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第11話 禁断

 朋美、井浦和寿、井浦奈央の奇妙な同居生活が始まった。彼は、朋美が新しい住まいを見つけるまでここに置いて欲しいと奈央に頭を下げたが、そもそも朋美には持ち合わせの金も、アパートを探す時間もなかった。なぜなら、朋美の夜勤タクシー営業は12時間稼働、遠方の客の送りがあれば13時間を越すことも多い。その後に洗車や納金作業が行われる。朋美は空が白む明け方にようやく帰宅する。


 井浦和寿は管理職なので基本8:00-17:00の日勤だ。夜勤の朋美とは真逆のシフトで、2人がマンションで顔を合わせるのは朝の挨拶くらいだった。


「所長、行ってらっしゃい」

「行ってきます」


 朋美は疲れ切った体に鞭を打ち、眠い目を擦りながら玄関で井浦和寿を送り出したが、彼は気もそぞろで彼女の背後に目線を遣った。そこには眉間にシワを寄せた恨めしい表情の奈央の姿があった。奈央は一瞬唇を噛み、彼の視線に気付くと目を細めて笑い、足を一歩踏み出した。これまで何十年間も、彼を送り出して来たのは奈央だった。それが、ある日突然マンションに転がり込んだ女が、彼に行ってらっしゃいと手を振っている。腑が煮えくりかえるとはこのことだろう。井浦和寿は奈央の表情の変化に、ドアノブを握ったまま一瞬動きを止めた。井浦和寿は、朋美をここに置いた自分の決断を一瞬後悔したが、すぐに頭を振って外に出た。


バタン


 玄関の扉が閉まると、朋美は大きなあくびをひとつして、おやすみなさいと奈央を一瞥すると、井浦和寿のベッドに無造作に潜り込んだ。彼女は疲れ果てた体をベッドに投げ出し、無意識に彼の匂いを探すようにシーツに顔を埋めた。その部屋にはクーラーがなく、扉は開け放ったままだった、奈央はそのしどけない姿を目の当たりにして過ごすこととなった。奈央にとって、彼のベッドは2人の歴史を刻んだ場所だった。それが今、朋美に奪われていた。奈央は拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。


 奈央が不満を抱くように、朋美もまた不満を抱いていた。井浦和寿と思いを通わせ合ったにもかかわらず、自由に抱きしめ合うことも口付けを交わすことすら出来なかった。今の状態は一体なんなのだろう、疑問が浮かんだ。数日後、夕方の点呼でタクシーの乗務員証を手渡される時、井浦和寿が朋美の手にメモを握らせた。触れた指が温かかった。思わず頬が熱った。慌ててタクシーに乗り込みメモを開いた。


明日の朝 5:00 駅西保健センターの駐車場で会いましょう


 逢瀬への誘いだった。ようやく2人だけで会えることに、朋美の胸は高鳴った。出庫時のオイル点検をしていると視線を感じた。ふり仰ぐとそこには、疲れたシワを寄せて微笑む彼の姿があった。朋美もそれに笑顔で応えた


 翌朝、朋美は昨夜の疲れを引き摺りながら、白み始めた街で車を走らせていた。井浦和寿と会える喜びで、信号機をひとつすぎる度に彼女の胸の鼓動は波打った。待ち合わせ場所には、朝靄で雫が溢れる赤いツツジが咲く垣根があった。その垣根の端に、黒い車が身を隠すように停まっていた。朋美の胸の奥底に、針がチクリと突き刺さったような気がした。その正体を掴めないまま、彼女は彼の車の後部座席にゆっくりと乗り込んだ。誰かに見られてはいけないからと、朋美は助手席に座ることを許されなかった。その時、気が緩んだ朋美の頬を涙が伝った。


「どうしたんですか!?」


 井浦和寿は、朋美の涙に驚いて振り向いた。


「これって、不倫みたいじゃないですか?」


 朋美は気付いた。大手を振って交際出来るはずの2人が、会社に露見しないように隠れて会う。マンションでは2人きりになる時間はなく、彼は奈央に気遣って朋美との距離を取るようにしている。それはまるで、朋美と井浦和寿が禁断の関係であるような錯覚を起こした。涙は溢れて止まらなかった。


 井浦和寿は運転席から手を伸ばして、愛しています。一生大事にします。と必死な表情で朋美の手を握った。ただ彼は朋美の手を握りながら、奈央との時間を一瞬思い出していた。


 足元が揺らいでいる朋美は確かなものが欲しかった。住まいを失った自分に、彼だけが唯一の支えだと感じていた。彼女は、奈央の視線がない場所で、ようやく彼と自分だけの未来を想像した。


「所長、私と結婚してください」


 朋美は気が付くと、そう口にしていた。井浦和寿の表情が曇り、口を開きかけたが、言葉を飲み込んだ。そして朋美は知らなかった。この逢瀬が、奈央の知るところとなることを。

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