「リヒくんはしばらく来なくていいよ。わたくしのおやつが減るからね」
なんだかんだでローデリヒはおいしい役どころなのだ。憎らしいが憎めない。本当に稀有な存在である。
「ああもう、急いで来たというのにイイところは全部リヒが持って行ってしまったではないか! つまらん! オレはつまらんぞ、スヴェン」
「まさか。ジーク様は大変に頼もしかったですよ。ギーナ様は一生、ジーク様にお仕えすると心に誓ったことでしょう」
「ちっ」
ジークフリードは半ば自棄、といった素振りで扉の脇へ待機しているハンスへ声を上げる。
「ハンス! 今日はオレは肉が食いたいぞ! 夕餉のメインは肉料理にしてくれ!」
「かしこまりました」
扉を開け、外に待たせている侍女へ何事か伝えて再び扉の脇へ戻って来たハンスは、どこかフレートに佇まいが似て来た。ぼくと目が合うと、にっこりと微笑みぼくの意図を読もうとしている。うちの執事は実に優秀だ。軽く頭を横へ振り、何でもないと伝えた。
「ぼく、しばらくの間ちょっと屋敷を留守にするのでよろしくお願いしますね。リヒ様」
ローデリヒからエステン公爵の手紙を受け取り、ぼくは内容を確認した。さすが理解が早い。ぼくはハンスに封筒と便箋と、ペンとインク、それから封蝋のセットを持って来るように伝えた。フレートはローデリヒが乗って来た馬車を片付けるように申しつけているのか、窓の外で厩番と何か話している。
「ええっ! なんでだよ、どこ行くんだよ、おやつどうすんだよ、なぁスヴェン」
一気に言い放ってスコーンで自らの口へ蓋をしたローデリヒと、その向かいでせっせと頬袋へスコーンを詰め込むルクレーシャスさんを眺める。我が家のジャイアントハムスター二匹である。ペットは癒し。だがこの二人は癒しっていうか、いやしい……。などと考えながらエステン公爵への返事を頭の中で捻った。
「……朝から騒がしいな、リヒ」
「お、ジーク。来てたのかよ」
「今日の午後から、スヴェンはしばらく皇宮に滞在する。リヒも来たければ皇宮へ来るといい」
「ええ……なんだよ、つまんねぇな。あ、でも皇宮でもおやつ作るんだろ? スヴェン。ベステル・ヘクセ様も皇宮へ行くよな?」
「わたくしがスヴァンくんの行くところに行かないわけがないだろう? リヒくん」
「だよな。じゃあ、オレも泊まれるようにしてくれよ、ジーク」
「ああ……? まったく図々しいなリヒ……」
ぼやくジークフリードも、寝室着にガウンを羽織ったままの完全なる寛ぎスタイルでソファへ陣取った。
「ハンス、お茶。濃い目のミルクティーにしてくれ。砂糖は要らん」
「かしこまりました」
君たちうちの使用人をまるで自分ちの使用人みたいに扱い過ぎじゃないかな。何度も浮かんだ台詞を飲み込み、ぼくは別のことを口にした。
「ルカ様もリヒ様も、おやつの心配しかしないんですね……?」
「そりゃそうだろ」
そうなのか。呆れていると、背中越しにイェレミーアスが答える。
「私もしばらくは皇宮へ同行する。ヴァンの世話を他の者にさせるわけには行かないからな。いいだろう? ヴァン」
「……うう~ん……。そうなると、屋敷が手薄になるので困りましたね……」
警備が手薄になるのは構わない。これでもかとルチ様の加護で守られていて、皇王の密偵さえ屋敷へ忍び込めないここは、鉄壁の防御を誇っている。警備ではなく、とにかくこのタウンハウスには人手が少ないのだ。フレートとベッテの負担が増える。ぼくにとって絶対の信頼を寄せているこの二人が、忙しくなるのは好ましい状況ではない。
「皇宮へは、私が同行いたしますよ。スヴァンテ様」
ハンスがフレート仕込みの礼をして、きっちりと腰を折った。ぼくの手元へ便箋や封筒を載せたトレイを置く。
元よりぼくは侍女を引き連れて歩くのが苦手だ。コモンルームでは秘密の話をすることが多いので、侍女たちは用がない限り廊下で待機している。これは普通の貴族では有り得ない。常に侍女や使用人数名に囲まれて過ごすのが普通だ。
皇宮の侍女たちに任せれば、当然だが普通の貴族にするように四六時中、ぼくへ付き従うだろう。考えただけでうんざりである。タウンハウスで過ごすように皇宮でも過ごそうとするなら、自分の使用人を連れて行かなければならない。だがフレートにはやってもらうことがあるし、そうなると同行するのはハンスが妥当だろう。
ハンスはフレートの甥らしい。フリュクレフの民特有の白い肌に、明るいアプリコットオレンジの髪、ホリゾンブルーの瞳の二十歳になったばかりの好青年である。
「フレートが残るなら何とかなるかなぁ……。ラルクも連れて行っていいですか、ジーク様」
「もちろんだ。久しぶりにラルクと遊びたいしな」
「じゃあぼくは、ウルリーカかカローネ、ラルク、ハンスの三人を同行させます。イェレ兄さまはお好きに選んで侍女をお連れください」
「うん。連れて行くのはウルリーカがいいと思うよ、ヴァン」
「そう、なんですか?」
「ああ。あれは君への下心がないから」
「……」
下心ってなんだろう。ぐーっと顔を後ろへ向け、イェレミーアスの顔を見つめる。普段通り、今日も完璧な美少年である。
ウルリーカは四十前半の落ち着きのある侍女だ。没落してしまった子爵家の出身で、皇宮で侍女をしていたらしい。ジークフリードの紹介である。皇宮で侍女をしていたのだから、皇宮に詳しいだろう。イェレミーアスもそういう意味でウルリーカを勧めたのだろう。合点して頷く。
「ハンス、ウルリーカに声をかけておいてください」
「かしこまりました」
ハンスが廊下に待機していた侍女へ申しつけ扉を閉めようとして、そのまま扉の脇へ戻った。フレートが顔を出す。
「朝食の準備が整いました、スヴァンテ様」
「はい。では参りましょうか、みなさま」
イェレミーアスに抱っこされたまま、食堂へ向けて廊下を移動する。皇国の冬は早く訪れる。窓から見える木々は既に、葉を落とし始めていた。
「フレート、留守の間はヨゼフィーネ様やベアトリクス様のことを頼みますね」
「承知いたしております、スヴァンテ様」
「それならオレが時々かーちゃん連れて来るよ。心配すんな。まかせとけ、スヴェン」
「ふふ、頼もしいですね。よろしくお願いします、リヒ様」
そう答えると、ローデリヒはぼくのほっぺを指でつついた。イェレミーアスは体を捻って避ける。
「やめないか、リヒ」
「おーこわ。お前はほんと、スヴェンのことになると心が狭いな。アス」
「お前が加減しないからだろ。ほら見ろ、ヴァンの頬が赤くなってしまった」
「お、ごめん。痛かったか? スヴェン」
「いいえ。大丈夫。ぼく、ちょっと触っただけですぐ赤くなっちゃうんですよ」
「そりゃそれだけ色が白ければそうだろうな」
ジークフリードがぼくを仰ぐ。そんなに色白かなぁ。皇国は血統至上主義なので、大体外見で家系が分かる。それでも前世でいうところの、欧米系の国なので貴族は白人ばかりだ。だが平民はそうでもない。平民出のアンブロス子爵は褐色の肌である。アンブロス子爵には、南のレンツィイェネラ出身の祖先が居るのかも知れない。ぼくの異母弟も、父譲りの褐色の肌だった。貴族社会では少し、苦労するかも知れない。
取り留めなく考えながら、朝食を済ませてコモンルームへ戻る。
「イェレ兄さま、ぼくちょっとお花摘みに」
「どうして? 一緒に行くよ?」
イェレミーアスの腕から下りようとすると、がっちりと捕まってしまい下りられなかった。トイレにまで付いて来ようとするだなんて。今まではさりげなく外してくれてたじゃないか。
仕方なく、ぼくは最大限の努力で幼児らしさを演出しながら緩く編み込まれた髪を指で弄って俯き、恥じらって見せた。
「……イェレ兄さま。ぼくだって恥ずかしい時は恥ずかしいんです。特にイェレ兄さまのような素敵な方には見られたくない姿だって、あるんですよ?」
「……」
ぶわ、と一瞬すごい熱気が吹き付けて来た。えっなに怖っ。
「分かった。すぐに戻っておいで、ヴァン」
「……はい」
そっとぼくを床へ下ろしたイェレミーアスを見上げる。いつも通り。いつもと同じ優しい笑み、だが。なんだろうな。なんかこう、なんか。
「……」
言語化できない感情を、ぼくは忘れることにした。