ、問題ないね」
にっこりと微笑んだイェレミーアスに、ルクレーシャスさんが難しい表情をした。ふう、とため息を吐きこめかみを両手で揉んでいる。
「イェレミーくん、自分のスヴァンくんへの執着が異常なのは自覚がありますか」
「……大切な恩人です。崇拝したくなるのも当然では?」
「……それだけなら、いいんですが。スヴァンくん、あとで君が探していた精霊学の本を、わたくしの部屋へ取りにおいで。フレート、君が連れて来るんだ」
「……」
イェレミーアスは、一瞬だけ感情の見えない顔をした。でも、ぼくに害があるならルチ様が黙っているはずない。ルクレーシャスさんはちょっと過敏になっていると思う。
「明星様」
『……』
ルチ様は変わらず微動だにしないまま、ちらりと視線だけをルクレーシャスさんへ向けた。何でそんなにルクレーシャスさんのこと嫌うのかな。
「何故あなたは、彼にだけ甘いのです?」
ごく、と唾を飲み込む。それはぼくも感じていた。少し前から、有り得ない可能性をぼくは頭の中から追い出せずにいる。
『私は、ヴァンにしか干渉できない』
「……」
やっぱりルチ様の答えは時々、意味が分からない。ルクレーシャスさんは眉を顰めてぼくを見た。ぼくは左右へ首を振る。少し眉間の皺を深くして、ルクレーシャスさんは目を閉じた。金色のお耳がぱたぱたしている。
ぼくは胸の前で一つ、手を打った。
「さて、これからとても忙しいんです。イェレ兄さまは普段通り過ごしてください。ぼくは平民向けの孤児院の手配、それから新商品の開発、社交、ジーク様との勉強、ブラウンシュバイクへの尋問、ミレッカー、ハンスイェルク、シェルケの監視と証拠集めを並行して進めなくてはならないので。ルチ様、一緒に遊べる時間もこれからは減りますからね」
今は日本で言う八月に当たる恵み月の初め。社交が行われる夏は終わる。辺境に領地を持つ貴族は領地へ帰って行く。
「冬の間、辺境に戻るハンスイェルクとシェルケはミレッカーと密に連絡を取るのは難しくなるでしょう。そこが狙い目だと、ぼくは思います。この冬は皇都でお金を稼ぎながら、ハンスイェルクとシェルケを反目させられないか、考えたいのです」
「……わたくしの弟子は、また恐ろしいことをしれっと言ったね……?」
「人殺しという選択をした人間など自分が簡単に人を殺すことを選択したように、他人もそうすると疑心暗鬼になって苦しめば良いのです。自業自得です」
イェレミーアスがさらにぼくを抱える手へ力を込めた。
「ああ。本当に、そうあるべきだ」
茫洋とそう呟いたイェレミーアスの瞳は、遠くを見ている。この子は爆発寸前だ。報復でもいい。復讐でもいい。腹にため込んだ感情をどこかへ吐き出させなければ、きっと壊れてしまう。
ぼくは、イェレミーアスの手へ手を重ねた。
「手伝ってくださいますか、イェレ兄さま」
「もちろんだ。私がやらねば誰がやるというんだい、ヴァン」
昏い瞳だ。怒りと憎しみと焦燥。それらが冷たい澱となって淀んでいるのが分かる。早くこれらを消化させる必要があるだろう。
「なので、恵み月の間はぼくはお仕事と、皇宮への出仕に専念します。専念して、いるように見せかけねばなりません」
ね、イェレ兄さま。そう言って仰いだ勿忘草色の虹彩は、やはり縁がピンク色に滲んでいる。その青は優しい色だと、ぼくは思う。
だから、どうか。
ルクレーシャスさんと、ぼくの懸念が外れていますように。覚えずぼくは、イェレミーアスの頬へ触れた。花が零れるように笑みを浮かべたイェレミーアスの甘い美貌に、先ほど見えた陰はもう、読み取ることができない。
自室で本を読んでいると、フレートが迎えに来た。イェレミーアスの膝から下りて、手を振る。
「イェレ兄さま。ちょっとルカ様のところへ行って来ます」
「ああ。待ってる」
イェレミーアスから少し離れた窓際には、ルチ様が外を見て座っている。イェレミーアスとなら、同じ部屋に待っていられるんだよね、ルチ様。他の人ならぼくに付いて来る。妖精や精霊がそうだ。ぼくがお願いした時以外、傍を離れずずっと付いて来る。
「ベステル・ヘクセ様、スヴァンテ様をお連れしました」
「入って」
ルクレーシャスさんは日当たりの良い部屋の中央に置かれたソファで、珍しくしゃんと座っていた。じろりとぼくを睨んでテーブルを挟んで向かいの席を目で指し示す。
「……」
大人しく指示されたソファへ歩み寄る。フレートがぼくを座面へ下ろした。
「君は外に居てくれ」
「承知いたしました」
フレートが出て行き、扉が閉じたところでルクレーシャスさんが口を開く。
「君は、イェレミーくんと明星様の関係を察しているね?」
「……まだ、」
「『断定できないから』だろう? 想像の域で構わないから言ってごらん」
「……言いたく、ありません」
口にしたら、現実になってしまいそうで。今はまだ、疑惑でしかない。確かめてしまったら、それが事実になってしまいそうで怖い。
「……」
膝で結んだ拳へ力が籠る。ただぼくは、認めたくないんだ。ぼくが死んだらルチ様と一緒に精霊の国へ行くと言ったら、あんなに心配していたのだ。そんな敬虔なデ・ランダル神教徒の彼がどうして、その選択をするに至るのか。そこには一体どんな経緯があるのか。それは苦難の末に選ばざるを得なかったことではないのか。ならば、ぼくは失敗したのか。
ぼくが考えつくようなことへ、ルクレーシャスさんが思い至れないわけがない。
ルクレーシャスさんが立ち上がって、ぼくの脇へ膝をついた。それからぼくの握り締めた拳へ手を添える。
「責めているのでは、ないんだよ。スヴァンくん」
「……分かっています。けれどぼくはそれがイェレ兄さまの選択ならば、仕方のないことだとすら、考えているんです」
ある程度の、いくつかの可能性と対処について考えるのは無駄ではない。だが、結局のところどうなるか分からない、答えの出ないことについて、どれだけ考えても無駄だ。今できることを今考え、その時しかできないことはその時に考えればいい。
「その結果がどこへ繋がるのか。その先に何が在り、何が失われるのか。例えばそれが、今現在を変えてしまうとしても。それはその時、また考えようと思っているんです」
「……はぁ……」
大きなため息を吐いて、ルクレーシャスさんは自分の尻尾を抱えるようにして手を動かした。ぼくはそわそわした。だって、ずっと言いたかったんだもん。
「……ルカ様」
「なんだい?」
「あの、ぼくも」
「うん?」
「しっぽに触っても、いいですか?」
ルクレーシャスさんは完全に動きを止め、空を見つめた。
「全く、君って子は本当に一体何を考えてるんだろうねッ!!」
「えへへ」
もふもふについて考えています、とは言えずにぼくは笑ってごまかした。ぼくの手へ添えられたルクレーシャスさんの手を反対の手で押さえる。
「ぼくが避けたいのはね、ルカ様。誰かに狭められた選択肢の中、それしか選べなくされた結果の選択をぼくが大事だと思う人がさせられること、です。それは己の意志で掴み取った選択とは言えません。イェレ兄さまにとってそれが最善だったのなら、他人から見れば最悪の選択でも構わないと思っています」
「……君という子は……」
「例えばその結果が、ぼくとの対立だったとしても。イェレ兄さまに、後悔がないのならそれでいいと思うんです」
ルクレーシャスさんの瞳は、理解不能の生き物を見ている驚愕に満ちている。なるほど、ぼく以外の人間にはぼくが絶世の美形に見えているのなら、たびたび向けられて来た視線の意味が分かる。
「君という子は、優しいようで冷淡なところもある……なるほど、ヴェンのことも両親のことも恨まぬわけだよ……」
それは前世の記憶がある、という大人としての諦念と俯瞰的な思考、冷徹な感情の切り捨てだ。六歳の子供がそんな素振りを見せたら、ぼくだって気味が悪いと思うだろう。けれど、ルクレーシャスさんはそれを変に構えたり捉えたりしない。
「中身は三十過ぎですからね。ぼくは見た目通りの幼子ではないのですよ、ルカ様」
「そうだった、そうだったね……」
「だから、この話は一旦ここで保留にしていただけませんか。ルカ様」
「……本当に、君って子は。君にそう言われたら、わたくしが何も言えなくなるのが分かっていてそれを言うのだから質が悪い」