オンラインゲームに夢中で、日常の生活に無関心だった夫に離婚届を突きつけた朋美は、夫に秘め事をしていた。朋美が離婚を決意したのは、
離婚届を前にした朋美は、2ヶ月前の夜を思い出していた。
井浦和寿は朋美が勤務していたタクシー会社の所長だった。出会いは最悪だった。周囲の乗務員が『所長は怖ぇぞ』と脅すので、朋美の中で良い印象はなかった。ただ、所長と一乗務員が接触する機会は少なく、いつも事務所の一番奥のスチールデスクで脚を投げ出している姿を見るだけだった。
(怖いな、本当に怖かったらどうしよう)
誘蛾灯に誘われた虫がバチバチと音を立てていた。タクシー会社の深夜の事務所は静まり返り、配車センターに時折、顧客からの電話が入るくらいだ。パソコンのGPS画面では、ピッツピッツピッと金沢市内を走るタクシーを追いかけている。
(あれ?誰もいない・・・・)
朋美は汚れた白手袋の替えを買いに、事務所のカウンターを訪れていた。ところが深夜勤務の管理職が誰もいなかった。
「あの・・・・・すみません・・・」
朋美は消え入るような声でその姿を探したが、反応がなかった。
「え・・・困ったな」
タクシー乗務員に白手袋は必需品だった。サラリーマンがネクタイを締めるように、小さめの白手袋を履いた瞬間、一介の主婦から乗務員へと切り替わる。その日は汗で手袋を汚し、上がりまで3時間もあった。朋美が困っていると、カウンターの下から『はい』と太くて不機嫌そうな声が顔を覗かせた。そこにいたのは斜め45度で朋美を見上げる、井浦和寿、その人だった。
(は、迫力が半端ない!)
本人は機嫌よく対応しているつもりだろうが、吊り上がった眉と力強い目、への字に曲がった唇は、どこをどう見ても怒っているようにしか見えなかった。
「あの、手袋を汚してしまって」
「あぁ、そう」
彼は後ろを振り向くと、ダンボール箱を無造作に漁り白手袋を探していた。朋美は財布から100円玉を取り出し、トレーに置いた。
「はい、これ」
井浦和寿は、ぶっきらぼうながら手袋を渡す時『遅くまでご苦労さん』と声を掛け、目尻にシワを寄せ、少年のような笑顔を一瞬見せた。朋美はその仕草に息を呑んだ。
「お、お疲れ様でした!」
「気を付けて」
朋美は振り向く余裕もなく、薄暗い階段を駆け降りた。セカンドバッグの中で釣り銭がジャラジャラと音を立てた。タクシーに乗り込む際、朋美は2階の事務所を降り仰いだ。その窓には、逆光の中、井浦和寿が静かに見下ろしていた。その姿に、朋美の胸は波打った。