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第6話 スマートフォン

 離婚届を書いた夫との同居に、朋美は精神的に限界を迎えていた。その夜も、朋美は雨の街角でタクシーの乗車客を待った。エンジン音だけが響く車内、路上は人通りが少なく物思いに耽るにはちょうど良かった。


 朋美は、スマートフォンを取り出すと(上司 スキンシップ 心理)と検索した。そこには、距離を縮めたい、好意を抱いていると表示された。ただ、性的な下心という文字に顔をしかめたが、井浦からはそんな気配はなかった。いつしか朋美は、フロントガラスを伝う雨の雫を眺めていた。ガラスの油膜に、信号機の点滅が滲んで見えた。朋美の目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。


(所長が好き)


 ドライブレコーダーが作動しているにも関わらず、その涙はとめどなく頬を伝った。そして初めて気が付いた。


(所長が好き、私、所長が好きなんだ)


 朋美はタクシーのギアをドライブに落とした。スマートフォンを握り締め、アクセルを踏んで井浦が勤務する事務所へと心を逸らせた。一時停止の交通標識を見落としそうになった。焦って縁石に乗り上げた。深夜の車庫は静かで、同僚たちは皆、出庫していた。タクシーのドアを閉め、震える指先で鍵を掛け、大きく深呼吸してアルミニウムの扉を開けた。タバコと男臭いにおいが染み付いた休憩室を抜け、階段を上った。朋美の心臓はドクドクと脈打ち、階段を上る足は緊張で縮こまった。踊り場で深呼吸すると、壁に、靴で蹴られた跡が残っていた。少し凹んでいる。これは、井浦和寿が乗務員と口論になった際につけたものだと聞いた。やはり海千山千の乗務員をまとめ上げるだけあって、激しい面を持ち合わせているのだろう。乗務員を叱る厳しさの裏で、疲れた目で微笑んだ彼を思い出した。朋美は今からそんな相手に告白をしにゆくのだ。ふり仰ぐと事務所の明かりが見えた。緊張で、セカンドバッグを胸に抱えた。


ピッピッピッツ


 事務所からは、タクシーの位置を知らせるGPSの音が聞こえた。井浦和寿は起きているだろうか、唾を飲み込んで中を覗くと、彼は椅子の背もたれに体を預け、仮眠を取っていた。朋美はスマートフォンを力を込めて握り、カウンターに向かって声を掛けた。


「あの、すみません」


 小さな声で聞こえなかったらしく、井浦和寿は3度目の呼びかけで訝しそうな顔をした。こんな時間に乗務員が戻ってくるのは両替か、面倒な事故の報告くらいだ。寝起きで面倒臭そうに頭を掻いた彼はカウンターの前に立ち、手袋か両替かと口をへの字にした。朋美はカウンターに自分のスマートフォンを置いた。


「どうしたの」

「これ・・・」


 朋美の精一杯の告白だった。


所長

お話があります

会社の外で会えませんか?


 それを見た井浦和寿は、急に目を輝かせてカウンターから飛び出すと、乗務員の勤務表を確認するために大股で壁に駆け寄った。その姿は所長ではなく一人の男性だと思った。彼は朋美の勤務表を指でなぞって明後日はどうか、と向き直った。


「分かりました」

「じゃあ、明後日のPM5:45に病院前で」


 朋美は赤らむ頬を隠しながらお辞儀をして、階段を駆け降りた。事務所を振り向くことも気恥ずかしく、そのままタクシーに乗り込んだ。すると、ナビゲーションが鳴ってメッセージが表示された。


頑張ってください


 朋美は一筋の希望を見出した。

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