「そろそろ寝るよ」
「あ、はい!」
窓からは日光が差し込んでいる。なんだかこの時間に寝るというのは変な感じだ。
6時。いつもならとっくに起きて、瑠璃を起こしに向かう時間だ。
一応持っていたボロボロの櫛を置いて振り返ってみると、そこには布団が敷いてあった。ちゃんと2つ。
蒼黒の家は金魚屋からそう遠くない場所にあり、意外と綺麗な長屋なんだな、と思ってしまった。
それにしても家具がない。必要最低限を極めた結果のような内装だ。
「あれ…そういえば私…お布団で寝るのは久しぶりかもしれません」
「マジで?」
「はい。取られたり寝落ちしてしまうことが多かったので…」
「じゃあ良かったじゃん。ここに来て」
「…はい…」
薄く光が差し込むなか、布団に入る。少しだけ、これがずっと続けばいいのにと願いながら。
いつか、日の当たる幸せな生活を。
なぜか私の目は潤むのであった。
♢♢
…朝だ。
そう思った時には、もう遅かった。
「菖蒲…?」
昨日私は、菖蒲と別れてからずっとここで彼女を待っていた。
ずっと、ずっと、ずっと。
けどいつの間にか力尽き、座りながら寝てしまったらしい。
菖蒲なら、きっと起こすはず。どこか別の場所から入ったのかな。けどそんな私の期待とは裏腹に、菖蒲は屋敷のどこにもいない。いつもならもう起きている頃なのに。
鼓動が速くなる。
私がもっと言っていれば、力ずくでも連れ戻していれば!
居ても立っても居られなくなり、足は自然と駆け出していた。
「菖蒲!菖蒲!」
明け方だとか、そんなこと気にせず叫んだ。けど返事はない。
どんなに細い道でも、奥まったところでも、汚いところでも。
「うわっ!」
足を取られて転ぶも、そんなことどうでも良かった。
菖蒲は私のくだらない話を聞いてくれた。私の失敗も励ましてくれた。この嫌な屋敷の中でも、菖蒲がいたからやってこれた。
けれど、いつのまにか屋敷に戻ってきてしまった。
「杏!どこに行っていたの!」
「すみません」
「杏、聞いた?菖蒲さんが脱走したんだって」
「うん」
「どうしたの?怪我してるじゃない」
「はい」
「杏、瑠璃様たちが呼んでるわ」
やりたいことが、生まれる。
「お前、どこに行っていたの?菖蒲が逃げたのよ、なにか知っていたら言いなさい」
「なにも知りません」
「そんなことないはずだわ。あなたたちは仲が良いようですからね」
「今言えば、解雇はしないでやる」
ふつふつと湧いて、ぐらぐらと煮え、どうどうと私の中が満たされる。それはもう止められないし止めたくないものになっていく。
瑠璃の襟を引っ掴み、大きく顔を叩いた。
周囲が凍るのを肌が感じて、初めて襟を離す。自身の頬を触って、瑠璃の顔が醜く歪んでいく。
「この馬鹿が!」
「おい誰か捕えろ!」
「ああ、なんて可哀想なの」
奥様は涙を流し、旦那様は騒ぎ立てる。瑠璃は私を罵倒しながら泣き始めた。
「お母さん!お母さん!私酷いことをされたわ!とても痛いのよ!もうお嫁に行けないわ!こいつの全身の骨を折ってやりましょうよ!」
「あ…」
「なによ!今更悔やんでいるの!?」
「いかないと」
手にはいつのまにか包丁がある。
これはきっと、神様の慈悲なのだわ。
それを首に刺すほど簡単なことはなかった。
「杏、杏!」
目を覚ませば菖蒲がいて、不安そうな顔でこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「うん。とても幸せよ」
「そう?ならいいけど。あ、そうだ。口を開けて」
「え?」
「いいから」
「…美味しい」
「いつも杏にもらっているから、お返しよ」
「ありがとう」
「ところで、あなたはいつまで夢を見ているの?」
…朝だ。
そう思った時には、もう遅かった。
「杏、起きましたー」
「良かった。杏ったら、どんなところで寝てるのよ」
現実は甘くない。そう簡単に上手く行かない。
「…お願いがあります」
「なに?改まって」
「私を、解雇してください」
「…新しい仕事でも見つけたの?」
「いいえ」
「結婚相手が決まったの?」
「いいえ」
「なんとなく、そうしてみたくなったのです」
先輩は当然引き止めた。その場の判断で決めてはいけない。けど、ずっと考えていたことでもあるのだ。
寝室に飛び帰り、お母さんの形見に腕を通す。辞表を書き、先輩に手渡した。
非常に、不思議な顔をされた。
荷物をまとめて、振り返らずに屋敷を抜けるのだった。ほら、瑠璃の癇癪を起こす声が薄く聞こえる。
菖蒲ならきっと大丈夫。私も自由になってみたいの。
けど、どこにいけばいいのかな。ツテがあるわけでもないし。
…そうだ。お母さんの働いた場所にいけばいいのよ。
「菖蒲、いつ会えるかなぁ」
さあ、夜の街はどこだろう。
私を日光がただ照らす。