「フレート、連れて行ってください」
「……かしこまりました」
フレートに手を引かれて廊下を進む。コモンルームからすぐの廊下を曲がると、ぼくは口を開いた。
「フレート、ぼくが不在の間にお願いがあります」
「何でしょう」
「……ゼクレス子爵邸に、ギーナ様のお兄様の……ヘクトール様の、ご遺体があります。埋葬して差し上げたいので、ここへお連れしてほしいのです。大人が入れる場所ではないので、ルチ様に二階の東端の部屋へお連れしてくださるよう、お願いしておきます。……そちらがヘクトール様のお部屋のようですので」
「……承知いたしました」
ヘクトールは大人が入れない秘密の空間に「隠れて」いた。命懸けで守ったものがある、ということだ。そしてそれは、すでにルチ様から受け取っている。
それは想定の範囲内であった、ぼくの予想を裏付けるものだ。
「それから……、ヨゼフィーネ様とベアトリクス様には、お見せしないように済ませてください」
「……スヴァンテ様……」
ぼくはギーナが兄の遺体と対面して、悲しむところを見たくなかったんだ。だからぼくの居ない間に人任せにして済ませてしまいたかった。何より、ギーナが悲しむところを、イェレミーアスに見せたくなかった。
「ギーナ様の要望を最大限聞いて差し上げて。丁寧に、埋葬してください。ゼクレス子爵家の墓所には、目くらましをかけておくように妖精たちにお願いしておくので誰かに見咎められることもないでしょう」
「……かしこまりました」
「コモンルームへ戻りましょうか」
「はい」
くるりと向きを変え、廊下を引き返す。ぼくの歩幅に合わせた、ゆっくりとした速度に涙腺が緩む。
「スヴァンテ様」
「はい」
「あなたは、……尽力されておりますよ」
「……うん。ありがとう、フレート」
たらればを挙げればキリがない。そんなことは分かっているけれど。
ぼくが、もう少し早ければ。あと一年、ことが起こるのが遅ければ。
救いたかったな。全てを救えるだなんて傲慢なことは言えないけれど。それでも悲しい思いは少ない方がいいに決まってる。まだまだぼくは、無力な幼子だ。
コモンルームの扉をフレートが開く。いつまでも俯いてはいられない。ぼくの顔を見て、手を広げたイェレミーアスの元へ歩み寄る。両手を広げて抱きつくと、鼻の頭へ鼻の頭をちょい、とくっつけられた。
「くすぐったいですよ、イェレ兄さま」
「ふふ、そう?」
長い睫毛がぼくの瞼を撫でる。本当にくすぐったくて身を捩った。くすくすと笑い合うぼくらへ、ローデリヒとジークフリードは何か言いたげな目を向けている。
「はぁ……この先、アスのようになる人間は増える一方なんだろうな……」
「だろうな。あきらめろよ、ジーク。あ、フレート。父ちゃんに今日はオレも皇宮に泊まるって、スヴェンの手紙を届けるついでに伝えといてくれよ」
「かしこまりました」
「早く返事書けよな、スヴェン。フレート待ってるじゃん」
「……」
何だろうな、ちょっと理不尽を感じてしまった。それでもぼくは咳払いをして、便箋へ手を伸ばした。いつもならぼくを隣の座面へ下ろすイェレミーアスは、にこにこと微笑んだまま足を開いた。座面に落ちるかと思ったけれど、脇へ手を入れられ、イェレミーアスの足の間へ、ゆっくりと下された。
「……イェレ兄さま?」
「うん?」
「えっと……?」
近い、近い。距離が近い。今までも近かったけど、今までの中でもさらに近い。
えっ? これ、普通の触れ合いの範疇かな。前世ではちょっとこれは距離が近すぎる気がするけど、この世界では普通なのかなどうなのかな。でも強く拒絶するのも憚られる。常時抱っこされておいて、今さらこの程度の接触を拒絶するのもおかしくない? どうなの? これはアリなの?
尋ねたいけど、どう尋ねていいのか分からない。向かいに座る二人へ視線を送ったが、目を逸らされた。おい。まったく、頼りにならない幼なじみですこと!
「エステン公爵閣下へ、返事を書くのだろう? ヴァン。便箋を押さえておいてあげるね」
覆い被さるようにして耳元へ囁かれる。わぁ、なんて甘いお声なんだろう。なんだろうなぁ、これはよくない気がするな。だけど何が良くないのかよく分からないので、ぼくは気にせずペンを手に取った。
覆い被さるように抱き抱えられているので、ほぼ視界共有状態である。ぼくが手紙に何て書くか、知りたかっただけかなぁ。
「ヴァンは字まで繊細で美しいな」
「そう、ですか……?」
「うん」
一通り書き終えて読み返す。ふう。まぁこんなものだろう。便箋を折り、封筒へ入れて封蝋印を手に取る。封蝋印には、もちろん
「それは私がやってあげるよ、ヴァン。火傷をするといけないからね」
銀色と菫色のシーリングワックスを手に取ると、イェレミーアスは封筒の上でくるくると器用に回して見せた。炙られたわけでもないのに、ぽたぽたと蝋が落ちる。ぼくはその上にゆっくりと封蝋印を押し当てた。銀色と菫色が混ざったシーリングワックスは、元々のぼくの髪と瞳の色を連想させる。
「わぁ、炎の魔法ってそんな風にも使えるんですね、イェレ兄さま」
ぼくが手を叩くとイェレミーアスは甘い笑みを浮かべた。向かいのソファから、ジークフリードが死んだ魚のような瞳をぼくらへ注いでいる。
「いつもこうか?」
「いんや。ちょっと前から悪化した」
「……」
ローデリヒの返事にジークフリードは頭を抱えて項垂れた。どうしたのこの二人。なんか悩みでもあるの? ルクレーシャスさんは二人と目で頷き合うと、無言でスコーンを口へ詰め込んだ。
「フレート、これをエステン公爵家へ」
「かしこまりました。ローデリヒ様はご伝言のみでよろしゅうございますか?」
「うん。明日は帰るって言っといて」
「承知いたしました」
「あとはフローエ卿が、皇王陛下の許可を持って来られるのを待つだけですね」
「うむ。あいつ遅いな。どこぞで寄り道しておるのだろう。困ったヤツだ」
スコーンもクッキーもパイもたくさん作ったので、いつ出発しても大丈夫だ。ハンスへ手紙を渡すフレートの背中を見る。見事な逆三角形だ。着痩せするタイプだろうか。最近はイェレミーアスと一緒に訓練場を走っていたおかげか、とうとうぼくは敷地内を遭難せずに探検できるようになった。だから本当は、屋敷内も自力で歩き回れるのである。
ただ、一人で探検に出かけようとするとどこからかイェレミーアスがやって来て、抱き上げられてしまうのだが。
「……ぼくもいつかフレートくらい筋肉が付くといいな」
「……」
「……」
「……」
「付くわけないでしょ、寝言は寝て言いなさいスヴァンくん」
「!!」
この師匠、さらっと酷いこと言ったよ。ぼくは小さくてぽよぽよの手をぷるぷると震わせ、ルクレーシャスさんへ断固抗議した。
「そんなの分からないじゃないですか、ぼくだって男の子ですもん。そのうちルカ様よりも大きくなって、筋肉だってもりもりにならないとは言い切れませんよっ!」
「なるわけねぇじゃん、スヴェン。寝言は寝て言えよ」
「夢を見るのは自由だぞ、リヒ。そう言ってやるな」
それぞれ口にして、ローデリヒとジークフリードがぼくへ生温かい眼差しを向けた。酷い。酷すぎる。涙目でイェレミーアスを振り返ると、優しい勿忘草色が不憫なものを見る目をしていた。
「……残念だけど、ヴァンは可憐にしか成長しないと思う」
「――っ!? ……みんな、きらい」
「え、ヴァン?」
ぼくはイェレミーアスの膝から下りて、フレートの元へ駆け寄る。勢いよく両手を上げ、地団太踏んで要求した。
「フレート、抱っこ!」
「んふ……っ、はい」
フレートは完全に笑うのを堪えて唇を横一文字にしている。失礼すぎでしょ!
「ぼくだって、ぼくだって、おっきくなるもん」
「んんっ。左様にございますね、スヴァンテ様。身長は伸びるかと存じます」
だよね。ちっさいまんまのわけないじゃん? みんな幼子に向かって酷いぞ。ぼくはさらに同意を求めた。
「ムキムキに、なるかもしれないじゃん」
「……可能性は限りなく低いかと存じます」
忠実な執事は、申し訳なさそうに首を横へ振った。常ならしっかりと撫でつけられている前髪が一房、はらりと額へ落ちた。
「ふぇ……っ」
「しかし可能性はなくはございませんよ、スヴァンテ様」
「ううう」
「限りなく低うございますが」