井浦の視線を意識していた朋美は、写真撮影の日を迎えた。タクシー会社のホームページで新入社員のインタビューが掲載されることになった。青空の下、新人乗務員3人が駐車場に集められ、井浦和寿の指示で何枚かの写真を撮った。それは朝の逆光で眩しく、皆、不自然な表情だったと思う。『ご苦労様でした』『お疲れ様です』社屋に戻る時、彼が朋美の背中を押した。それは制服のジャケット越しに、人差し指が一瞬、触れたかどうかわからないものだった。
(・・・・!)
その時、朋美の背中に水滴が輪を作るように熱いものが広がった。それはこれまで感じたことのない感覚で、朋美はその場に崩れ落ちそうになった。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもありません」
井浦和寿は目を細め、目尻にシワを作って不思議そうな顔をした。朋美はその微笑みの奥に優しさを感じた。それは、朋美の中で彼を初めて上司ではなく、ひとりの男性として認識した出来事だった。ふと夫の無関心な顔を思い出し、井浦和寿の笑顔に心が傾いた。この感情は許されないとわかっていたが、朋美には抑えきれなかった。
AM3:00 タクシーの洗車を終えた乗務員たちが事務所に戻って来る。アルコール検知機で異常がないか測定し、タクシーの鍵と乗務員証を管理者に手渡して一息つく。
「お疲れさん!」
「おう、お疲れ。今夜の売り上げ幾らだった?」
タクシー乗務員は仲間だが、会社から一歩出ればライバル同士だ。一人の客の奪い合いになることもある。皆、真剣にハンドルを握っている。朋美の目には、働く気力の乏しい夫に比べ、彼らは生きている人間だと思えた。
「58,000円!」
「微妙だな」
目の下に疲れは見えるが、声は明るく笑い声が絶えない。朋美はその日の売り上げをキャッシャーに投入して事務所のパイプ椅子に腰掛けた。
「朋ちゃんはどうよ、売り上げ良かったか?」
「42,000円でした」
「そりゃ駄目だ、もっと稼がな」
長机に運行管理表と電卓を広げ、間違いがないかを確認する。運行管理表は、何時にどこで客を乗せ、運賃が幾らだったかを記入した日報のようなものだ。その日の朋美の売り上げは42,000円、夜勤としては最低ラインだった。そして、勤務の最後はその運行管理表の合計を算出しなければならない。
「なんや、朋ちゃん。まだ出来んのか?」
「お先に!お疲れさん!」
朋美はどうも計算が苦手だった。この令和の時代にボールペンで紙に記入した金額を電卓で叩く。エクセルなら一発だと呟きそうになった。時には、AM4:00になっても計算が合わない日があった。深夜勤務から上がって来た乗務員に笑われていると、井浦和寿が出勤して来る。
「なに、結城さん、まだ計算してるの?」
彼は空のペットボトルで乗務員の頭を軽く叩きながら朋美へと近寄って来る。
「頑張ってるね」
そして朋美の隣に立つと運行管理表を手に、目尻にシワを寄せて笑った。朋美の胸が静かに高鳴った。そして、何日か続けて、井浦和寿が計算を手伝う瞬間が増え、自然と距離が縮まった。井浦の笑顔に心が救われる一方、夫を思うと胸が締め付けられた。
朝日が昇り、日勤の乗務員たちが出勤して来る。深夜12時間勤務の果て、疲れが体に重くのしかかっていた。朋美は彼らと入れ違いに会社を後にする。自宅に帰ると出勤時間を過ぎているにも関わらず、夫はまだ布団の中だった。リビングテーブルには、飲みかけのコーヒーや菓子袋が放置されていた。テレビに触るとまだ暖かく、つい先ほどまでオンラインゲームに興じていたと思われた。
朋美は、夫の寝顔に愛情を探したが、何も見つからなかった。なぜ夫のために深夜の街でタクシーのハンドルを握っているのか分からなくなった。
タクシー会社に入社し、初めての給与支給日、井浦和寿は朋美を労うように給与明細書の入った茶封筒を自ら手渡した。彼はからかうように、茶封筒を渡す手に力を込めた。一瞬、お互いの時間が止まったような気がした。
「早く帰りなさいね」
「はい」
支給された給与は250,000円と、主婦の稼ぎにしては高額だった。効率よく日々頑張れば、300,000円も夢ではない。朋美は意気揚々と帰宅した。するといつもは布団にこもっている夫が、珍しく起きていた。『こんなに貰えたの!すごいでしょ!』給与明細書を見せると夫は目を伏せた。
「すごいね」
夫は眼鏡のツルを上下させて、貼りついたような笑顔で振り向いた。
「こんなにお給料もらえるなら、俺の給料減らしてもいいよね」
朋美は衝撃に声が震え『なに言ってるの?』と返した。夫の冗談かもしれない言葉に、悲しさと虚しさが込み上げた。夫が務める工房の経営が怪しく、毎月の給与の支払いが滞りそうだと言った。貼りついたような夫の笑顔に、この男と未来を描けないと確信した。