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 渋谷駅から徒歩五分。

 人波と雑踏を抜けた先、再開発地域と呼ばれる一角で、それは土の奥から這い出るようにして姿を現した。

 深紅の石で形作られた、異様に小さな祠。発見されたのは、2025年の6月だった。

 その日の風は乾いていた。

 気温は平年並み。空も騒がしくはなかったが、私はどこか、落ち着かない予感のようなものを感じていたように思う。

 大学の研究室にこもり、来週の講義資料を整えていた。宗教学を専門とする私にとって、日々の営みとはつまり、人前で語るか、古文書の森に沈むか——そのどちらかだ。

 机上に静かに置かれていたスマートフォンが震えたのは、18時を回った頃だった。

「……もしもし。宗教学の○○先生でいらっしゃいますか?」

 声はやや硬く、年配の男性のようだった。

 その背後には、かすかに金属音と怒鳴り声——工事現場特有の“音のざわめき”が聞こえた。

「はい、私ですが」

「○○建設の佐々木と申します。いま渋谷の再開発現場に関わっている者でして」

「ええ、存じています。確か、あの……国と都の共同プロジェクトですよね。有名な方が責任者をされている」

「はい、まさに。それで……その、少々、妙なものが出まして」

 ——妙なもの。

 宗教学者という職業柄、この言葉には何度も出会っている。

 神社の裏手で見つかった意味不明の石碑。築百年の町家の床下から発見された古びた札。

その多くは、単なる地方信仰の名残か、記録に残らなかった小規模な儀式の痕跡に過ぎない。

 だが、なぜかこのとき、私は無意識に姿勢を正していた。

「詳しくお話しいただけますか?」

「はい……地下の基礎を打っていたんですが、そこで赤い石でできた、小さな祠のようなものが出てきまして。色が……朱色というより、もっと深くて、血のような——」

 彼の言葉はどこか、探り探りだった。だが、それが却って事態の異様さを際立たせていた。

 そして次の言葉が、私の背中を冷やした。

「形が……普通じゃないんです。一般的な祠のように見えますが、なぜか建築物に見えない。角度や接合が、“人の手”を思わせないとでもいうか……。現場もざわついていて」

「遺跡と判断されたのですか?」

「それが……区の担当者も、呼ばれた考古学の先生方も“前例がない”と口を揃えまして。扱いかねると。宗教的な何かでは?と、言う人もいて……」

 私は椅子の背に身を預け、天井を見上げた。

 朱色の祠。前例がない。地中から出現。

「最終的にはですね、上の責任者から“無視して進めろ”という話が出ました。ただ……私個人としてはどうにも気になってしまって。

 それでインターネットで調べていたら、宗教系の専門家として、先生のお名前が目に入りまして」

 私はしばし黙った後、静かに返答した。

「……わかりました。現地を拝見させていただきましょう」

 講義準備の予定も、週末の研究報告も、すべて棚上げにした。

 私は立ち上がり、助手の上田奈々未に声をかける。

「上田君、急ぎだ。渋谷に行くぞ。変わったものが出たらしい」

「変わったもの……と申しますと?」

「祠だ。赤い石でできたそうだ。考古学者が匙を投げた、とのことだ」

「それは……確かに妙ですね」

 彼女の反応は的確だった。上田奈々未。私の研究室に配属されて三年目になるが、冷静さと知的好奇心を併せ持った、優秀な助手だ。必要以上の言葉を発さず、しかし鋭い着眼点を持っている。

 この種の“事件”において、彼女の存在は何より心強い。

 コートを肩にかけながら、彼女は言った。

「……ワクワクしますね」

「ワクワクする類のものか、まだ分からん。むしろ、嫌な予感しかしない」

 私たちは銀座線に乗り込み、渋谷へと向かった。

 夕刻の車内は、仕事帰りの乗客で混み合っていたが、私は頭の中では、いくつかの宗教的遺物の事例を思い浮かべることに没頭していた。

 赤い石と、祠。

 このふたつの要素だけでも、いくつかの宗教的シンボルが連想される。

 特に東アジア圏において、赤は象徴的な色だ。血、生命力、怒り、呪詛、あるいは神威。

 それらは、単なる色以上の意味を内包する。

 だが問題は、その“物質”にある。

「先生。赤い祠……というと、何か心当たりは?」

 上田の声に、私は視線を戻した。

「いくつか、な。だが今回のように都市の再開発中、しかも渋谷の地下から、というのは……非常に珍しい。場所が場所だ。渋谷だぞ」

「……かつて、あのあたりには集落が点在していたという記録がありますよね。江戸期以前の、いわゆる谷戸集落の名残……」

「確かにそうだが、あの一帯はすでに何度も造成されている。埋め立て、整地、再開発……何層にも積み重なった都市構造の中で、未発見の民間信仰が“今さら”顔を出すというのは……やや不自然だ」

「それでも、石の祠なら、土中で保存される可能性も……」

「いや、そこだ」

 私は視線を外にやりながら言った。

「普通、民間信仰の祠は木造だ。せいぜい白木に朱を塗る程度。石造りとなると、それだけでも稀だ。しかも“石そのもの”が赤いとなると……」

 私はそこで言葉を切った。

 口の中で言いかけた“ある鉱物”の名前が、どうしても喉を通らなかった。

 それが何を意味するか——言語化すること自体に、嫌な躊躇いがあった。

 あれは、伝承でしか見たことがない。

 いや、“見たことがある”と感じている自分がすでに、どこか逸脱しているのかもしれない。

「……あるいは、別の可能性もある」

「別の……?」

 上田が問い返したが、私は黙って首を横に振った。

「あとで話す。現物を見るまでは、軽々に言わない方がいい」

 彼女は頷き、私の意図を察してそれ以上は問わなかった。

 銀座線が地上へと浮上し、次第に渋谷の街が見えてくる。

 喧騒。灯り。広告。人の熱。

 そのすべての下に、異形の祠が沈んでいる——そう思うと、胸の奥に、小さく冷たい感触が芽生えるのを感じた。

 これは、単なる偶然ではない。

 私の中で、長らく眠っていた「研究者としての直観」が、静かに目を覚まし始めていた。


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