少し、苦しかった。
朝早く起きて、身支度を整える。そして玄関の掃除をしたら、お母様たちが起きるまでに朝食を準備する。
私も、この家の長女なのにね。
別に料理や洗濯が嫌いだとは思わないけど、それでも、家族との隔たりを常に感じていた。いや、もはやあの人たちは、私のことを家族だなんて思っていないのかもしれない。
「ねえ、なんかこのお茶不味くない?お姉様、どういうこと?」
また始まった。妹の
今日の朝食はまだ食べていない。あとでわずかな残り物をもらうだけだ。
「
「申し訳ありません」
「お前は本当に、掃除も洗濯も、なにひとつできない能無しだねぇ」
お母様が言っていることは全て正しい。お母様が「能無し」だと言うなら、私は「能無し」なのだ。
お母様と私は血が繋がっていない。私の母は私が幼い頃に亡くなり、お父様は再婚したのだ。だから瑠璃と私には通っている血が違う。だからお母様は私を「いらない」と言う。
今日はお父様が話したいことがあるらしく、お母様と瑠璃は部屋へ向かった。少しだけ心が軽くなったまま、掃除道具を持って持ち場へ向かう。
すると、その部屋からやけに元気な声が聞こえてきた。
「本当に!?」
「ああ。お前にこの家を継いでほしいと思っている。そろそろ婚約者も見つけないとな」
「ありがとう!とっても嬉しいわ。お姉様にも伝えてあげなくちゃ」
「あら、まだお姉様と呼んでいるの?あれはもう使用人同然なのだから、『菖蒲』でいいのよ」
「はーいっ。私、もしかしたら菖蒲がこの家を継ぐんじゃないか、なんて心配してたのよ」
「そんなこと天と地がひっくり返っても起こらないから、安心なさい」
「そうよね。心配しすぎだったわ」
分かってはいたけど、私は所詮、そんなもの。きっと私は生涯をこの家の使用人として終えるのだろう。なんだか急に道具たちが重くなったような気がしたが、すぐに忘れるようにした。
私には夢がある。
幸せに暮らすことだ。
小さいけれど光の満ちる家に、私と優しい旦那様が住んでいる。子供は女の子と男の子。決して裕福ではないけれど、笑顔の多い、慎ましやかな暮らし。あ、ご飯は残り物じゃなくて、きちんと食べれるようになれたら、もっと素敵。
そんなことは叶わないと分かっているけど、思い描くくらいは許してほしい。ほら、そうすればこの掃除だって楽しいものに思えてくるでしょ?
「菖蒲!どこにいるの?」
「はい!いかがなさいましたか、瑠璃様」
「ついに私、婚約することになったの!相手はまだ分からないんだけど、とても良いことじゃない?」
「はい、私もそう思います」
「…あなたのことは、ずっと使用人としてそばに置いてあげるわ」
「はい、ありがとうございます」
「…なによその顔は」
いけない。つい夢で頭がいっぱいで、微笑んでしまった。こういう時は悲しそうにした方がいいのに。
瑠璃の手が私の頬に飛ぶ。痛い。これだけは慣れない。
「あなたにはそんな顔が似合うわよ」
そう言って瑠璃は上機嫌にどこかへ行ってしまった。薄い安心が訪れたのはそれからだ。
「菖蒲、菖蒲」
午後、仲良くしてくれている
開けてみるとそれは甘味で、桃色や黄色に色がつけられた砂糖菓子だった。
「はい、口開けて」
そう言われて反射的に口を開けると、ころんと甘さが広がった。どうやら先輩にもらったらしい。もらったのは杏なのに、私に分けてくれるなんて、杏はとても優しい。こういうことも、私が生きている理由のひとつだ。
けれど、決してそんなことでは終わらないのも事実だ。
「菖蒲、ここに薔薇を飾りたいのだけど」
「…はい」
「だーかーらー、買いに行ってくれる?お金渡すから。余計なもの買うんじゃないわよ?」
「え…」
思わず固まった。今は深夜で、瑠璃も寝る直前だ。しかも薔薇には少し早い。まだ売られていないはずだ。
「花瓶は私のお気に入りがあるから、あなたは薔薇を調達して来なさい」
「けど、今の時間に開いている花屋など…。それに薔薇は…」
「ごちゃごちゃうるさいわね!」
口の中に血の味が広がった。いつもより強い拳だ。早く行かないと、これ以上酷いことになる。
ほとんど逃げるように、私は屋敷を出た。
「あれ、菖蒲!?どうしたの?」
ちょうど掃除帰りらしい杏が駆け寄る。けれど今は、明るく話せる気分ではなかった。
「…薔薇を、買ってくるように頼まれたの」
そう言って手のひらの金を見せると、杏はすぐさま顔色を変える。
「もう遅い時間だよ。どこのお店もやってない。危ない人たちも出歩く時間なのに…」
「瑠璃が、望んでるの」
「でも、もし花屋さんがやってたとしても薔薇が売ってる確率は…」
「瑠璃が、飾りたいの」
「最近は人攫いもいるって噂よ」
「瑠璃のために、行ってこなきゃ」
一歩踏み出すと、杏は私の手を掴んだ。
「私も一緒に頭下げるから!2人で謝ろうよ。私、菖蒲に危ないことしてほしくない!」
「…でも、杏が何かされるのは嫌なの」
「私、菖蒲のためなら殴られても蹴られても平気よ。お願いだから行かないで!菖蒲のこと、大切だから…!」
「私も杏が大切よ」
杏の手を振り解き、門の外へ走った。杏の私を呼ぶ声が、ずっと鼓膜を揺らしていた。
それから、どのくらい走っただろう。もう息は切れ、汗が出てきた頃、私は市場のある場所へ立っていた。いや、市場の「あった」場所だろうか。
いつもは色とりどりの屋台が並ぶこの道も、今はがらんとしており、誰もいない空虚な場所と化している。明かりはひとつもない。月も雲に隠れている。
やはりこんなところに花屋がやっているわけがない。私はどこまで、いつまで歩けば良いのだろう。そのまま持ってきてしまったお金を、胸の前に両手で握りしめた。この世界に、私独りしかいないようだ。
ふと、何か物音がした。その方を見つめるも、暗くてよく見えない。足音のようなものも聞こえる。
「…誰かいるの?」
その足音は段々と大きくなり、こちらへ近づいているようだった。
つまり、誰かが私を拘束するのも秒読みというわけだ。
「きゃあ!」
「動くな」
低く這うような声。すぐさま目隠しをされ、身体を抱えられる。抵抗しようとしても、枷があって動けない。
それは「人攫い」というやつだろう。