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第3話 緊急事態

 それまでは、ただのタクシー会社所長と一乗務員という間柄だった。そのふたりが、カウンター越しに手袋を手渡した時から、互いを意識し始めた。正確には、彼は朋美の履歴書を見て一目惚れをしていた。それ以降、朋美は井浦和寿の視線を意識する日々が続いた。


 ある昼下がり、朋美がホテルのタクシー待機場で順番待ちをしていると、ホテルの客とは思えない、伸び放題の髪、中肉中背でグレーのスエットスーツを着た男性が歩いて来た。一番前のタクシーから、一台、また一台と乗務員の顔を吟味しているように見えた。彼は朋美が運転するタクシーのフロントガラスを覗き込み、無表情で後部座席のドアをノックした。


コンコンコン


 朋美は第六感で(これは普通じゃない)と感じた。恐る恐るサイドレバーを上げて後部座席のドアを開けた。タクシーに乗り込んで来た中年男性は、素足にサンダルを履いていた。金沢市の中心部、海外ブランドの高級ブティックや百貨店が立ち並ぶ香林坊こうりんぼうにそぐわない風貌。彼は、カバンを持っていなかった。


「お客様、どちらまで」

「とりあえず走らせて、右」


 本来、行き先を告げない乗客は、”お断りする規則”になっていたが、入社間もない朋美はそれを失念していた。右にウィンカーを出し本線に合流する。いくつかの信号を過ぎ、近江町おうみちょう市場で賑わう武蔵ヶ辻むさしがつじの大きな交差点で、もう一度行き先を確認した。


「どちらに行かれますか?」

「真っ直ぐ、行って」


 このまま走れば、人気のない片側1車線の細い県道に合流する。その先は郊外で、富山県に続く峠か、集落が点在するダムへ向かう。朋美の口の中はカラカラに乾き、耳鳴りがした。白い手袋がジワリと湿り気を帯び、指先が震えた。


「お客様、行き先のご住所をお願いします」

春日町かすがまち

「春日町の何丁目になりますか?」


 男性は気怠そうに住所を伝えたが、春日町はとうに過ぎていた。朋美は咄嗟に無線マイクを握りボタンを押した。配車センターに位置情報のデータを送ってもらおうと考えた。その返答に、朋美は絶望した。


106いちまるろく号車どうぞ」

「はい、106」

「該当する建物は確認できません、どうぞ」


 後部座席の男性をルームミラーで一瞥すると、彼は運転席でのやり取りを腕組みをして凝視していた。その目はすわり、口元の髭が歪んだ気がした。


「106どうぞ」

「はい、106号車どうぞ」

「すみません・・・106、だ、大事な忘れ物です」


 ”大事な忘れ物”とは、タクシー業界の隠語で非常事態を意味していた。今頃、事務所のGPSは、朋美が運転するタクシーが春日町を通り越してダム方面に向かっていることを確認しているだろう。すると突然、その男性はタクシーを停めて、脇道にある林道に行くように指示して来た。


「お客様、この道はタクシーでは通れません」


 薄暗い杉の木立が目前に迫り、鬱蒼としたシダ植物が林道を塞いだ。


「お客様?」


 後部座席から苛立ちの気配を感じた。


「いいから行けってんだろうが!」

(・・・・!)

「俺の家があるんだよ!早く行け!」


 男性は豹変し、助手席のシートを足で蹴り上げた。朋美は(もう終わった)と思った。明日にはこの先の林道にブルーシートが張られている、そんな光景が脳裏を過ぎった。男性はポケットから革が剥げかけた財布を取り出して、中身を見せた。そこには10,000円札がパンパンに入っていたが、そんな事はどうでもよかった。乗車運賃など要らないから、今すぐにでもこの狭い空間から出て行って欲しかった。


「行けや!」


 その時だった。偶然通りかかった県外ナンバーの車が道を尋ねて来た。緊張で呼吸することも忘れていた朋美に、安堵の息が漏れた。その男は車を警戒し、自分でドアを開けてタクシーを降りた。そして運転手から目をそらすように、今、来た道を戻って行った。朋美は助かった。


「106号車どうぞ」

「はい、106」

「SDカードを確認するので帰庫して下さい」


 井浦和寿の声を聞いた朋美は一気に緊張の糸がほぐれた。目尻に涙を浮かべハンドルを握った。アクセルペダルを踏む足が小刻みに震えていた。早く彼に会いたかった。赤信号で停車するたびに自分の呼吸が荒くなっていることに気づいた。朋美は助かった、初夏の空が青く眩しかった。


 朋美が会社に戻ると別の管理者が駐車スペースで待機していた。すぐにSDカードは回収され、事務所のパソコンで男性の様子が確認された。一概に、強盗やその他の犯罪につながるとは言い切れないが、『気を付けるように』と井浦和寿は真剣な顔で言葉を掛けた。『はい』『また、行くのか』『はい』再びタクシーに乗る足元は重かったが、朋美はその日の稼ぎのために、すぐに会社から出庫することにした。


「気を付けて行ってらっしゃい」

「はい」


 井浦和寿はSDカードを朋美に手渡す際、一瞬グッと握り離さなかった。そして、年齢を感じさせる目尻を下げ、口角を上げた。ふたりは無言だったが、なにか通じ合うものを感じた。以来、井浦和寿は、朋美の運転する106号車の行方を目で追うようになった。


 これまで体験したことのない恐怖の後で、疲れ果て帰宅した朋美は、夫にその日の出来事を話して聞かせた。『こんな怖いことがあったんだよ』その答えは素っ気ないものだった。


「じゃあ、辞めれば?」


 それは朋美を心配しての一言だったのかもしれないが、相変わらずその目はテレビ画面に釘付けで、オンラインゲームに夢中だった。


(そんな簡単に辞めればって、酷すぎない?)


 アルバイト求人雑誌のページは開かれた形跡がない。収入がない現実世界を夫はどう考えているのか、朋美には理解できなかった。そして夫の無関心さに、10年の結婚生活が色褪せて見えた。

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