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第23話 あなたが消える日

 井浦和寿は朋美の心身を気遣い、奈央の部屋には日を改めて挨拶に行ったらどうかと言いながらエレベーターのボタンを押した。朋美にすれば、奈央の性格を考えれば退院したその日に顔を出すものだと勝ち誇った顔で言うに違いなかった。朋美と井浦和寿は荷物を部屋に置いた。オレンジのカーテンを開けると穏やかな夕陽が朋美を包み込んだ。彼女は真っ赤な薔薇をコップに差し、リビングのテーブルに飾った。寂しく悲しみで沈んでいた部屋が温かいもので満たされた。遠くでアブラゼミが夏を惜しむように鳴き、それは奈央の孤独な叫びに聞こえた。通りには街灯が灯り始め、車のテールランプが赤い川のように流れていた。


「じゃあ、行こうか」

「うん」


 2人は奈央の部屋へと向かう階段を降りた。朋美は階段の手摺りのざらついた感触を握った。指先が震え、緊張で喉の渇きを感じた。こめかみがドクドクと脈うち息が苦しくなった。井浦和寿はインターホンを押すことなくドアを開けた。奈央の部屋に慣れた仕草で靴を脱ぎ、ベッドに腰掛けたが、その手に一瞬の躊躇がよぎった。朋美をちらりと見つめる目に、姉さんと上手くやってくれという願いが込められていた。


「お邪魔します」


 リビングでは、正座をした奈央が厳しい目で朋美を睨み付けていた。その目に、かつての勝ち誇った笑みが一瞬よぎり、朋美の背筋を凍らせた。薄暗い部屋で光る彼女の瞳は、まるで井浦和寿への執着を秘めているようだった。


「お入りなさい」

「はい」


 朋美は震える足で奈央の前に進むと、額を床に着けて謝罪した。


「申し訳ありませんでした」

「朋美さん、あなたなにをしたか分かっているの!?」


 厳しい声が朋美を貫いた。彼女は気圧され指先を震わせた。すると奈央は一冊のノートを取り出した。開いたページには、朋美がこのマンションに来た時から今日までのことがビッシリと書き込まれていた。奈央は、朋美が勝手にマンションに住み始めた。井浦和寿に無理矢理に婚姻届にサインさせた。ワンルームマンションを借りて別居させたと、これまでの恨み辛みを冷ややかな声で読み上げ始めた。井浦和寿はベッドに腰掛けたまま黙り込んだ。朋美を一瞬見つめる目に、動揺と何かを抑えるような影がよぎった。彼女の目に、朋美の背筋を凍らせる確信が宿っていた。


 朋美も最初は黙って聞いていたが、今回の救急搬送は狂言であったと言われた瞬間、思わず顔を上げた。白い粒を飲み込んだ夜の苦味が意識の底からよぎり、彼女の胸に怒りと恐怖が込み上げた。『そんなわけない!』と叫びそうになったが、声は喉に詰まった。奈央はその不服そうな朋美の表情を見て、目尻を吊り上げ唇を強く噛んだ。


「和ちゃんがおかしくなったのはあなたのせいよ!」

「違います!」

「なにが違うもんですか!この泥棒猫!」


 ベッドに腰掛けていた井浦和寿は、眉間にシワを寄せて2人が決裂したことを確信した。その表情は苦々しく、朋美をこの部屋に連れて来たことを心から悔いた。彼は無言のまま、絶望に天を仰いだ。朋美はふたたび深々と頭を下げ立ち上がった。朋美を見上げる奈央の表情は鬼の形相をしていた。彼女の手はノートを握り、井浦和寿との20年の絆を奪われた憎しみをぶつけるようだった。朋美は奈央に気圧され、胸に湧いた反論を飲み込むしかなかった。無言で立ち上がり、震える足で玄関に向かった。


「失礼します」

「この田舎者が!」


 朋美が振り向くと、奈央が怒声と共に立ち上がっていた。心臓が締め付けられ、彼女は慌ててドアを閉め、震える足で階段を駆け上がった。肩で息をした朋美は、廊下の手摺りに寄りかかって井浦和寿が戻って来るのを待った。指先がまだ恐怖に震えていた。これでもう、奈央との関係は修復不可能だろう。アブラゼミはもう鳴いてはいない。朋美は、少し湿り気のある冷たい夜風に吹かれながら茜の空をぼんやりと眺めた。


 興奮が収まらない奈央は、手に握っていたノートを引き裂き始めた。ハラハラと白い欠片が雪のように舞い落ちた。ベッドに座っていた井浦和寿はノートを取り上げ、奈央をベッドに座らせた。彼女の両手を握る彼の目に、朋美への愛と奈央への過去の恩が一瞬よぎった。奈央の骨ばった指が彼の手を撫でた。彼女の目は、義弟ではなくひとりの男性として愛する切ない思いに潤み、ノートを引き裂いた激情とは裏腹に、静かな悲しみを湛えていた。井浦和寿はその指をそっと外した。奈央を見つめる目に、朋美への愛と20年の恩への微かな後悔が一瞬よぎった。


「姉さん、ごめん。また明日来るよ」


 井浦和寿は決意したように立ち上がった。朋美の待つ廊下を思い、奈央を一瞥すると、玄関へと向かった。ドアノブに手を掛けた瞬間、背中に熱いものを感じた。彼女の震える唇から、井浦和寿への切ない愛が溢れでた。


「愛しているの」


 井浦和寿は背中を押さえ、朋美の待つ廊下を一瞬思い浮かべながら床に崩れ落ちた。驚愕の目で奈央を見つめ、呻き声が漏れた。奈央の血だらけの包丁を握る手は震え、彼女の目は井浦和寿を失う恐怖で狂気を宿していた。


「和ちゃん、私、あなたが消える日が怖かった」


 奈央は大きく包丁を振り翳した。









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