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第8話 暗闇に逃げる

 翌日、井浦和寿の情熱に背中を押され、朋美は離婚届を市役所に提出した。彼となにかを約束した訳でもない。ただ、あのひとときは、報われなかった10年間の結婚生活に終わりを告げるに相応しい出来事だった。


 その夜も、朋美は夫だった男性と布団を並べた。あの離婚届に印鑑を捺して以来、彼はオンラインゲームをしなくなった。けれどそれはもう遅かった。朋美は何度もゲームを控えるように頼んだが、無視された。金銭的に余裕があった時、一緒に旅行に行こうと誘ったが、素気無く断られた。なんのための10年間だったのだろう、そう思うと目が醒めて来た。


 足の裏がムズムズとむず痒く、急に息苦しくなった。朋美は勢いよく布団を剥ぐと起き上がり、彼に気付かれないようにクローゼットから数枚のワンピースやブラウス、会社の制服を取り出した。それを持って隣の部屋に行く。パジャマから制服に着替えようとしたが、震える指はカッターシャツのボタンを通すことが出来なかった。


(私はなにをしているの)


 キャリーバッグは重くて嵩張るので、小さめの旅行鞄を押し入れから持ち出した。彼に見つからないか。今から自分はなにをしようとしているのか。震える指でそれらを無理矢理、旅行鞄に詰め込んだ。階段の軋む音に耳を澄ませ、階下で化粧品やコンタクトレンズを手際よく押し込むと、膨れ上がった旅行鞄のチャックを閉めた。玄関の扉と車の鍵を開け、旅行鞄と数足の靴を後部座席へと放り込んだ。ハザードランプに浮かび上がった自分の姿はどこか滑稽に見えた。遠くで犬の遠吠えが聞こえ、救急車が走り去った。朋美は車に乗り込むとエンジンを掛けた。ハンドルを握った手に力を込めた。


(もう、戻れない、戻らない)


 シフトレバーをドライブに落とした朋美の心臓は早鐘を打っていた。朋美は10年間、暮らした家をルームミラーで振り向く事なくアクセルを踏んだ。


 深夜、朋美は会社の立体駐車場の屋上に車を停めた。湿り気を含んだ夜風に当たった朋美の興奮は潮が引くように収まった。そして、自分が置かれている状況に気が付いた。勢いで家を飛び出したが、眠る場所がない。しかもあと数時間で出勤時間だ。そこで、女子更衣室のソファで仮眠をとることにした。立体駐車場の坂を降りると革靴の音が小さく響いた。朋美は思った。両親はとうに他界し、母の声や父の笑顔を思い出すことはもうない。自分には帰る場所がない。残されたのは、この会社の仮眠室だ。雨風を凌げればなんの問題もない。朋美はアルミニウムのドアを開け、事務所の管理者や他の乗務員に気付かれないように真っ暗な階段を登った。それはこれからの自分の人生のような気がした。女子更衣室の鍵は開いていた。窓際のソファーに横になると、冷たい革の感触が背中に染み、体の震えがようやく収まった。


 ブラインドの隙間から街灯の明かりが差し込んだ。朋美は浅い眠りの中、井浦和寿の少し疲れた笑顔を思い描いた。あの夜、彼が語った一言が頭から離れなかった。

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