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名前を持たぬ祠
名前を持たぬ祠
ギール
ホラー怪談
2025年06月01日
公開日
9,811字
完結済
 三年前、山奥のH集落で行われた地質調査中、Tさんが目撃したのは、誰も覚えていない「祠」だった。祠は動き、誰にも記録されず、語ろうとした者から“首”が失われていく。  村人たちはその存在すら「無かったこと」にしようとし、唯一口を開いた神主が語ったのは、三つの仮説。そして、Tさんの語りを受け取った「私」は、数日後、あの“灰色の屋根”を目撃する──これは、見てしまった者に訪れる連鎖の記録である。

“それ”に出会った日から

「遠藤君。地元の人間にすら忘れられてしまう祠ほど恐ろしいものは無かったよ」

 これは、私が施工管理の仕事で一緒に働いた外注のTさんから聞いた話だ。

 三年前の十月、TさんはG県で起きた土砂崩れの復旧作業に関わることになり、地質調査のためにH集落へ向かったという。

 H集落は、二つの県の境目にある山奥の集落で、地図を詳しく見ないと存在すら気づかれない場所にある。若者はみな町へ降り、今や高齢者ばかりが残っているらしい。

 Tさんは、現地で防災環境保全員のBさんと、G県の地元職員Sさんと合流し、調査に必要な機材を携えて森へ入った。

 その目的地には“禁足地”と呼ばれる一帯があり、地元の者ですら近づかないという噂があった──

 だが山奥とあってか、斜面が急で足元がぬかるんでいて、最悪朝方から昼まで霧が出ることがあった。

「こんな山奥の集落までご苦労様です」

 H集落へ案内してくれたSさんは苦笑いしながら声をかけてくれた。SさんはH集落出身の青年で、ここの地形に詳しいのでみんな安心していた。

 霧が深くなるにつれて、Tさんは妙なことに気づいた。

さっきまで視界の端を横切っていた野鳥や虫の姿が、まったく見えなくなっていた。音もない。耳鳴りのような静寂が辺りを包む。


「……こんなに静かだったっけ」


 Bさんが首をかしげながら呟く。Tさんは返事をしかけたが、なぜか喉に言葉が引っかかった。

 ふと、誰かの視線を感じて背後を振り返る。

 そこには、霧と、沈黙だけがあった。

「この辺り……たまに迷うんですよね」

 Sさんの声は低く、目線はどこか焦点の定まらないままだった。

「地図にない道はないはずだろ」

  Bさんが小声で言うが、その声には妙なかすれがあった。

 Tさんも地面を見下ろす。つい数分前まで踏んでいたはずの道が、どこにもない。霧に溶けて、地面さえも滑らかに塗り潰されている。

 周囲の音が、吸い込まれたように消える。

 葉擦れの音も、鳥の声もない。

 森全体が、息を潜めている──そんな錯覚を覚えた。


「そういう時は、一旦その場で待った方が良いですね。お二人には申し訳ないですが」

 Sさんは申し訳なさそうに言いながら、持ってきた折り畳み式の椅子を人数分用意して待つことにした。

 Tさんたちはそこで雑談しながら霧が晴れるのを待っていたが、徐々に霧が晴れていき、足元が見えるようになった。よく見ると、ずいぶんレトロな外観の建物が見えた。

「あぁ、霧が晴れてきそうですね。あそこにあるのが、H集落唯一の時計塔です。昔はそこでみんなが時計を確認したり、早朝子供たちはラジオ体操してました」

「そうなんですね、Sさん。懐かしいですね、ラジオ体操」

 Sさんの昔話を聞きながら、Tさんはなぜか落ち着かない気持ちを拭えなかった。

 時計塔が立っているのを見て、ようやく霧の外へ出たという気がした。でも——なぜか足元の土が、さっきより柔らかく感じる気がした。

「えっとぉ。時刻は十時半か。予定よりも二時間遅れましたが、申し訳ありませんが、Sさんも残業してくれませんか?」

「はは、そうですね。この山の中の集落、迷いやすいし猿とか熊とか出ますし」

「まぁ、この辺野生動物がでそうですね……て、あれ?」

ふとTさんは何かに気付いた。霧が晴れて木々の中に紛れる様に、何か小さなものがあるのに気付いた。

「Tさん、どうかしましたか?」

「Sさん。時計塔から東側の木々のある所にあるアレって何ですか?何か、祠みたいなのが」

「祠……?」

 Tさんが祠のある所へ指差したところには、コケまみれで手入れされていない古ぼけた祠が木々に囲まれる形で鎮座していた。

「祠……?」

 Sさんの顔色が、ふっと曇った。

「……いや、ちょっと待って。あんなの、前はなかった気がする」

 彼の声が、急にか細くなる。

「昔ここで遊んでたから分かるけど、あんな祠なんてあったっけ……?」

 この時は予定よりも遅くなった事もあって、Tさんたちは村長に挨拶して作業に取り掛かった。

 やっと、ボーリング作業の為の足場を組んだ時には夕方の六時半になってて、あたりが暗くなったが、その帰り道でもTさんも祠を見たそうだ。

 祠は、まるで森の奥からこちらを覗いているかのように、木々の影の中に沈んでいた。

 その日の夜、民泊の主人や他の事業でやってきた作業員に話を振ってみたが、誰も「そんなのは知らない」と言った。

 誰一人として、「あそこに祠があった」と言わないのだ。

「疲れてたのかもな」

 誰かがそう言って笑った。

 Tさんも笑ったが、内心では、あの“灰色の屋根”がはっきりと脳裏に焼きついていた。


 二日目の早朝八時半。

 作業開始の日。Tさんたちは禁足地の手前にある平坦な斜面に、前日に組んだ仮設の足場にセットしたボーリングマシンを起動して穴を掘っていた。今回のTさんの作業は、ボーリングマシンで掘って取り出した土から地層を確認するものだった。

 地層の奥にある岩盤さえたどり着けば、その日の作業は終わるはずだった。

「くそ……、十一時になっても、岩盤が出てこねぇ。こりゃ、三日かかりそうだ」

 周囲は昼でも暗く、頭上の葉が光を遮っている。ときおり、鳥の鳴き声が消えて森が静まり返る時間があった。

「このくらいなら日帰りで終わりますね」

 Bさんが明るく言った直後だった。

 ――ガチャン!

 重い音とともに、組んでいた足場の一部が突然外れて崩れた。

 Tさんが間一髪で近くの木に飛び移ったため、大事には至らなかった。だが、数センチずれていれば、太腿を挟まれて骨折していたかもしれない。

「……おかしいな。足場を、確認したはずなんだけど」

「Tさんみたいなベテランがこんなミスするなんて、珍しいですね」

 Bさんが何度も図面と工具を確認したが、異常はなかった。幸い、ボーリングマシン周辺の足場に問題はなく、外れた足場を組み立てればすぐに再開できる。

 風もなく、揺れる要素はない。それなのに、ピンポイントで外れた。


 不穏な空気の中、昼食休憩を取った。

 だが、戻ろうとしたそのとき、Sさんが顔を青くして叫んだ。

「……車が、やられてる!」

 駐車していた軽トラのフロント部分が、大きな石に押し潰されていた。

 崖から落ちたような形跡はなく、まるで「持ち上げて、落とした」ような異様な角度だった。

「これ、完全に事故だよな……?」

 Tさんが呟いたが、誰も何も返さなかった。

 それでも依頼主に相談した結果、午後からの作業は足場を組みなおして続けることにしたそうだ。

 祠の話をしても誰も信じていない。だからTさんも黙っていた。

 機材を祠が見えたあたりに運ぼうとすると、なぜか道具が滑って倒れる。地面が異様に柔らかい。

 杭が打てない。鉄パイプが曲がる。支柱が傾く。

 何度やっても、その位置だけ、まるで“何かを拒んでいる”ように阻まれた。

 これでは作業にならないので、一旦施工主に事情を電話で話して待機することになった。

 Tさんはふと気づいた。

 霧がまた、出てきている。

 その霧の向こうに──確かに見える。

 もう何十年も手入れされていないような灰色の屋根。崩れかけた木材。周囲から浮かび上がるように、そこだけが別の空間だった。

 霧の中で、再び祠が姿を現した。

 それは確かに、あの日見た“屋根”だった。

「Tさん……これ、場所がズレてませんか?」

 Bさんがそう言ったとき、Tさんもようやく気づいた。

 祠が、数メートルほど“動いていた”。

 杭が打てなかった場所とは、少し違う場所にある。

「いたずらかもな……悪質なやつがいるのかも」

 Sさんは苛立ったように言った。

「この辺、獣除けの罠もあるし、誰かが仕掛けたのかもしれませんね」

「ですが、Sさん。仕掛けたにしては……」

 Tさんは何かを言いかけたけど、ためらった。

 この時、Tさんはなんとなくこの祠について触れない方が良いと直感した。

 この日の夕方、TさんたちはSさんの案内で民泊に泊まる事になり、英気を養っていた。


 Sさんは翌朝、役所に連絡して謎の祠の撤去の許可を取ろうとしたが、書類上では「対象物なし」と処理された。

 そこで、彼らは集落の村長に直接話を聞きに行った。

「祠……? いやぁ、あの辺りには何もなかったはずじゃがの」

 村長は柔らかい口調で首を振る。

 Tさんは、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 彼の目が、何かを思い出しかけては打ち消すような、空虚な動きをしていたからだ。

 村長が念のため神主に聞いてみたり、歴史資料室で役員の方と一緒に探しても祠に関しての情報は無かった。

「ま、そんなもんがあっても誰も知らんちゅうことは、大したもんじゃなかろ。壊してええんじゃないかの」

 Sさんは「助かります」と笑った。


 翌日。Sさんは撤去のため再び現場へ向かう。TさんとBさんも同行する。

 ところが、森の入口を越えたあたりから、霧が濃くなり始めた。

 スマホを確認すると県外。他の機器のGPSも狂い、コンパスも回り始める。

「おかしいな、さっきまで見えてた道が……」

 Sさんが立ち止まったとき、彼は突然、ぶつぶつと何かを呟き始めた。

「……かえして……さがしてる……ちがう、これは……あれは……」

「Sさん?」

 Tさんが声をかけたが、Sさんは顔を上げなかった。

 しばらくして、彼はゆっくりと振り向いた。

 その目が、まるで誰かの目じゃなかった。

 白目が異様に大きく、焦点が合っていない。

 血色のない唇がわずかに動いて、低い声が漏れた。

「みつけた……」

 ――そして彼は、霧の中にゆっくりと歩き出し、そのまま見えなくなった。

 その日のうちに、Sさんは山中で倒れているのが発見された。

 首が、なかった。

 それ以外の損傷はなく、まるで“そこだけが抜き取られた”ようだった。

 作業は即日中止となり、関係者は解散。警察に通報して事情聴取を受けた。最初は、Tさんたちの犯行による殺人事件だと警察は疑っていたが、村長や村人の証言でアリバイは立証された。

 結局、現場検証をしても手がかりが全くつかめずSさんの死は事故死として処理された。なお、Sさんの首の行方はいくら捜索しても見つからなかった。


 警察の事情聴取と現場検証から解放された三日後。

 村人はそれ以上祠のことを話さなくなった。

 作業が完全に中止になった夜、Tさんは一人で村を歩いた。

 あの祠について、もう少し知っておきたい。

 だが、村の誰もが、それ以上の話をしたがらなかった。

 門前払いをされた家もあった。

 無視されることもあった。

「……あれは“無かったこと”になっとる。だが、もしかしたらこの神社の神主なら知っているかもしれん」

 唯一、そんな風に口にした老婆も、すぐに口を噤んだ。


 老婆が教えてくれた地図を頼りに村から山を下りたところに、小さな神社があった。

 Tさんは藁にもすがる思いで訪れた。

 神主は、やけに無表情な年配の男だった。

 話を聞き終えると、彼はため息をついてから、ゆっくりと口を開いた。

「その祠……私は知らないですね。だが、“見えるようになった”というのは、よくある兆候です」

「兆候、ですか?」

「封印の“歪み”です。普通は見えません。見えてしまうのは、何かが外へ出たがっているからです」

「では、あれは封印なんですか?」

 神主は黙ったまま、小さく頷いた。

 そして言った。

「仮説は三つあります」

「仮説……ですか」

 「一つ目の仮説は、首無し神です。古くは“くびおとしさま”とも呼ばれていた存在ですね」

 神主は視線を落とし、ひと呼吸置いてから続けた。

「古代の土俗信仰の中には、処刑された者が神として祀られる例があります。特に“首を落とされた者”は、強い怨念や未練を残しているとされ、それを鎮めるために“首のないまま祠に封じられる”ことがあった」

「首が、ないまま……?」

「ええ。遺体の全てを納めるのではなく、“欠けた状態”で祀ることに意味があったらしい。つまり、それは“完全ではない存在”であり続けることが、封印でもあったわけです」

 Tさんは無意識に喉元に手をやった。

 神主は目を細めて言葉を続ける。

「そうした神々は、見る者に対して“自分の失われた首を映す”とも言われています。祠を見た者の顔や首が、記憶の中で曖昧になる……そして最終的には、“本人の首が捧げられる”という事例が、各地に残っています」

「……それは、呪いのようなものですか?」

「“祠が動いた”とおっしゃってましたね。あれは、首を探して彷徨っているのかもしれません」

 神主の言葉に、Tさんは固唾を飲んだ。

「二つ目は、“道切りの標”という考えです」

 神主は、やや声を抑えた。

「山や谷の境界に、よく分からない小さな祠があるのをご存知ですか?

 あれは“何かを祀るため”ではなく、“何かを通さないため”に置かれるものなんです。

 つまり、あの祠は神ではなく、“外のモノ”を封じるために人間が立てた“門”のようなものです」

「結界、のような?」

「そうです。ただし……あの祠に関して気になるのは、“誰も覚えていない”という点です。

 道切りの祠は、本来は集落の共有財産であり、定期的に掃除や修繕がされるはず。

 それが手入れされず、忘れ去られたというのは――つまり、“何かを封じたまま、世代が変わってしまった”ということです」

 Tさんは背筋に冷たい汗を感じた。

 神主は続けた。

「“封じたモノ”は、時間が経っても消えません。

 そして、封印されていることに気づかれなくなったとき、封印そのものが崩れていくんです」

「それで……見えるようになった、と?」

「はい。“もう守る人がいない”ことを、あれは気づいたんでしょう。祠は今、閉じる側ではなく、開くための器になっているのかもしれません……ただ、問題はですね」

 神主は、言い淀んで指の先で机を軽く叩いた。

「……これは、私の祖父が言っていた話なのですが」

「祖父?」

「昔、この地方では、毎年“通せんぼ祭り”というものがあって……」

 そこで神主は言葉を止めた。

 その顔に、明らかに何かを迷っているような表情が浮かんでいた。

「……いや、これは記録に残っていない。ただの迷信でしょう。続けます」





「三つ目は……私も半分しか信じていない説ですが」

 神主は窓の外に目をやった。

 どこか、遠くの山を見ているような顔だった。

「“記録されないモノ”。

 そう呼ばれる存在が、日本には点在していると言われています。

 書き残せず、名前もつけられず、口にすると消える──そういった現象に関する文献が、断片的にですが残っています」

「それって……本当に存在するんですか?」

「それを確認すること自体が不可能なんですよ。記憶に残らない、言葉にできない、図にしても意味が失われる。

 けれど、ある時だけ──特定の霧の中や、忘れ去られた土地に入ったときに、偶然“それ”と重なる瞬間があるらしいんです」

「その瞬間に、見てしまったら……?」

「“誰か”に話してしまった時点で、今度は話した相手が見るようになる。感染ではなく、連鎖ですね。“共有”された瞬間、封印がほころびます」

 神主は、ふっと笑った。

「あなたがそれを見て、誰かに話した。その人が見て、また誰かに話した。そして誰かが、それを壊そうとする。祠が消えず、名前が与えられずに残っているのは……それがずっと、“語られ続けてきたから”かもしれません」

 神主の言葉を聞いたTさんの背中に脂汗がじんわりとしみ込んでいた。

「ただ、君の話を聞いていてね……ひとつ、妙なことに気づいたんだ」

 神主はふいに沈黙し、古びた帳簿の棚へと向かっていった。

 和紙を綴じた古い台帳を数冊引き出し、めくる。

 乾いた紙の音だけが響く。


「……あれ、おかしいな……」

 神主がぽつりと呟いた。

 Tさんが問いかけようとする前に、神主は帳簿の一冊を閉じた。

「以前ね。祠を見たと言っていた人がいたんです。五年ほど前だったかな……。若い測量士だったはずなんですが、その方も祠を見てから体調を崩して仕事を辞めたと聞きました。」

「同じ場所で?」

「ええ、H集落の東。時計塔のあたりです。その人も、“見たことが記録に残っていない”と言っていた」

 神主はもう一冊帳簿を取り出し、今度はページを少しめくったところで手を止めた。

「……あれ?」

 彼の眉がわずかに動いた。

 見つけた、という顔ではなかった。“何かが抜けている”と気づいた顔だった。

「変ですね。ここに、その人の名前を記録したはずなんですが……ない」

 そのときの神主の表情は平然を保っていたのですが、帳簿を持っている神主の手が震え始めていった。

「消されたんですか?」

「いえ、私が書いたのは覚えてます。日付も。使った筆の色も、墨が滲んだ場所も。でも、今見たら……その行だけ、文字がなくて、余白になっている」

 Tさんに帳簿を見せてくれたが、確かに該当部分は何も書かれていないどころか汚れも手垢の後もなく真っ新だった。まるで、そこの部分だけ新品のページを添えたようで不気味だった。

「通常、こうした禁足地には何らかの供養や神事の記録があるはずです。しかし……ここには、それが何もない。」

  神主の声がやけに硬い。

「つまり、“記録されない土地”ということになる。」

「記録……されない?」

「何かを封じるためではなく、それが“書き残すことすら許されない存在”だった可能性です。」

 そう言った神主の顔は、Tさんの目にはやけに遠くに見えた。 まるで、その言葉を口にしたことで、徐々に“この会話すら曖昧になっていく”ような錯覚を覚えた。

 神主はゆっくりとTさんの方を向いた。

 その目は、先ほどまでよりもずっと、細く、鋭くなっていた。

「……君と、私は今、確かにこの話をしてますよね?」

「ええ、当然」

「でも、それは……本当に“今だけ”のことなんですかね?」

 Tさんは息を飲んだ。

 神主はもう一度、何も書かれていない余白をじっと見つめて言った。

「この話、してるのが……“君の方だけ”じゃないと、言い切れますか?」

 神主の言葉に、Tさんは不安に襲われて思わず吐きそうになっていた。

「……だから、関わってはいけない。君はまだ“名前”を得ていないから、大丈夫かもしれない」

「名前?」

「そう。“あれ”に、君自身の何かを持っていかれてないか、よく思い出してから……帰りなさい」

 Tさんは、何も言えなかった。

 その後、神主のご厚意でTさんはお祓いを受けてから、依頼主が手配したレンタカーのトラックで帰ることができたそうだ。


「この話をしたのはね……君が、今度H集落近くで仕事するって言ってたからだよ」

 H集落のある山の麓にある小さな喫茶店にて。Tさんはコーヒーのカップを置き、ゆっくりと言った。

 その顔には、いつもの気さくさがなかった。

 ずっと何かを飲み込んでいたような、重たい沈黙がその目に宿っていた。

「僕が見たものが、なんだったのか、正直今でも分からない。けど、確かに存在したし、あの祠を見た人間が……何人か、もう帰ってこれなかった。Sさんだけじゃない。Bさんも、その後に体調を崩して退職してる。……私だけ逃れているのはなんでかな」

 Tさんは小さく息を吐いた。その顔には、どこか引っかかったまま抜けない棘のような違和感が残っていた。

 自分が無事だった理由が、“運が良かった”のではないと、本人もどこかで気づいているようだった。

 テーブルの上のカップは、まだ半分以上コーヒーが残っていたが、Tさんはそれに手を伸ばすこともなく、目線を落としたままだった。

「あのあと、別の現場作業をしている間もBさんの事が気になってしばらくは連絡が取れてたんだ」

「そ、そうなんですね」

 喫茶店の天井スピーカーから流れていた演歌のBGMが、ふとノイズを含んだように揺れた。

 さっきまで近くの席で新聞を読んでいた老夫婦も、気がつけば姿が見えない。

 見回すと、窓際のテーブルで店員の年配女性がテーブルを拭いていたが、動きがやけに遅く、こちらに背を向けたまま、同じ箇所を何度も拭いているように見えた。

 ……いや、気のせいだ。気のせいに決まっている。

 私は気持ちを落ち着かせるために、ぬるくなったお冷を飲み干した。

 氷はすでにすべて溶け、グラスの底に、細かい“何か”が沈んでいた。

「ある時、唐突にBさんから電話がかかってきて、『お前、あの祠で名前を言ったか?』って」

 Tさんの声は低く、まるで録音テープのように抑揚がなかった。

「最初、意味が分からなかったんだ。けど、Bさんはそれ以上なにも言わず、電話は切れたんだよ」

 Tさんの顔から段々生気が失っていき、作業服の袖から見える手には鳥肌が立っていた。

 私は反射的に自分の腕を見た。自分も同じように鳥肌が立っていることに気づいた。

 それだけでなく、喉の奥がひどく乾いていて、口の中で自分の名前すら思い出せなかった。

 これ以上は聞きたくない……。でも、私は何も言えず、Tさんの話を聞いていた。

「その数日後、彼は失踪。警察も動いたけど、痕跡がまるで残ってなかった。で、彼の会社の上司から聞いた話だと彼の作業着だけが、自宅のテーブルに綺麗に畳まれて置かれていたそうです」

「ってことは、Bさん帰ってきたんですね」

「まぁ。結局、Bさんは帰ってきたんだよ……首から下だけがね」

 その瞬間、私は喉の奥がひっくり返るような感覚に襲われ、席から立ち上がってトイレに駆け込んだ。

 何度かえづいて、ようやく落ち着いたとき、顔を洗おうと鏡を見ると、自分の顔がどこかぼやけて見えた。

 額のあたりが、うまく焦点が合わない。

 目元と口元はわかるのに、“間”が曖昧だった。


 戻ろうと喫茶店の廊下を歩いていると、視界の端に──

 誰かが覗いていた気がした。

 ガラス越しの植え込みの向こうに、小さな屋根の影のようなものがあった。

 だが見直すと、何もなかった。

 席に戻ると、Tさんは背中を向けていた。

 だがその肩越しに、まるで**“何人か”の気配が重なっているように見えた。**

 私は、我慢して自分の席に着いた。

 まだ、何かが続いている気がしてならなかった。

 ……この話は、たぶん聞いた時点で、始まっている。

「遠藤君が向かう予定のエリア、時計塔の東側に出ることもあるって言ってたよな。もし、あの辺で霧が出て……そして“何か”が見えたら……絶対に、近づくな。たとえそれが祠でも、石でも、古い鳥居でも。君が見た“それ”が何かを思い出そうとした時点で、向こうは君を見つけるから」

 その時、不意に思い出した。

 実は、数日前──

 H集落近くのI県の山奥の現場で下見をしていたとき、山の中で霧に包まれた。

 その一瞬の間に、木の影に、何か小さな“屋根”のようなものを見た気がした。

 見間違いだと思っていた。けど今、はっきりと脳裏にあの形が浮かぶ。

 まるで、それはずっと前から私の記憶の底に住み着いていたように。

 Tさんと別れて店を出たあと、不意に背後を振り返った。

 誰もいない……はずだった。

 あの霧の匂いが、わずかに鼻先に残っていた。

 スマホを取り出し、地図を開く。が、GPSが合わない。地図上では、私は“山の中”にいることになっている。 

 いや、そんなはずは……

 いや……

 時計塔の、東側って何があったっけ?


 現場入りの前日、私は仕事のためにI県の出張先に移動していた。

 予約したビジネスホテルのフロントで、「遠藤洋祐様、お待ちしておりました」と呼ばれた瞬間、

 少し違和感があった。

 ……自分の名前が、妙に遠くから聞こえた気がした。

 それどころか、フロントのスタッフの顔が、どうしても思い出せない。

 あのとき見たはずなのに、今、思い返そうとすると“首から上”が霞んでいる。

 その夜、寝ようとしたとき、部屋の窓の外に、なにか灰色の……屋根のようなものが一瞬映った気がした。

 ……でもここはビルの5階だ。


 仕事当日、現場入りした私は、ふと足を止めた。

 古びた時計塔の東。

 あの場所には、確かに祠などなかった。

 ……はずだった。

 けれど今、そこに立っている“それ”は……。

 私を見ていた。…はずだった。

 否。

 見ている“ような気がする”のではなかった。

 あれは、確かにこちらを、視ている。

 私の中に、“名前をつけたがっているもの”があるような気がして、咄嗟に口を閉ざした。

 名前を呼べば、それは現れる。

 ……そんな気がして、目をそらせなかった。


 ──数日後、会社に一本の電話が入った。

 地元警察からだった。

 山中で、腐乱した首のない遺体が見つかった。

 DNA鑑定の結果、それはTさんだった。

 ただ、奇妙なのは──

 近くにあった二つの白骨も、いずれも首がなかったという。

 一体、どれが最初だったのか。

 どれが“最後”なのか。

 なくなった首はどこへ行ったのか。

 誰も、答えられなかった。










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