夕暮れが近いダイニングテーブルに、
「離婚してください」
朋美はテーブルに、離婚届の紙とボールペンをゆっくりと置いた。妻の突然の言葉に夫の表情は強張り、その目は信じられないと朋美を凝視した。椅子に背筋を正した朋美の目は厳しく、揺るがない信念を感じさせた。
「もう、もうしないから」
夫は唇を噛み、すがるような目で身を乗り出した。
「離婚してください」
「もう、もうゲームはしないから」
夫は膝の上で握り拳を作ると小刻みに震わせた。彼は、離婚の原因が自分がのめり込んだオンラインゲームだと考えた。確かに、朋美が大腸壊死でトイレで脂汗をかいていた時も、彼はオンラインゲームに夢中で声を掛けることすらしなかった。あの時は自分でタクシーを呼び、救急外来を受診した。この時、朋美の中で何かが壊れ始めた。
「働くから・・・」
夫は親の工芸工房で働いていたが、安定した収入は得られなかった。そもそも、その給与は親から支給されているもので、毎月、自転車操業に近かった。『今月、給料これだけだって』給料袋には10,000円札が数枚入っているだけだった。『お米が買えないじゃない』『母さんが金がないって言うから』朋美は目を伏せ、ため息を噛み殺した
そこで朋美は働きに出た。慣れない仕事に疲れて帰宅した朋美の姿を見た夫は、『ごはん食べてないんだけど』と夕食の準備を急かした。
工芸で生計を立てている作家の殆どは副業を掛け持ちしていた。そこで朋美は夫にアルバイトに就くことを勧めた。けれどその返事はのらりくらりとしたもので、重い腰は上がらなかった。
(これで少しは、考えてくれるかな)
朋美はパートアルバイトの求人誌を、夫のテーブルに置いておいた。それは半月経っても、ひと月経ってもページがめくられることはなかった。朋美は彼との暮らしに希望を見出せなくなっていた。
カナカナカナカナ
朋美も夫がどんな態度に出るのか想像もつかず緊張は高まった。ヒグラシの鳴き声が、遠く、近く、自分が水の膜に包まれているような錯覚に陥った。
「離婚してください」
スカートを掴んだ手のひらに汗が滲んだ。口の中が渇き、目の前の夫の姿がとても小さく見えた。彼は、観念したようにボールペンを握ると震える指で離婚届にサインをした。朋美が準備した印鑑を持ち、力なく朱肉に置いた。朋美はその指先をグッと握ると、この10年の結婚生活に幕を引くように印鑑を押し付けた。朱肉から赤いインクが血のように溢れ出した。
こうして協議離婚の調停の場に出ることもなく、朋美と夫は離婚した。
「朋美と歳を取れると思っていたのに」
凪の頃を迎え、夕陽はビルの谷間に沈んでいった。風のないベランダではガラスの風鈴が静かにふたりを見下ろしていた。朋美は空虚な空に目を閉じた。