夜逃げのように家を飛び出した朋美は、義父母が職場に連絡して来るのではないかと心配したが、それは懸念に終わった。朋美はあの家では取るに足らない存在だったのかもしれない。身軽になった朋美は、夜の街角で冷静に自分を見つめた。けれど不思議と感傷的にはならなかった。夜勤の乗務員たちは皆、良くしてくれた。また仕事柄、日々何人もの乗客を乗せ、会話をしなければならない。十人十色の人生に接していると、寂しいと思う暇がなかった。
ただ、困ったことに、女子更衣室で寝泊まりしていることが本部長の知るところとなった。軽く注意をされて済んだが、もうここは使えなかった。いよいよ、ホテルで過ごさなければならない状況に陥った。茹だるような暑さの中、ガソリン代も馬鹿にならない。肌を刺す暑さで額に汗が滲み、シートに沈む体が重かった。手持ちの金には限りがある。勤務明け、疲弊した朋美は眩しい朝日を恨めしく思いながら、引き寄せられるように緑の木々が揺れる公園の脇に車を停めていた。茫然とシートに身を預けていると、先が見えない不安が涙となって、静かに頬を伝った。
すると、対向車線を黒い車が走って来た。井浦和寿の車であることはすぐに分かった。彼も朋美の車であることに気付き、少し先の路肩に車を停めた。彼は無言で後部座席に滑り込み、いつもの少し疲れた笑顔を浮かべた。
「なにしてるの!帰らないの!?」
彼の声は急くように響いた。
「所長」
「俺のこと、待ってたのか?」
こんな偶然があるだろうか、この公園の先に井浦和寿が住むマンションがあると言った。彼はこの道を通って会社に通っている。朋美は、その時初めて自分が離婚して家を出て来たことを打ち明けた。どこに住むのかと尋ねられ、行く宛がないと涙を流すと彼は困り顔になった。しばらく考え、今日はとりあえず駅西のビジネスホテルに泊まろうと言った。その目には、困惑となにか暖かいものが混じっていた、ホテルが決まったら連絡することになり、彼が一瞬、彼女の目を見つめた後、そっと近づいてきた。彼は深いキスをして後部座席のドアを閉めた。朋美はルームミラーに映る、大きな背中を見送った。
その日の宿が見つかった朋美は、井浦和寿のスマートフォンに連絡を入れた。愛想のない、了解しました、というメッセージが返って来た。少し物足りなさを感じた。朋美が選んだビジネスホテルは最近オープンしたばかりで、白い壁に金の照明と、見た目はシティホテルに近かった。エレベーターを降りると、靴が沈み込むようなカーペットが敷かれていた。心地よく冷房の効いた部屋、広いバスルーム、朋美はここ数日の緊張をバスタブで洗い流した。水を飲んで一息ついていると、部屋のドアがノックされた。ちょうどPM17:45、勤務が終わった時間だった。ドアを開けると、コンビニエンスストアの袋に、飲み物やおにぎりを入れた彼が息を荒くして立っていた。額には汗をかいている、急いで来たのだと言った。ドアが閉まるなり、彼は朋美の腕を掴んでベッドへと押し倒した。スプリングが軋み、シーツにシワが出来た。彼は彼女に馬乗りになり、深紅のネクタイを荒々しく解いた。ワイシャツのボタンが外される度に、朋美の胸の鼓動が速くなった。
「朋美さん」
「所長」
井浦和寿はいつものように目尻のシワを緩めると、目を細めて優しく微笑んだ。肌を重ねるのはこれで2度目だが、肌と肌が吸い付くように馴染んでいる。ゆっくりと頬に唇を落とし、それは首筋を伝って胸元で円を描いた。甘い吐息が部屋を満たすと、彼の唇が首筋をたどるたび、朋美の心臓は高鳴り、忘れていた熱が体を駆け巡った。
「明日は夜勤だね?」
彼はネクタイを結びながら髪を掻き上げた。
「はい」
「それなら泊まるところは必要ないか」
そう言い残し、彼はやはりPM19:00前に帰って行った。シーツの冷たさや、彼の残り香が寂しさを募らせた。
(また、お姉さんが待っているのかな)
その時は思い付かなかったのだが格安のラブホテルという選択肢もあった。どちらにしても次の給料日まで使える金には限りがある。後部座席を見れば家から持ち出した衣類や旅行鞄が積まれたままで、それを見るだけでうんざりした。
朋美は棲家をなくしたヤドカリのようだった。重い殻を捨てたはずが、新たな居場所はまだ見つからない。
それからホテルを転々としたが、朋美の持ち合わせの金は底をついた。最後は井浦和寿に金を借りたが、それも難しくなった。
「俺のマンションに来るか?」
彼の目には、彼女を包み込むような温かさと、どこか遠い影があった。
「行きます!」
一瞬、胸が締め付けられたが、行く宛のない現実はそれをかき消した。