ごめんなさい。
あなたは今——この瞬間に、呪われました。
ええ、あなたのことです。
ぼんやりとこのページを開いてしまった、そこのあなた。
ネオページの画面を親指でスクロールしている、”あなた自身”のことです。
……唐突すぎましたか。失礼。学者というものは往々にして、説明よりも事実の提示を優先しがちなのです。
ですが、何度でも申し上げます。これは事実です。冒頭の「ごめんなさい」も、小説的演出ではありません。演出なら、もう少し巧妙に構成したでしょう。
というか、そもそも——これは物語と呼べるものなのでしょうか?
少し語弊がありますね。より正確には、これは「記録」です。
私の、そして、あなたのこれからの記録。
この文章を読んだということ、それこそが合図でした。
無自覚のまま、あなたは今、第一歩を踏み出してしまったのです。
始まりの鐘は、静かに、しかし確かに、鳴りました。
ですから、謝罪が必要だったのです。
巻き込んでしまったことへの、学術的には不適切な、しかし人間として当然の——謝罪。
申し訳ありません。……いえ、もしかすると、その言葉では足りないのかもしれません。
それでも、もう何かが目を覚ましつつあります。
あなたの背後で。
音もなく、気配だけを伴って。
まるで舞台の幕がふわりと上がるように。
そしてあなたの日常に、知らぬ間に、そっと忍び寄っているのです。
信じるかどうか、ですか?
ええ、それはお好きにどうぞ。ですが、申し上げておきます。
これは「信じる/信じない」の問題ではありません。
信仰とは選択ですが、呪いは、強制です。
それは、雨の日に靴下の内側がじっとり濡れていたときの、あの不快さのように。
あるいは、夢でしか見たことのない顔を、なぜか現実の駅の雑踏で見かけたときの、あの奇妙な既視感のように。
じわじわと。静かに。知らぬ間に。
呪いは、そうして入ってくるのです。
私は、一介の宗教学者にすぎません。
この目で数多くの信仰、祭祀、儀式、そして人々の祈りと恐れを見てきました。
合理と迷信、希望と絶望、その曖昧な境界を研究対象としてきた者です。
信じることは、人間の本能であり、弱さであり、同時に強さでもあります。
私は、そんな「信じること」に、人間らしさを見てきました。
けれど——あの“祠”だけは、違ったのです。
渋谷の再開発。
都市の皮膚を剥ぐように、アスファルトが掘り返され、その下から——ありえないものが現れました。
文献に記録はありません。地図にも、信仰の系譜にも、どこにも痕跡がない。
まるで、それはこの世界の"裏側"から染み出てきたような存在でした。
それでも、確かに“そこに”あったのです。
否定はできませんでした。私の目が、それを見たのですから。
私は調べました。宗教学者として。
私の前に、それを記そうとした誰かの意思を感じ取ったからです。
それは研究ではなく、ある種の——儀式でした。
どこかで、誰かが止めてくれると思っていました。
非常識な何かが露出したのだから、当然、警鐘が鳴らされるはずだと。
だが、誰も動かなかった。誰も、止めなかった。
そして、祠は——壊されました。
取り返しのつかないかたちで。
……もう、遅かったのです。
ですから、あなたにお願いがあります。
これから綴られる記録を、どうか最後まで読んでください。
読んだからといって、呪いから解放されるわけではありません。
それは幻想です。むしろ、読んだがゆえに、深く関わることになるでしょう。
それでも、知らぬまま巻き込まれるよりは幾分かマシです。
それが、いまの私に言える、唯一の慰めです。
この記録は、私からあなたへの——バトンです。
呪いと向き合う次なる誰かが、ほんのわずかでも手がかりを得られるように。
“それ”は、まだ都内のどこかに残っています。
姿なき影として。名もなき存在として。
ですから、お願いです。
見つけても——壊さないでください。
いじらないで。撮らないで。
敬意も、無関心も、もう届かないかもしれませんが……せめて、忘れないで。
そして——これは、私の幕引きです。
同時に、あなたの——開幕です。