銀色に光る大振りなナイフが眠る或斗に振り下ろされる、その瞬間。
部屋に備え付けてあるクローゼットの扉が吹き飛び、その勢いのまま普の蹴りが刃物を振り上げた姿勢の修道女の胴に命中する。
修道女は部屋の壁に叩きつけられ、力なく床に倒れた。
その大きな音で飛び起きた或斗は、目の前の光景に驚く。
「普さん!? とシスター!? 何がどうなって……!」
普は戸惑う或斗を布団から蹴り出し、装備を身に着けるよう促す。
「話は後だ、さっさと高楽のボケと合流するぞ」
何が何だかわからないままの或斗はしかし(主に暴力で叩きこまれた)とりあえず普の指示に従う癖により、素早く装備を身に着け、普に連れられ部屋を出る。
廊下には何人ものシスターが倒れており、ナイフなどの武器が散らばっていた。
バンと大きな音がして、廊下の向こうで完全装備に大盾を手にした高楽が修道女をまた1人制圧していた。
或斗と普が駆けつけると、高楽は何故かこの状況で嬉しそうに顔をにやつかせて言う。
「普パイセン! オレ初めて夜這いされましたよ!」
オレも捨てたもんじゃないっすね~、と高楽は照れた仕草で頭をかいている。
普は駆けつけた流れのまま高楽の顔面を張り飛ばすと、「事務室に向かうぞ」と告げた。
「事務室ですか?」
「昼間、中から見た構造と、外から見たこの建物の大きさに微妙な差異があるのに気づいた。どこかにゴミ溜めがあるはずだ」
「普パイセン、山遊びしてきてたわけじゃなかったんすね~」
「お前だけには言われたくねえんだよゴミ溜めに着く前にお前を焼却処分するぞ脳みそ海綿体の性欲猿」
普は斜め後ろを走る高楽の装備の隙間へ裏拳を叩きこむ器用さを見せ、高楽を強制的に黙らせる。
高楽は高楽でそんなオウンゴール的攻撃を受けつつも、事務室への道中襲いかかってくる修道女たちの攻撃を全て防ぎ、返す盾の一撃で昏倒させている。
普の暴力に全く懲りない高楽に呆れれば良いのか、流石『暁火隊』エース格の1人と感心すれば良いのか、或斗は感情が迷子になっていた。
そうこうしているうち、事務室へ着く。
来る道すがらに修道女のほとんどを倒してしまったようで、事務室には人影がない。
普は棚などのない壁の一面を順にコツコツと叩いていき、あるところで足を止めると、壁に向かって馬鹿力任せの蹴りを放つ。
およそ人体とコンクリートの壁との間では発生しえない重機のような轟音が響く。
或斗が心の中で密かに万能破壊キックと呼んでいるその蹴りは事務室の壁も万能に破壊し、その奥の隠し部屋を暴き立てた。
「お~、さすがパイセン。でもこういうのってギミック解いて見つけるのがロマンなんじゃないすか?」
「そんなアホらしい概念、犬にでも食わせとけ」
高楽の言を切って捨てると、普は隠し部屋に踏み入る。
隠し部屋の中には書棚と執務机がひっそりと置かれてあり、机の上には何枚もの書類が出されたままで放置されている。
「やはりな」
そう言って普が手に取った書類には、檻に囲われた六角形、すなわち「カージャー」のマークが記されていた。
或斗と高楽が普の指示に従って隠し部屋の中から引っ張り出したありとあらゆる書類には、初めに普が手に取ったのと同様、「カージャー」のマークがある。
「つまりここは『カージャー』の隠れ拠点? ってことすかね」
「この辺りの書類をザっと見たが、正確に言えば将来の『カージャー』構成員の養成所らしいな」
孤児のガキなら思想も植え付けやすく、切り捨てやすい、孤児院ってのは偽装にもってこいだろうよ、と普は皮肉気に言った。
ダンジョン適性という今の社会での常識に疎い子供たち、揃えられた年齢層……或斗が昼間覚えた違和感は齟齬なくその答えと結びつく。
「やはりってことは、普さんは気づいてたんですか?」
驚きを隠せない或斗を普は鼻で笑う。
「バル=ケリムが潜伏しているらしい山の奥にある宗教かぶれの孤児院なんて臭すぎるだろうが」
「夕飯食べるなって言ってたのもそれでか~。いやあ、普パイセンが他人の食い扶持なんて心配するわけないって信じてましたよオレは」
高楽の装備の隙間を縫ってすねの側面を蹴っている普に或斗は思わず零す。
「教えてくれても良かったんじゃ……」
「この作戦の初めにも言っただろうが。頭が足りねえドブネズミに教えたらどこで勘付かれるか分からねえ」
それは確かにその通りなのだが、或斗はギリギリまで隠されていたことに普からの信頼の無さを感じ、複雑な気持ちになる。
或斗がもっと賢ければ、強ければ教えてもらえたのだろうか。ここに居るのが未零だったらどうだったろう。
やはり、或斗にはまだ何もかもが足りていないのだ。
未だ守られる側、その実感に強く拳を握る或斗をよそに、普は情報源となり得る資料をまとめている。
「ともかく、この孤児院のどこかにバル=ケリムとお仲間が潜んでやがる可能性は高い」
この山中に他の人工物は無かったからな、と普は手早くパラパラと書類を確認していく。
「マジで山遊びじゃなかったんすね~」
「本気で殺すぞ喋る肉壁」
そして普が書類を捲る手を止めたところには、孤児院の施設構造図があった。
構造図には地上居住部分の詳細と地下にある大きな空洞が記載されている。
「地下か」
普がそう呟いたとき、孤児院の床が大きく揺れ、地下から巨大な獣の鳴き声らしき音と地鳴りが一塊に響く。
孤児院の木製の床が裂け、その下から土と暗黒が顔を出す。
崩れる、そう思ったときには既に或斗は普に荷物担ぎされて隠し部屋、そして事務室の窓から外へ脱出出来ていた。
高楽はその前に普のそこそこ本気の蹴りで窓の外へ強制排出させられていた。あれでよく死なないものである。
或斗を担いで脱出した普は高楽をサッカーボールにしながら孤児院の建物から距離をとる。
孤児院から十分離れたところで或斗は地面に放られた。
地面の揺れが酷く、或斗は立ち上がるのに少し時間を要した。
響く地鳴りが大きくなるとともに、孤児院の広い庭の土が盛り上がり、基礎のコンクリートを破壊しながら、巨大なキメラモンスターが現れる。
緑の鱗を持つ巨大な竜を土台として、その首から上と尾の先に、鮫肌より鋭い鱗を持つ巨大なセイレーンの上位個体、太く真っ赤な火竜の首、何匹もの蛇を生やした頭部を持つゴルゴーンの上半身、その他形容しきれないほどの種類のモンスターたちが融合させられており、まるで悪夢で彩られたデコレーションケーキの失敗作のようだった。
「あのキメラは5年前と同じ……!」
暗い森の中に出現した巨体を目にした普がそう口にした。
或斗も過去視で一瞬見たあのキメラモンスターとよく似ている、と直感する。
崩落に巻き込まれないよう別ルートで地下から上ってきたのだろう、どこからかバル=ケリムが出て来て、『暁火隊』に押収されたものとは別の、簡易な造りの蒼銀の杖を振り上げ高笑いをした。
「フハハハハハ! 間抜けにも釣られたのは貴方がたの方ですよ! さあCH-26号! 逃げ道を塞ぎなさい!」
蒼銀の杖に操られたキメラモンスターは、頭部にある火竜の口から強力な火炎放射を周囲に向け、孤児院一帯の木々が勢いよく燃え上がる。
火竜の吹く炎は魔法的な現象と言われており、燃やすものの含んでいる水分量をさほど問題としない。
よって冬でもないのに木々はよく燃え、あっという間に大規模な山火事の発生に繋がった。
「山が……!」
魔法的な炎は水で消火を試みない限り長く燃え続ける上、自然現象のそれと同じように酸素を消費し一酸化炭素を生み出す。
バル=ケリムは逃げ道を塞げと命じたが、このままでは炎にまかれて焼死するか、一酸化炭素中毒で死ぬか、そのどちらもがあり得る。
バル=ケリムの身柄は一旦諦め、逃げに徹した方が良い……その本能的な判断を変えざるをえない理由が或斗の目に映った。
炎で明るくなった或斗の視界の端に、半分崩れた孤児院の建物から脱出してきた子供たちの姿が見えたのだ。
轟音で起きて着の身着のまま出てきたのだろう、寝間着姿の幼子たちは化け物と炎に怯えて動けず、泣いている。
「普さん、子供たちが!」
「チッ、クソ面倒だな」
普といえども即時見捨てる判断は出来ず、数秒逡巡する。
小さな楽園から急に地獄へ放り出された子供たち、そのきっかけを作ったのが或斗たちなのは間違いない。
いずれ「カージャー」の構成員とするため育てられていたとしても、今はただの無垢な命だ。
「あの子供たちには何の罪もありません! 助けなきゃ……!」
或斗が虹眼で炎を否定しながら道を作れば? しかしキメラモンスターがいる。
バル=ケリムは当然、30人もの子供を連れて逃げ出す隙を或斗たちへ与えてはくれないだろう。
普はほんの数秒の間に結論を出した。
「馬鹿猿、お前の無駄な堅さをたまには役立てろ」
「オレはいつでもお役立ちっすよってあ痛い痛い。りょーかいす」
普が蹴飛ばしながら指示を出すと、高楽は曲がりなりにも適性Aという俊敏さで子供たちの元へ向かった。
「戦力の分割は愚かな判断ですよ!」
バル=ケリムが蒼銀の杖を振ると、火竜の首が高楽の、子供たちの方へ向いた。
「高楽さん!!」
或斗が叫んだ一瞬に、火炎放射が高楽と背後の子供たちを包む。
また失うのか、或斗の記憶、ゾエーに命を奪われた英の姿が白熱した炎の上に浮かぶ。
しかし、僅か数秒ののち、霧が晴れるように魔法の炎が掻き消える。
そこには大盾を構え、火傷1つ負っていない高楽と、高楽に守られた子供たちの無事な姿があった。
「A級タンクのマジックガードは威力も範囲も段違いっすよ~ってね」
高楽はピュウと口笛を吹いて余裕の顔を作ると、背後の子供たちに笑いかける。
「今夜は遠足! ってことに今なった! オレと一緒なら熱くも怖くもないっすから、皆でここから逃げような!」
「シスターたちは?」
「遠足の先で待ってるっすよ! さあ立って、お兄さんを追い越さない程度に走るぞ~!」
何だかんだ昼間にほとんどの子供たちを構っていただけあって、高楽は子供たちの信用を得るのも早かった。
今までの保護者であるシスター不在の今、守ってくれる大人が誰かというのを子供たちも感じ取ったのかもしれない。
「じゃ、普パイセン、或斗くん、お先~っす!」
高楽はいつもの軽い調子を崩すことなく、30人もの子供たちを炎から守りながら場を離脱していく。
「あの盾男には捕縛された恨みがあります! CH-26号、追いなさい!」
バル=ケリムが杖を振って高楽の方へ向かわせようとしたキメラモンスターの前に、或斗と普が立ちふさがる。
「行かせない……!」
「イカレマッド野郎が。5年前と同じスペックで今の俺と
或斗が虹眼を発動させ、普がキメラモンスターへ向かって飛び出す、その刹那。
普が急に方向転換して、或斗の体の前に剣を突き出す。
驚いた或斗が普の真意を問う前に、或斗から1歩の位置で、突き出された普の剣からガキンと金属音がする。
攻撃を受けたのだ、と或斗が考え至る頃には、普が或斗の前に立ち、最大級の警戒を見せていた。
だが、攻撃を仕掛けてきたはずの敵の姿はどこにもない。
キメラモンスターの遠距離攻撃でもなさそうだった。
「……透明化か」
「『カージャー』幹部、エノクの能力……!」
バル=ケリムの拠点から出てきた「カージャー」幹部の情報は共有されている。
リーダー格だろうケージャという人物の次に情報が少なかった者、それが透明化する能力を持つというエノクだった。
栞羽から或斗の能力の天敵となり得る、と警戒するよう注意を受けていた敵。
確かに対峙していることすら分からない現状、或斗の虹眼では対処出来ない相手だ。
360度の視界をもってしても、見えない攻撃は止められない、否定出来ない。
或斗は焦りの中、周囲を見回す。
次の瞬間、今度は普の手前で金属武器の衝突音が鳴った。
普はハッと笑って何も見えない空間へ向けて剣を振り下ろす。
ギィン、と今度は何も見えない空間で武器同士がぶつかる。
「気配の消し方が甘いんだよカメレオン野郎! 見えない程度、軽いハンデだ! 誰にも見えないままで死に晒せ!」
普側から仕掛けていくことにより、推定でエノクの居るであろう場所が或斗から離れていく。
見れば、或斗がエノクの脅威に晒されている間に、バル=ケリムの操るキメラモンスターは周囲の森林を破壊しながら高楽たちのあとを追おうとしていた。
「させない……!」
或斗は燃える森を駆ける。
かつて未零に大怪我を負わせたのと同じキメラモンスターを、1人で止めるために。
「未零くんが攫われるきっかけとなったモンスターについて、かい?」
バル=ケリム捕縛作戦前のある日、『暁火隊』本部の応接間で、或斗は日明に尋ねていた。
「はい。あの普さんが居た上に、『暁火隊』の戦闘メンバーが揃っていた状況で苦戦した、というのがちょっと想像つかなくて」
日明は苦笑して、或斗の誤解を正す。
「5年前の私たちは、今或斗くんが思っているほど盤石ではなかったよ。普だって、当時からもちろん強かったし、頭一つ抜けた『暁火隊』のエースではあったが、今ほどではなかった。普は『暁火隊』を抜けてから本当に努力したんだ、1人きりでね」
日明は顔を曇らせて言った。
頼られなかった寂しさよりも、思い詰め1人きりで戦いに明け暮れていた普の5年間を思うと悲しいのだと。
「無論、私たちもこの5年間ずっと努力し、パーティの規模を大きくし、表と裏それぞれの戦力を整えた」
今の『暁火隊』は法案さえ通ればクランと呼ばれる規模になるだろう、と日明は続ける。
「とはいえ、当時の私たちを弱かったというのは過ぎた謙遜になる。何せ国の顔を任されたパーティだ。あのキメラ型モンスターが恐ろしく強かったのは事実だ」
日明は居住まいを正して、或斗の疑問へ答えた。
「苦戦を強いられたことにはいくつか理由がある」
日明はその理由を以下のように語った。
まず、不意を突かれた形で後衛を無力化されたこと。
これはあの廃倉庫に居た『カージャー』構成員と同じ、セイレーンの上位個体の能力だと推察される。
後衛の魔法火力、回復や援護魔法が使えなかったことも大きな戦力ダウンに繋がった。
次に、モンスターが無力化した後衛を積極的に狙ってきたことによって、前衛を張るはずのタンクが後衛の護衛につかざるを得なかったこと。
これでタンクの存在で最大火力を発揮出来る物理攻撃特化型のメンバーは攻めあぐねた。前衛としてタンクの代わりにモンスターの気を引く役目を負う必要があったためだ。
あの時まともにダメージソースとして機能していたのは魔法剣士として前・中・後衛とポジションを自在に変えられた普と未零くんのコンビだけだった。
その上で、キメラ型モンスターには分かりやすい弱点が無かった。
キメラであることによって属性的な弱点を補っているようだったし、体のどこか一部分を落としても、他の部分は問題なく機能したんだ。
知能も高く、負傷した部位を庇うように攻撃を集中させてきたから、一部分を落としていくことも容易ではなかった。
何より、どの部位のモンスターも強力だった、もし1体ずつ個別に現れていたとしても苦戦は免れなかっただろう。
「全てのモンスター部位の把握をして、対処出来るようになるまでに随分時間がかかった。最後の方には私を含め、メンバー全員が疲弊していたよ。未零くんの負傷は、モンスターが最後のあがきとして私たちの疲弊による隙をついてきたことによる」
語り終えた日明は小さく息をつく。
その表情から、5年前の反省と後悔を今までずっと抱えてきたのだろうと察せられた。
「あのキメラモンスターが『カージャー』による人為的な襲撃だったのだとすれば、また対峙することもあるかもしれない」
日明は表情を引き締め、或斗へ告げる。
「当然、私たちは5年前のような後れをとることはない。或斗くんを戦場に出すのはまだ心配だが、君の能力はあのキメラ型モンスターにも有効だろう、援護を頼むことはあるかもしれない」
ただし、と日明は言い添えた。
「対峙したときに未零くんの件が頭に浮かんだとしても、決して無茶はしてはならないよ」
あのキメラ型モンスターは間違いなく、今まで『暁火隊』が戦ってきた中でも最も厄介な敵だったのだから。
夏の夜空の藍色を、炎が焼いて真っ赤に浸食している。
上昇気流により巻き上がった火の粉で、或斗の髪の先や頬がチリチリと痛む。
或斗の頭を、あの日の日明の心配が過る。
けれど或斗には、1人でも立ち向かわなければならない理由があり、あの時にはなかった力もある。
或斗は六芒星の浮かぶ虹眼を発動し続ける。
視座をキメラモンスターの上空へ移動させ、キメラモンスターの全体像を常に捉えながら、また別の視野で飛び交う部位それぞれの攻撃を否定して止め、高楽たちを追おうとする動きを止め、同時に360度の視界でキメラモンスターの隙を探っていた。
戦いが始まってたった5分ほどだというのに、既に或斗の頭には薄っすらと痛みが走っている。
一方普は、気配と空気の動きだけで敵の動きを察し続け、或斗の方へ向かわせないよう見えない敵相手に的外れにならない攻撃を仕掛け続けなければならないという、人間離れした戦いを要されていた。
この数分対峙して分かったことは、敵であるエノクはおそらく通常の人型をしていないだろうということだ。
推定両手による2連撃を防いだかと思えば、全く別の方向から打撃や斬撃が複数飛んでくる。
魔法の気配はないことから、多腕、あるいは不可視の遠距離物理攻撃といったところか。
エノクは不可視の体と攻撃、手数の多さ、膂力、どれをとっても初見の相手なら確実に屠れるだけのスペックを持った敵だ。
相手が此結 普でさえなければ、だが。
普はもはや勘に近い気配察知を続け、攻撃においても防御においてもその精度を上げ続けていた。
まず才能、そして何よりこの5年間自分に課し続けてきた努力と修羅場の数によって成り立つ、奇跡の均衡であった。
ただし、普は常人離れしているとはいえ人間、相手は人体改造で半ばモンスター化している人外である。
どちらの体力気力が先に底をつくかは、戦いの前から決まっている。
或斗を1人にしている焦りもあってか、次第に普の体には滅多に負わない生傷が増えていった。
それでも、初めに均衡が崩れたのは、或斗とキメラモンスターの戦いであった。
或斗は足りない頭と自覚しながらも、バル=ケリムの拠点から見つかった5年前のキメラモンスターの設計図を細部まで覚えていた。
当時と変わっている部位があり、強化されている部位があり、そもそもの土台となっている竜の種別さえ違っているが、設計思想は同じ人物によるものだ。
全てを視る。
全てが視えるから、致命打を受ける前に否定し、止め、攻撃を加えられる。
何度か試したことがあるが、或斗の力ではモンスターの生命そのものを概念として捉えて否定することは出来ない。
だから今1つの命として生きているこのキメラモンスターの生存そのものを否定することは出来ず、しかし部位ごとを認識し、破壊していくのは日明から話を聞いて想定していたよりずっと早く出来た。
変幻自在のキメラ技術に対して、今の或斗には無限自在の多視がある。
キメラモンスターの全ての能力を把握し、否定し、止め、全ての部位、そして土台の竜の体を削っていき、ついにトドメを刺す。
炎の中、ズシンと音を立ててキメラモンスターの体が倒れる。
「馬鹿な! 適性Bランク以上を10人は倒せる設計をしたはずですのに!」
その体がもう動くことはないと悟ったバル=ケリムが、遠くで喚いている。
夢魔の部分を否定され失い、キメラモンスターをも失ったバル=ケリムに出来ることはろくろく無いだろう。
頭が割れそうな頭痛を堪えて立ち続ける或斗は、キメラモンスターを視界から外し、普の戦いの場へ向かう。
孤児院から少し離れた場所で戦っている普は負傷していた。
腕や足にいくつもの切り傷があり、頬のあたりに打撲痕があった。
普がまともに血を流す姿を初めて見た或斗は動揺し、咄嗟に多視の虹眼を発動させる。
頭が内側から破裂しそうな頭痛が或斗を襲う。
普は或斗がキメラモンスターを倒し、こちらの戦いに参加しようとしていることを意識の端で認識していた。
そしておそらく或斗が多視能力の使用制限を無視し、体に無理を強いているだろうことも即座に察する。
「お前の助けは要らねえよドブネズミ、その力は使い過ぎるな!」
そう背後の或斗へ告げる普だが、それを伝えるための一瞬の隙にも、新しい切り傷が腕に刻まれている。
或斗はこのままでは普がかなりの傷を負うか、あるいは……目の前で仲間の命が消えたあの瞬間をまた鮮明に思い出す。
山火事は孤児院の建物にも移り、もう周囲で燃えていないところを探す方が難しいほどだった。
エノクとの殺し合いの結果がどうあれ、そもそも戦いが長引けば或斗と普は火事から退避出来ず焼け死ぬだろう。
燃え盛る炎の赤に、或斗は「仲間を守る」と決意したあの日の夕焼けを幻視した。
普を死なせない、絶対に。
そのために、或斗に何が出来るのか。
いくら自在の多視といえども、見えない相手には効果を発さない。
動きを止めることも、武器を壊すことも出来ない、能力を否定するためのモンスター部分がまず見えない。
或斗は割れそうに痛む頭で考え続ける。
炎の熱で視界が歪んでいるのか、体が限界を訴えているのかもはや区別がつかない。
熱で歪む?
或斗は夏の夜の陽炎に閃くものを感じた。
エノクの透明化能力が概念的なものでなく、自然現象を利用するものである場合、理屈上は出来るはずだ。
或斗は普の周囲全てを視る。
見えないエノク自体を捉える必要はない、その周り全てを視られれば良い。
或斗は自在の視野で普の周囲360度、半径5m以内全ての光の屈折を、ランダムで捻じ曲げた。
細かい数値などは分からないが、とにかく輪郭だけでも掴めれば良いのだ。
光学迷彩は隠す対象、その光の反射を弄ることで視認性を下げる技術、とまで詳細に或斗は知らなかったが、ともかく光の屈折を利用する技術であると認識している。
エノクの周囲全ての光の屈折を、或斗の力でランダムに変え続ければ、迷彩に齟齬が生じるはず。
果たして、その試みは成功した。
普の目の前の景色が膨張と縮小を繰り返す異常は起こったが、同時にエノクであろう人型から外れた者の輪郭も顕わになった。
ぐにゃぐにゃと歪み続ける空気の中で、逆に自然であろうとする歪まない部分、それがエノクの姿だった。
エノクは、人型の背中に翼のような、触手にも似た何かを6本ほど生やした異形であった。
その輪郭は当然、普にもしっかりと捉えられる。
視界は良好とは全くいえないが、ともかく姿が見えるならもはや普の敵ではない。
普は剣と手足、そして魔法を駆使してエノクの8つの攻撃を余裕をもってしのぎ始める。
或斗はその間、ずっと六芒星の浮かぶ目を、その視界をエノクの周囲に向けていた。
多視を展開し続けたまま、原理を理解していない光の屈折をランダムに変え続けるなど、常人の脳で処理できる範疇を越えている。
頭痛はもはや麻痺したのか認識できない、触覚も馬鹿になっているのか、鼻血がぼたぼたと流れ続けているのも、或斗本人は認識出来ていなかった。
甲高い悲鳴のような耳鳴りが脳を貫くも、或斗はそれすら気にならない。
何も聞こえず、声を発する機能も忘れ、自分が地面に立っていることを感じる平衡感覚さえも失い、それでも或斗は視つづけた。
周囲を取り巻く炎熱がメラメラと躍る中、或斗の頭も煮え立つように熱を持っていた。
やがて普がエノクの8つの攻撃全てをさばききり、その歪になった透明の体に一太刀浴びせる。
そこでエノクは背の羽根に似た何かを羽ばたかせ、普の周囲から消える。
普から少し離れた位置で、性別を断定できない中性的な声がする。
「バル=ケリム、撤退です」
再び完全な透明に戻ったエノクがバル=ケリムの方へ向かう気配がする。
「誰が逃がすかタコ!」
気配を頼りに追撃をかけようと踏み出した普の背後で、ドサリと倒れる音がする。
ハッと振り向けば、或斗がその場に倒れ、ピクリとも動かないでいた。
駆け寄り、触れて確かめた或斗の頭部は異常に熱く、目と鼻と耳全てから血が出ており、普が大声で呼びかけても何の反応もない。
こんなにも熱いのに、まるで死人のようだった。
山火事の炎がついに肌を舐めるほどに迫る中、普は或斗を抱えると、氷魔法を駆使して燃える山を脱出する。
己が始めた山火事であるが、その勢いは些かバル=ケリムの想定外であった。
想定外なのは火の勢いだけではない。
「作戦は失敗したではありませんか! 聖霊様は確保できず、あの忌々しい此結 普も始末出来ず! 虎の子のCH-26号も倒されて、これから一体どうするつもりです!」
バル=ケリムは不可視のまま自分を先導するエノクを責め立てる。
こんなはずではなかった。
「奴らが私を追尾している仕組みは未だ解明できていないのでしょう! 返り討ちに出来る戦力が無ければ、私はまた捕まってしまう!」
バル=ケリムは自分の持てるあらゆる語彙でエノクを罵倒し、これからの方針を聞き出そうとするも、エノクは何も答えない。
「エノク殿! エノク殿……?」
不審に思ったバル=ケリムは足を止め、エノクを呼ぶが、先ほどまで自分を先導していたはずの足音は無く、エノクの気配を感じなくなったことに気が付いた。
「まさか……!」
そう口に出した瞬間、バル=ケリムの心臓を透明な刃が貫いた。
バル=ケリムは人と同じ赤い血を噴き出し、その場に倒れる。
「……初めから、このつもりでしたか……監視者め……」
無念そうに呟くも、ゴボ、と口から血が溢れ、言おうとした全ての言葉が血だまりに消える。
赤々と燃える山を遠く背後に、やがてバル=ケリムの瞳から光が消えた。
バル=ケリムの死体から、簡易な造りの蒼銀の杖が宙に浮くように取り出される。
その先端には小さく檻に囲われた六角形のマークが刻まれており、銀色が冷たい月明りを反射していた。