西陽が当たる熱いレンガ造りのマンションだった。すぐ下がガソリンスタンドで賑やかだった。エレベーターが上昇すると、段々と井浦和寿の表情が硬く、緊張感が伝わって来た。普段、見たこともない顔つきで不思議に思った。朋美は重い旅行鞄を両手でぶら下げて、背筋を正した。姉さんがいるから、驚かないで下さいと言われ、息を呑んだ。
(お姉さん、やっぱり所長と似ているのかな)
「ただいま帰りました」
その丁寧な言葉遣いに朋美は驚きを隠せなかった。お姉さんの前では、こんなに違うものなのかとその背中をじっと見た。朋美の視線に気付いたのか、彼は振り向き、挨拶するようにと促した。
「初めまして、結城朋美です」
フローリングの床に正座で朋美を待っていたのは、厳しい眼差しだった。朋美は(女だ)と直感で感じた。美しい白髪まじりのワンレングスが肩で揺れていた。化粧で整えた表情は敵意に満ちていた。朋美を泊めることに明らかに反対していると思った。井浦和寿は朋美のことをどう説明していたのだろう。戸惑いが隠せなかった。
「初めまして。
「お邪魔します」
朋美は、手土産のひとつでも買ってくれば良かったと後悔した。けれど、夜勤明けの彼女は心身ともに疲弊していてそこまで気が回らなかった。部屋は3LDKで東向きの窓は大きく、オレンジ系の花柄のカーテンが風に揺れていた。朋美は荷物を井浦和寿の部屋に置いたが、白い壁に大きな穴が空いていることに気付いた。その穴は手のひら大で中は空洞だった。その穴はまるで誰かが怒りをぶつけた跡のようで、朋美の胸に奇妙な不安を残した。
朋美が荷物を広げようとファスナーに手を掛けた時、リビングに呼ばれた。ガラスのコップに汗をかいた冷たい麦茶と素朴なせんべいが出されたが、緊張で喉に詰まった。指先から嫌な冷たさが全身へ広がった。その間も、隣に正座した奈央は朋美の横顔を凝視していた。それは過去の誰かを思い出すような目つきで、針のような痛みを感じた。
朋美が無意識に足を崩して座った途端、奈央は行儀が悪いと一瞥した。
井浦和寿は『結城さんが住める部屋が見つかるまで置いて欲しいんだ』と頭を下げた。朋美にしてみれば、姉の了承を得て住まわせてくれるのかと思っていた。井浦の言葉に、朋美は一瞬裏切られたような気持ちを覚えたが、すぐに疲れがそれを飲み込んだ。
「猫の子じゃあるまいし」
奈央はそう言い放つと続きの和室へと戻り、刺繍の続きを始めた。朋美と奈央の出会いは気分の良いものではなかった。部屋に響くのは、奈央の刺繍の針が布を刺す微かな音だけだった。
後片付けをしようとグラスや小皿をキッチンへ運ぶと、触らないで!と奈央が朋美を制した。朋美は一瞬固まり、顔が熱くなるのを感じた。キッチンのまな板には、長さも太さも整ったごぼうと人参の千切りが置かれていた。朋美の大雑把な性格に対して奈央の繊細さが浮き彫りになる出来事だった。