イェレミーアスに抱えられたまま、二階の客室へと移動する。ちなみに三階には、ヨゼフィーネとベアトリクスの部屋がある。三階は女性、二階は男性、としたのだ。本邸ができたらどうするかはまだ、考えていない。二階の東、一番奥がギーナの部屋である。
ノックをすると、侍女が顔を出した。
「ギーナ様のご様子はいかがですか」
「今、目を覚まされて水をお飲みになったところです」
ベッドの脇で何やら書き物をしていた白衣の女性が立ち上がり、こちらへ振り返る。明るいスカイブルーの髪、好奇心に満ちた栗色の瞳。ぼくと目が合うと、彼女はにっこりと微笑んだ。彼女が住み込みで働いている、医師のクラーラ・ディハニッヒだ。
「おや、スヴァンテ様。お見舞いですか」
「ええ、クラーラ先生。お邪魔しても、よろしいですか」
「どうぞ」
「おお、クラーラ。どうだ、元気にしているか」
「はい。皇太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しくご尊顔を拝することができて光栄にございます」
「いい、いい。ここは幼なじみの屋敷だ。気楽にしてくれ」
ジークフリードは扉から中を覗き、クラーラへ挨拶をするとギーナへ声をかけた。
「ギーナ・ゼクレス。オレはジークフリード・ランド・デ・ランダだ。入ってもいいだろうか」
「……! ジークフリード殿下……! こんな姿で申し訳ありません」
体を起こそうとするギーナへ歩み寄り、ジークフリードは手で動きを制した。それからベッドの脇できっちりと頭を下げる。
「助けが遅くなったことを、父皇に代わり謝罪する。今後は貴殿とゼクレス子爵家の地位と名誉の回復に協力を惜しまぬと約束しよう。ここに居る、スヴァンテ・スタンレイがオレの代わりだ。信頼のおける人間だとオレが保証する。協力してやってくれ」
きっぱりと言い切ったジークフリードは、ギーナの目にどう映っただろうか。その答えは、涙に震えたギーナの返事に表れているとぼくは思った。
「……ありがたき、お言葉……」
震える声で押し出すと、ギーナはベッドの上で平伏した。ジークフリードはギーナの肩へ触れた。ギーナの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「よい。諸悪の元凶を討った暁には、ゼクレスの爵位を貴殿へ返すとこのオレが約束する」
「ありがとうございます、殿下。ありがとうございます、うう、ううう……」
「やれやれ、ギーナ様。感動しておられるところを恐縮ですが。ジーク様は今、ぼくに丸投げするからよろしくねっておっしゃったんですよ」
「ははっ! さすがはスヴェンだ。よく分かっている」
ぼくがぼやくと、ギーナは丸い目をさらに丸くして顔を上げた。皇太子であるジークフリードと、こんなに気安く喋るのはぼくかローデリヒくらいだろう。
「改めて、よく生きていてくれた。ギーナ・ゼクレス。これから、オレの幼なじみとアスを守るためにも、力を貸してくれ」
「おさな、なじみ?」
「離宮で暮らしていましたからね」
「そうだな。今は思い付いたら会いに行けるというわけにはいかなくなって、少し寂しいんだ。だからギーナ。オレを信じてくれるのなら、同じようにスヴェンを信じてくれると嬉しい。自分にとって損かどうかより、人の痛みを考えてしまう、本当に、本当にいいヤツなんだ」
しみじみとそう言ったジークフリードの顔を、覚えず見つめてしまった。君にそんな風に思われていただなんて。イェレミーアスに抱えられたまま、手を伸ばす。ぼくの手を握って、ジークフリードは笑った。
「ヴァンは信頼できるし、とても賢いんだ。これからきっと、君も知ることになるよ。さぁ、もう少し休むといい。ベッドへ横になるんだ」
イェレミーアスが優しい声音で促す。ギーナは頬を染めてイェレミーアスへ頷いた。分かる。美少年に優しくされるとそうなるよね。きゅんです。ってなる。
ぼくは目で同意して、ベッドへ横になったギーナへ頷いて見せた。
ギーナのお見舞いを済ませ、コモンルームへ戻る。ルクレーシャスさんは部屋を出た時同様、ソファでせっせと口の中へブッセを詰め込んでいた。
この頼れる時はちゃんと頼れる師匠は何故、限界までお菓子を口へ詰め込むのか。ぱんぱんに膨らんだ頬袋を目路へ入れ、こめかみを押さえる。ソファへ座るなり、ジークフリードは口を開いた。
「で、この先どうする?」
「どうもしません」
「……は?」
あんぐりと口を開いたジークフリードへ澄まし顔で答える。
「ギーナ様はおそらく、この一年証人を生かすのが精いっぱいだったかと思われます。でもぼくらは今、何をどこまで把握しつつあるかミレッカーに知られたくない。だから動きません」
「動かない、のか」
「ええ。動いてないように見せるのです。ぼくは皇宮に籠って早急に薬学典範を読み解きます。皇宮への滞在許可をいただけますでしょうか? ジーク様」
「ああ、すぐに準備させよう」
ジークフリードは立ち上がり、廊下に待機していたフローエ卿へ声をかけた。
「カルス。父上に至急、スヴェンの皇宮滞在許可を取れ。無期限だ。明日の正午ごろまでここに居るから、それまでに、だ」
すたすたと戻って来て、再びぼくの向かいに座ったジークフリードは背もたれへ両手を広げて足を組んだ。
「ギーナ様捕らえていた人間の中に、薬学士と思しき人物がおりました。確認可能な好機かと考えますので、少々試したいことがあります」
漆でかぶれる人間は、漆科の果物を食すとアレルギーを起こす可能性が高い。知ってる? マンゴーって漆科なんだよ。だから漆でかぶれる人はアレルギー反応が起こる可能性が高い。あと、マンゴーはラテックスに似た成分を含んでいるのでラテックスアレルギーも起こる可能性がある。同じように、リンゴやモモなどもラテックスアレルギーが起こることがある。まぁ、この世界にはまだラテックスなんてものはないだろうけれど。
例えば、それを知っている薬学士にそれらの食品ばかりを与えたら、どう反応するだろうか。
ちなみに日本人にとっては食物アレルギーと言えばお馴染みの蕎麦は、この世界にもある。痩せた土地でも育つので、主に平民が食べる。クレープみたいにしたり小麦と混ぜてパンにしたり、リゾットみたいにして食べるのが主流だ。だけど貴族はあまり食べない。どちらかというと、平民が小麦の代わりに嵩増しに使うからだ。平民が蕎麦を食べて死んだとしても、貴族は気にも留めないだろう。
だからこそ、食物アレルギーを起こす可能性の高い食事が並ぶ中、蕎麦が出て来たらぼくなら確信する。こいつ自分を食物アレルギーで殺す気だ、って。
「ぼくにいくつか死に至るかも知れない食物の心当たりがあります。それを薬学士の虜囚に食べさせ続けるのです。いくら鈍感だとしても、症状が出やすい食物ばかりが食事として出されればこちらの意図に気づくでしょう。もちろん本当に食物アレルギーで死なれては困るから、普通の食事もそれなりに出してね」
ラテックスアレルギーの部分は省いて軽く話す。ジークフリードもイェレミーアスも、特に疑問を持たない様子でぼくの話を聞いている。この子たち、ぼくへの信頼が強すぎないか。ちょっと心配になる。世の中にはね、詐欺を働く大人なんていっぱいいるんだから用心しなくちゃいけないんだよ?
『ヴァン』
「?」
『死なないようにしてある。食べても死ぬほど苦しむだけで死なない』
「……」
それはさすがに鬼すぎやしないかね、ルチ様や。ぼくは即座に発言を撤回してフレートへ手を上げた。
「いいです。アレルギーが出やすい食物のみの食事を与えましょう。ルチ様のお陰で死なないので思う存分やっちゃいましょう。因果応報ですので」
「まぁたスヴェンが怖いこと言ってら……」
ローデリヒの呟きを咳払い一つで無視した。
「薬学士にヴァンの言うような知識があり、何らかの反応を示したのならば、それは皇室へ収められている薬学典範に同様の記載がなければならない」
イェレミーアスの声がぼくの耳殻をくすぐる。頷いて同意を示すと、ジークフリードは片手で自分の顎を撫でながら小さく首を縦へ振る。
「ふむ。皇宮へ納めた薬学典範と実際の知識に相違があれば、反逆罪にも問える」
「上手く行けば、ミレッカーと薬学士を分断できる」
ジークフリードは姿勢を戻し膝の上で両手を組むと、首を傾げた。
「うむ? それがどうしてミレッカーと薬学士を分断できることに繋がるのだ?」
「薬学士が、実際は持ち得ている知識を故意に薬学典範へ記入していないとすれば、虚偽の記載をせよと命じたのは一体、誰でしょう?」
ぼくを抱えたイェレミーアスの、声が背中から響く。
「ミレッカーか、薬学士か。真実がどうであれ、両者の間に軋轢が生じるのは確かでしょうね」