街路樹の葉が黄色く、あるいは赤茶に染まって道の端々を色づけている。
空はひと月前よりも澄んで高く見え、鱗雲が規則的に広がって秋めいた風情を醸し出していた。
街頭ビジョンで流れるニュースでは、中秋の名月の日の気候について気象予報士が見解を述べている。
以前いくらか述べたところになるが、ダンジョン発生以降の日本の気候は旧時代よりずっと落ち着いており、ダンジョン発生前の気候資料はほとんど役に立たなくなっている。
気象予測のためにはダンジョン発生から50年ほど遡った資料か、ここ25年間の資料を参照するものとなっており、気象学者はその2時代の微妙な差異などに着目して、ダンジョン発生が地球の気象現象に及ぼした影響を探ろうと試行錯誤しているらしい。
ともかく、ようやく夏の暑さも引き、ダンジョンネズミも肥ゆる良い季節が巡ってきた。
というのに、或斗は今からまた夏の気温に近い場所に行こうとしている。
ちなみにもちろん、普の家に来て以降或斗は1度もダンジョンネズミを口にしていないことを言い添えておく。
事の発端は栞羽の作成した「バル=ケリム調査報告書(機密)」である。
そこにはバル=ケリムの「グィエン・バン・チェット」という本名や出身地、来歴などが書かれてあったが、そういった情報を元に発見した、バル=ケリムが拠点に隠していた個人的な暗号文から、バル=ケリムの故郷に何かあるらしい、という話が持ち上がったのだ。
栞羽が調べたところ、バル=ケリムの故郷の村はダンジョン発生後1年目のモンスター氾濫で周辺地域含めて滅んでおり、大した情報も出てこなかった、と思われたが、1点だけ気になる情報があったらしい。
ダンジョン発生から1年間の間にその地域を通った旅人がSNSに「一晩で消えた摩天楼を見た」と記載していたのである。
当の旅人自身も別地域で起きたモンスター氾濫によって亡くなっており、詳細は全く分からないのだが、栞羽は勘でバル=ケリムの故郷を調査すべきポイントと定めた。
勘というと適当に聞こえるが、栞羽の情報に対する嗅覚は流石のもので、狙いを外すことは滅多にない。
普段の珍妙言動を度外視して日明が頼りにする一因でもある。
本来であれば一旦調査班を送って入念な調査を行った後、必要があれば戦闘メンバーを送る、というのが『暁火隊』情報部のやり方なのだが、今回は或斗が無理を言って調査班への同行を願ったのだ。
バル=ケリムが死んだのは「カージャー」に見捨てられた故であるけれども、或斗にとっては全くの他人事とは思えなかった。
バル=ケリムを捕縛したのは或斗の発案であり、その後殺される前に再捕縛が出来ていれば、バル=ケリムは死ななかったかもしれない。
敵であり、相容れない存在ではあったものの、或斗は一時でも言葉を交わした相手の死に無感情でいることは出来なかった。
或斗には過去を視る虹眼もある、調査にまったく役に立たないこともないだろう、そんな論調で調査班についてバル=ケリムの故郷、東南アジアの小国家であるミゼールポレンへ向かうことになった。
ミゼールポレンへは『暁火隊』の保有するプライベートジェットで向かう。
或斗は生まれて初めて乗る飛行機という空飛ぶ鉄塊に内心ドキドキ、外見もソワソワであった。
5度はシートベルトの着用を確かめ、まだ動いてもいない窓の外を見ては室内に視線を戻し、機内食のメニューを眺めたりして、もう落ち着きのなさ丸出しである。
その隣では普がうんざりした顔をしている。
そう、或斗が調査班についていくということは当然、普も護衛役としてついてくることになるのだ。
普は見るからに浮ついた状態の或斗を見ていつもの通り言葉の刃を振りかぶってくる。
「たかが飛行機でよくもそこまで浮かれられるもんだなこのド貧乏染み付きネズミ。ガキ丸出しでいるんじゃねえよ恥ずかしい、5歳児の方がまだ落ち着いてるわ」
しかし或斗ももはや普の暴言など慣れたもの、何なら普の体調チェック程度に考えているので全く動じず、逆に質問で返す。
「普さん普さん」
「あ?」
「飛行機って落ちたりしないんですか?」
尋ねられた側の普は少し思案の様子を見せると、いじめっ子の目で言った。
「割と落ちるぞ」
「!?」
或斗は驚愕し、シートベルトと緊急時の酸素マスクの出し方、安全姿勢の再確認を始める。
普は最近一層生意気になった或斗の狼狽える様を見てフンと笑っている。
そこへ1人の女性が口を挟んだ。
黄味の強い茶髪を後ろでシニョンにして、スーツ姿の、仕事が出来そうな雰囲気をした女性である。
女性はハシバミ色の瞳でジトっと普を見る。
「もう、此結さん、変な意地悪言うのはやめてあげてくださいよ」
「嘘は言ってねえ」
「もう少し具体的に教えてあげないと怖がらせるだけですよ。ていうかそれが目的ですよね」
「一般常識も知らねえドブネズミが悪い」
普は一切悪びれる様子がない。
茶髪の女性はオロオロとしている或斗へ正しい知識を丁寧に解説してくれる。
「或斗さん、実際飛行機はダンジョン発生前の旧時代と比べれば墜落確率が高くはなっていますが、それは全てモンスターとの遭遇が原因です」
「
「そのままです。モンスター氾濫以降にダンジョンから出てきたモンスターが飛行機にぶつかる、旧時代で言うところのバードストライク、言うなればモンスタースト……これ旧時代のゲームの名前にありましたね」
「?」
「まあともかく、飛行機の持つ装甲よりもモンスターのぶつかった衝撃の方が強かった場合、飛行機が破損して墜落する可能性があります。あとは大型飛行モンスター、例えば飛竜なんかですね、そういったものに目をつけられると墜落の可能性が高まります」
「それってやっぱりまずいんじゃ……」
可成矢は落ち着いた表情で首を横に振る。
「これは一般的な飛行機、民間機の話です。この『暁火隊』専用プライベートジェットは小~中型モンスターとの激突程度で破損するような装甲をしていません。また、大型飛行モンスターと遭遇した際に倒すか追い払うための対空ミサイルも搭載してあります。よって、この飛行機は滅多なことでは落ちません。旧時代の飛行機よりも安全であると言えます」
おお……と或斗は感心半分安心半分の顔をして胸を撫でおろした。
隣の普は舌打ちしている。
「まあ最近は民間機も装甲や武装を整えていますから、中々落ちたという話も聞きませんが」
と可成矢は付け足す。
「さすが情報部の人ですね、分かりやすかったです」
或斗は感謝をこめて可成矢を見上げる。
或斗ははじめ、調査班には栞羽直属の部下が一緒に来るという話を聞いて、どんな奇人変人が出てくるものかと恐々していたが、可成矢は初対面から丁寧で優しく、一回り歳下の或斗にも敬意を払ってくれるような真っ当な人間であった。
「いえ、恐縮です。まだ班長には遠く及びません」
謙遜の様も嫌味でない、本当にそう思っているようだ。
或斗は栞羽の言動を思い出し、目の前の可成矢を見た。
役職が逆なのではなかろうか……明らかに可成矢の方が仕事の出来そうな外見と態度をしている。
或斗の考えていることを察したのだろう、可成矢は苦笑して訂正する。
「班長は分かりづらい言動をしますから誤解されがちですが、本当に有能な方なんですよ。仕事量も私たちの数倍のものをもっと早いペースで処理してしまいます」
実際、あの日明が頼りにしているくらいの人間なのだ。
或斗とて栞羽の本質があの珍妙言動にあるとは思っていないが、どうにも一度見てしまうと残念感が拭えないものであった。
栞羽に対する賛美を聞いて、或斗の隣の普が気に入らないとばかりに不機嫌そうに顔をしかめていた。
可成矢はそんな普を見て眉を下げ、補足する。
「何より、この飛行機には此結さんが乗っていてくださいますから、万一墜落したとしても私たちが死ぬことはないかと」
「普さんが?」
「はい、此結さんの身体能力と魔法能力があれば、墜落場所が海であれ陸であれ、大きな衝撃なく飛行機を着地させることが可能です」
「へえ~……」
「ありがたみが薄いぞヘボカスネズミ。俺の護衛にどれだけの価値があるか噛みしめて感謝しながらその軽い頭を地に擦りつけとけ」
そもそもホイホイ東南アジアくんだりまで俺を連れ回そうってのがふざけた話だ、お前は俺のことを暇人だとでも思ってるのか? と調査班への同行を決めてから飛行機に乗るまでの間散々聞いた姑顔負けの嫌味を或斗はさほど気にせず、「ありがとうございます」とだけ言っておいた。
何を言っていても結局ついてきてくれていることが全ての答えなのである。
「実力は班長に劣りますが、調査については漏らすところなく行いますし、お二人のサポートはお任せください」
可成矢が力こぶを作る仕草で笑ってみせる。
そんなやりとりを初めに挟み、飛行機は離陸。
空から見る大地の形や雲の上の景色に目をキラキラさせる或斗を「ガキか」と思いっきり馬鹿にしつつ、普は暇つぶしに小難しそうなビジネス書を読んでいた。
8時間少しの後、着陸する頃には或斗はすっかり寝入っており、普から頬を思い切りつねられて目を覚ました。
「いひゃいんれすけろ……」
「何言ってるかわかんねえよ。さっさと降りるぞノロマ」
飛行機から降りると、雨上がりのムッとした空気が30℃ほどに温められており、日本との気候の差を感じる。
ミゼールポレンは東南アジアの中でも下から数えた方が早いほどの小国で、主な産業は農業と漁業、特にインディカ米の生産である。
国体としてはほとんど形骸化しているものの一応は民主主義、となっているが、実際のところは世襲制に近く、ここ5代ほどの総理は同じ苗字を持っている。
元々貧困層の多い国であったが、ダンジョン発生後は一層国家運営が厳しくなり、財政の立て直しを図ることも難しく、乾坤一擲で始めたモンスターやダンジョン発生後の人類変異の研究は人倫に悖ると国際的に批難を受けるところとなり、ハッキリ言えば割と詰んでる国、らしい。
そのうち周辺のもう少し財政がまともな国に吸収され、国家の名前も消えるのではないかと言われている、そういった話を飛行機の中で可成矢が話してくれた。
国で唯一の小さな空港から、現地で手配した車に乗って4時間ほど、空がすっかり暗くなった頃、バル=ケリムの故郷の村に到着する。
山間に隠されるようにしてその廃村はあった。
可成矢が強い光を放つ電気ランタンをつけたことで、村の様子が良く見える。
竹や木、藁で出来た家々は或斗の知る家とは随分と造りが違っていて驚いた。
それらはほとんどが腐って崩れ、あばら家とも言い難い、かろうじて家だったことが分かる程度の形状をしている。
或斗が驚いたのは家の状態だけではない。
そこらにまるで石ころのように人骨が転がっているのだ。
大人のものから子供のものまで……或斗は悲鳴を堪え、やるせなさに心を痛めた。
「ダンジョン発生後のミゼールポレン政府には特に余裕がありませんから、滅んだ村に生き残りが居ないかの調査程度はしても、人の居なくなった村の住人たちを弔うほどのことは出来なかったのでしょうね。人が居なければ腐敗した遺体から生じた伝染病も広まりようがありませんから」
可成矢も痛ましげに顔を歪め、骨たちへ手を合わせている。
そんな2人とは対照的に、普は無表情で先を促す。
「それで、あのイカレマッド野郎の実家はどのボロ家だ?」
可成矢はタブレットで座標の確認をすると、先導して村の中でも特に広い土地(大半は耕作地だったのだろう)持ちだったと思われる家へと案内した。
「座標から、バル=ケリム、本名グィエン・バン・チェットの家はここかと思われます」
その家は他の場所と比べるとまだ家としての形を保持していた。
潰れてもいないので、何とか中へ入れそうであった。
或斗は家の隣に、土を盛った上に小さな石を置いた、墓なのではないかと思われるものを5つ見つけた。
他の村人の骨は弔われることもなく放置してあるのに、この家だけ……滅んだ後に縁者が訪れたということだろうか。
家の中には竹や木の床が敷かれてあり、ほとんどが腐って黒ずんだ穴をあけていた。
「床の上は不用意に歩かない方が良いかと。穴の開いているところの地面を踏むようにして移動しましょう」
或斗は可成矢の指示に従い、ボロボロの床板で怪我をしないよう慎重に家の中を進んだ。
上を見上げれば、裂けた屋根から月明りが差しこんでいる。
ふと、まだ無事な床の上に、古び壊れた写真立てが落ちているのを見つける。
そっと持ち上げてみると、色褪せ薄汚れているものの、この家の家族の集合写真のようだと分かった。
ラフな格好をした老夫婦と、それより1世代若い夫婦、穏やかな顔つきの黒髪の青年に、年の離れた妹だろうかよく似た少女、全員が笑顔で映っている。
或斗は写真の右から2番目に映る黒髪の青年の面差しに、僅かにバル=ケリムとの共通項を見た。
あの非人道的な思想を嬉々として語っていた壮年の男性から、この穏やかそうな青年を連想出来ない。
家の隣にあった墓は5つ、青年を除いた家族の人数と合致する。
年の離れた妹を持っていたグィエン・バン・チェットという青年が、外見は幼い少女であるゾエーを処分すると言ったバル=ケリムに至るまで、何があったのだろうか。
難しい顔で考え込んでしまった或斗の手から、普がひょいと写真を取り上げる。
「おい情報部、資料だぞ」
「写真ですね、物的資料はあればあるだけ助かります」
色褪せた家族写真は可成矢が丁重に保存用ファイルにしまう。
普は或斗の頭を(普基準で)軽くはたくと、「ノロノロすんな、さっさとガサ入れ済ませるぞ愚図」と言って家の奥へ進んでいった。
綺麗好きの普にとってこの崩落寸前の家の中という環境は苛立ちが募るものなのだろう、或斗基準では頭をはたく力がちょっと強かったぞと思うけれども、若干の普の気遣いも感じ、或斗も家の中の探索に戻る。
慎重に探索して1時間といったところだろうか、写真以外に目ぼしい発見物はなかった。
「座標はこの家を示しているんですよね?」
「はい、班長の勘もありますし、ここに何かがあることは間違いないと思うのですが」
可成矢は電気ランタンを一旦或斗に預けると、ずっと持っていたスーツケースのようなものを開き、中身の機械を操作し始める。
「簡易的な魔術式地形探査装置です。物理式と違って振動を起こしませんから、こういった場では有用かと」
と解説しつつ、機械をピコピコと光らせている。
数十秒ほどで機械の点滅は落ち着き、可成矢は確信をもって家の中を歩き始めた。
「床下から地下に空間が続いているようです」
「この国の気候で地下室? 妙な話だな」
「高床式住居での床下空間の利用はよく聞く話ですが、地下室となると……考えられるところとしては財産の接収回避でしょうか」
可成矢が止まった地点はちょうど床の崩れて大きく穴があいた場所であり、床下は土で覆われている。
「ここから通路があるようです。掘りますね」
そう言うと可成矢はまた別に持っていたスーツケースから折り畳み式のシャベルを取り出し、組み上げてザックザクと地面を掘り始めた。
スーツが汚れるのもお構いなし、何というか行動力のある人だな、と或斗は思った。
掘り進めていくと、金属製の跳ね上げ扉が顔を出した。
「入口ですね。もしかしたら有害なガスが溜まっているかもしれません、私が先行しますので、問題なさそうであればついてきてください」
「カナリヤだけにってか」
或斗はさすがに普の脇を肘で小突いた。3倍の力でアイアンクローを返され、頭が割れるかと思った。
その間にも可成矢は小型のガスマスクをつけ、空気の組成を検知する小型の機械を手に地下へと入っていく。
跳ね上げ扉の奥からコツコツと靴音が聞こえ、しばらくすると可成矢が「地下室があります。お2人とも、こちらへ」と声を上げた。
或斗と普が跳ね上げ扉の中へ入る。
土に埋まっていただけあって入口は土と泥塗れであったが、通路はコンクリートで舗装された頑丈そうな造りである。
通路の先には同じくコンクリートで舗装された壁に四方を囲まれた、小さな地下室があった。
空気はどうしているのだろうかと思って見回せば、天井の四隅に通気口のようなダクトがあるのを発見する。
電気ランタンで照らされた地下室の中には腐って萎び切った食料やボロボロのミゼールポレン通貨ポレン札の束が散らばっていた。
「やはり食料庫兼、財産の隠し場所といったところでしょうか」
「モンスター氾濫の時に逃げ込めなかったんでしょうか……?」
「普段から土に埋めて隠してたんだとすれば、そんな暇無かったんだろ」
或斗は当時の混乱、阿鼻叫喚だっただろう村を想像して、思わず俯いた。
普と可成矢はすぐに切り替え、落ちている札束や小さな棚などを確認し始める。
落ち込んでいる場合ではない、或斗も何か手がかりを探さなくては同行した意味がないのだ、と床の上を見回すと、棚と床の間に紙束が挟まっているのに気づいた。
わざと棚を持ち上げて挟まなければこうも綺麗に入らないだろう、という状態である。
普と可成矢に紙束について伝え、棚を持ち上げてもらう。
取り出したその紙束にはびっしりと手書きの文字が書きつけてあった。
「地下は危ないですから」という可成矢の言に従って、紙束を持ったまま地下から出る。
電気ランタンに照らされた紙束には、故郷を失い、国から捨てられた青年の悲嘆が綴られていた。
『何故私だけがのうのうと生き残ったのだろうか。
私は恵まれていた。
村一番の田を持つ家に生まれた。
人より少し物覚えが良いという理由だけで、家族は貯めたなけなしの金をはたいて、私を国一番の学府へ送り出してくれた。
それからは勉学と研究に邁進し、気が付けば村に帰ってくることもなく日が過ぎていた。
家族からの手紙には目を通していたが、忙しさを理由に返信は稀にしか行わなかった。
きっと幼いジュエンは寂しがっていただろうに。
ダンジョンが発生した後は、大学も混乱のさなかにあって、私は村へ帰るどころではなかった。
ほんの少しだって頭を働かせていれば、ほんの少しでも村の近くのダンジョン発生場所を調べていれば、愛する彼らが危険なことなど分かったはずなのに。
何故モンスター氾濫のとき、私はこの村に居なかったのだろう。
何故、家族と共に死ねなかったのだろう。
何故、村が滅んだと聞いてから何年も、現実から目を背け続けて、村へ帰ってこなかったのだろう。
弔う者のない私の家族は皆、蛆さえも死に絶えた白骨と化していた。
すまない、すまなかった、ごめんなさい、父さん、母さん、お祖父さん、お祖母さん、ジュエン。
皆が苦しみの中腐りゆく間、私の性根も腐り果ててしまった。
皆の死から目を背けるために、国から言われるまま、憎きモンスターの研究を重ね、時には罪もない生きた人間を解剖することもあった。
そうして得られたものは、異常者という後ろ指と追放辞令だけだった。
私は少しも賢くなどない男だった。
愚かで臆病で、何も成し遂げられなかった弱者だ。
この愚か者の名前はグィエン・バン・チェット、シェバ村の最後の生き残り』
或斗は手記を読んで、未零の死から5年目を背け続けた自分を重ねた。
この青年は家族も故郷も築いた立場も、全てを失ってしまったのだ。
どこにも行き場のない、行くあてのない孤独感が或斗にはよくわかった。
或斗が孤独のまま目を閉じていたあの頃、この青年のようにただ生きているだけ、失意に呑まれたままの当時に「カージャー」から誘いを受けていたとしたら、それを断れただろうか。
家族を殺した、未零を殺したモンスターへの恨みを抱いた心で、ダンジョンの掌握、人を管理し、平等な世の中を作るという歪んだ理想を拒めただろうか。
眉間に皺を寄せ、同情の涙を堪える或斗の手から、普が手記を取り上げる。
ついでに或斗を手軽に蹴り飛ばした。
或斗はゴロンと転がり、見事に腐り落ちた床の穴に落ちた。
「此結さん、危ないですよ!」
「辛気臭えツラがムカついた」
普は罪悪感のざの字もない顔で手記を検分している。
普は何とか身を起こして穴から這い出た或斗の頬を(普基準で)軽く張ると、心底苛立った様子で言う。
「ただでさえ湿気が酷くてイラつくってのに脳みそお花畑のバカネズミまでジメジメし始めたらやってられねえ。加湿器になりたいなら他所行けドブ野郎」
「……すみません」
実際、或斗たちは調査に来たのだ。
決してバル=ケリムとなった青年の過去に同情を寄せに来たわけではない。
或斗は頭を振って感情を切り替える。
普は手記の最後の1枚の裏側を確かめると、眉をよせた。
「無駄足ってわけでもなさそうだ」
そう言って或斗と可成矢にもその部分を見せる。
そこにはメモ書きだろうか、以下のように書かれてあった。
『ダンジョン発生後の家族からの手紙には、月に1度だけ現れる登れない塔の話が書いてあった。
何の比喩だろうかと思っていたが、もしかするとダンジョンなのかもしれない。
家族への供養として、その塔と、塔の入口にあったという檻に囲われた六角形のマークについて調べてみようと思う』
その記述に或斗は驚きの声を上げる。
「入口に『カージャー』のマーク? これって、あの海のダンジョンの時と同じ……?」
「そうかもしれねえし、違うかもしれねえ。だが栞羽の言ってやがった『一晩で消えた摩天楼』ってのはこれと同じ話の可能性が高い」
可成矢は普の言に頷くと、しかし眉を下げて困り顔をした。
「一応、調査班として来る前にこの国の全域のダンジョンや地形については下調べをしてきましたが、塔型のダンジョンも、ただの塔も、存在しませんでした」
ここに来るまでの間にも見ませんでしたし、と続ける。
「月に1度だけ現れる、か」
「海のダンジョンも、海の中から入らないと見つからない造りになっていました。何か条件があるのかも……」
「面倒くせえな、条件まで書いとけイカレマッド」
普はうんざりした表情で、ランタンに集まってきた虫を払う。
「この村での話ということは、出現する場所はほぼ確実にこの近辺でしょう。魔法的アプローチや物理的なギミックが無いか、周辺の再調査を行います」
可成矢はやはりスーツケースから出した――あの中にどれだけの道具が詰まっているのだろうか――各種機材類を手に、一足先にグィエン・バン・チェットの家を出て行く。
普も腐った床板に土埃だらけの家が嫌だったのだろう、さっさと電気ランタンを持って出て行ってしまった。
「月に1度だけ現れる、登れない塔……?」
裂けた屋根から差し込む月明りに照らされた手記の1文を読み、或斗は1人首を傾げた。