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 渋谷という街は、夜でも眠らない。だが、この場所だけは別だった。

 工事現場に足を踏み入れた瞬間、喧騒の膜が一枚、音もなく剥がれ落ちたような感覚があった。そこにあるのは、都市の空白だった。

 時刻は20時を回っていた。上田と私は、通行止めの柵を抜け、仮設のフェンスを越えて現場奥へと歩を進めた。照明は最小限。街灯は届かず、周囲をぼんやりと照らすのは、作業用の投光器だけだった。

 その光が、時折ゆっくりと明滅する。まるで呼吸しているかのように。

 そのたびに、空気が脈打つように思えた。

 ——私の鼓動と、合っていない。

 それは些細なズレだ。けれど、人間という生き物は、そういう“微細な異常”にこそ本能的な拒絶を示すものだ。私は立ち止まり、身を包む空気の密度を感じ取ろうとした。

「……妙ですね」

 上田が、呟いた。

「風もないのに、空気が……重い」

「圧があるな。祠が放っているのか、それとも、この土地そのものか……」

 無意識に、声を潜めていた。

 その“存在”を前にして、声を張ることができなかった。言葉が空気に弾かれるような気がした。

 投光器の光が掘削跡の中心を照らす。

 ——それは、そこにあった。

 赤い祠。

「赤」という語は、この物体の色を正確には伝えない。

 それは、もっと深く、重く、淀んでいた。まるで長い年月、土中で血を吸い続けてきた鉄のような——あるいは、乾ききった臓腑のような赤。

 視覚ではなく、皮膚の裏に直接訴えかけてくるような、奇妙な色彩だった。

 サイズは小さい。基底部は一辺一メートル程度、高さもさほどない。だが、その存在感は圧倒的だった。

 周囲の重機や仮設足場すら、まるでこの祠を“演出するための舞台装置”に見えてしまうほどに、祠だけが空間の中心として浮き上がっていた。

 私はゆっくりと歩を進め、その前に立った。

 石の表面は、異様だった。

 一見すると滑らかに見えるが、手をかざすと微細な起伏が感じられる。表層には何らかの文様が刻まれていた。

 だが、それは“文字”ではなかった。

 “模様”でもない。

 流れるような線。円環。途切れ、重なり、歪む。秩序があるようで、ない。

 どこか、インドのマンダラを連想させる幾何学性と、中東の護符に刻まれる呪印のような呪術性が同居していた。

 だが、どれとも違う。

 これは、知ってはいけない体系だ。

 私の脳の奥深くが、そう叫んでいた。

「写真、撮りますね……」

 上田がスマートフォンを取り出し、慎重に構えた。

 しかし次の瞬間、彼女の眉がピクリと動き、すぐに険しい顔になった。

「……ピントが、合いません」

「設定の問題か?」

「いえ、違います。画面が……揺れてるんです。波打つみたいに。まるで、機械のほうが拒んでるみたい」

 私はスマホを覗き込んだ。確かに、祠の周囲だけが、水面に反射したように不規則に歪んで見える。まるでそこにだけ“現実”がねじれているかのようだった。

「止めた方がいいかもな。カメラに何か影響が出てもまずい」

 私は一歩前に出て、祠をまじまじと見つめた。

 石造りで、屋根の部分は三角形。小さな穴が正面に開いている。中は、暗くて見えない。

 私は、思わず手を伸ばしていた。

「先生……」

 上田の声が聞こえたが、私は応じなかった。

 指先が祠の表面に触れた瞬間、心臓がきゅっと締めつけられるような感覚が走った。

 冷たい、ではなかった。熱い、でもない。

 それは“記憶”のような感触だった。

 自分ではない誰かの、遠い過去の怒りと哀しみが、ぬるりと胸の中に流れ込んできた。

「っ……!」

 私は慌てて手を離した。指先は震えていた。視界がほんの少し、暗く沈んだように感じる。

「先生、大丈夫ですか?」

 上田の声が、遠くから届いた気がした。

 私は軽く頷きながらも、胸の奥に残るざらついた感覚を振り払えずにいた。言葉にできない“何か”が、確かに触れたのだ。

「ああ……大丈夫だ。だが、これは……」

「何か、感じました?」

 私は祠を見つめたまま、静かに答えた。

「もしかしたら、祠は単なる遺物ではない。宗教的な“装置”かもしれないな。儀式や記憶を、空間に定着させるための……あるいは、それ自体が“媒体”なのかもしれん」

「媒体……?」

「信仰の対象ではなく、“伝える”ためのものだ。いや、“押しつける”という方が近いかもしれない。たまにそういうものはある。

 誰かが、あるいは何かが——この土地に向けて、強引にメッセージを残そうとした。これはその“痕跡”かもしれないな」

 祠の赤い石肌に刻まれた、かすれた文様を見つめる。流れるような曲線と円環が錯綜する中に、私は一瞬、“顔”を見た。

 それはひしゃげ、叫ぶように開いた口と、ぽっかりと穿たれた目を持つ、ねじれた表情だった。

 何かが叫んでいた。だがその声は、音ではなく、空気の“密度”として胸に圧をかけてくる。

「……先生、この祠……壊すんでしょうか、工事で」

 上田の問いかけに、私は視線を戻す。

 ああ、と低く答えた。

「恐らく、そうなるだろうな。さっき佐々木さんとも話したが、統括責任者がスケジュールを気にしていると言っていた。私も直接その責任者に電話したが、聞く耳は持たなかった」

 声が少し渇く。

「放置すれば再開が遅れるし、経済的損失もある。今の形状や大きさでは、文化庁の保存対象には……まず届かないだろう。未記録のよく分からない祠が、こうして現場で出てきた場合、たいていは“処理”される」

 上田は沈黙したまま、小さく首を振った。

「……なんだか、壊してはいけないもののような気がします」

 私も口をつぐむ。否定できなかった。

 事実よりも、“直感”のほうが重くのしかかるのは、学者としては本来忌避すべき感覚だった。

「……私も、そう感じている」

 ふたりの間に沈黙が落ちた。

 夜の現場には、風の音も人の声もない。

 仮設の照明が微かにちらつくたび、祠の輪郭が微妙に揺れるように見えた。

 私は目を凝らす。……いや、動いてなどいない。

 そう自分に言い聞かせながらも、視線が離れない。まるで、祠そのものがこちらを見返しているような錯覚。

 見られている。

 その感覚が、じわじわと背中を這い上がってくる。

 たかが石の祠だ。だが、それが“ここにある”という事実に、意味がある気がしてならなかった。

 これは遺物ではない。

 この地に、“残ってしまったもの”なのだ。


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