鋭い眩しさと衝撃を頭に感じた。胃のなかを這い回るなにかが腹を引き裂く。痛みに悶えていた朋美は地下鉄の駅にいた。薄暗く肌寒いホームには蒸気機関車が白い煙を吐きながら乗客を待っていた。朋美がステップに足を掛けると、半透明でブヨブヨした塊が降りて来た。朋美はホームに押し出された。突然暗闇が襲ったが、怖くはなかった。むしろ穏やかで居心地が良かった。やがて、遠くでビープ音が響き、朋美の意識がゆっくり浮上した。彼女はベッドの上に横たわっていた。枕元を柔らかな灯りが照らした。
朋美さん もう大丈夫だから 安心してください
深い海の中から響いてくる声は、何度も朋美に囁きかけた。
朋美さん もう大丈夫だから 姉さんは苫小牧へ帰るから
奈央の勝ち誇った表情が頭をよぎった。朋美はその声に手を伸ばそうとしたが、奈央の姿が立ちはだかった。『朋美さん』『朋美さん』その時、仄暗い世界に光の筋が顕れた。それを開くにはとても力が必要だった。やがてメリメリと音がしてまつ毛の影が揺れた。井浦和寿が心配そうに朋美の手をしっかりと握っていた。朋美は子どものように声をあげて泣いた。
「うぇぇぇん!」
井浦和寿の泣き腫らした目が朋美を見つめた。『良かった、朋美さんが目を覚まして、本当に良かった』彼は震える声で呟き、勢いよく立ち上がった。
「医者だ医者!医者を呼べ!」
彼は相変わらず声が大きかった。白衣の男性が駆けつけ、朋美の脈を測った。『薬の影響が・・・』と呟く声が、遠くで聞こえた。ビニールチューブを外す痛みに、彼女は咽込んだ。朋美は蒸気機関車に乗ることはなかった。井浦和寿は良かった、良かったと何度も呟き朋美の手を握った。温かかった。
朋美の意識は3日間戻らなかった。集中治療室では、モニターのビープ音と消毒液の匂いが漂い、冷たい蛍光灯が井浦の疲れた顔を照らしていた。彼は頻繁に訪れ、朋美の口の中や目脂を拭いた。朋美さんはこんな顔をしていたんだな、その手は震え、時折、彼女の顔を見つめる目に後悔の色が浮かんだ。
朋美は1週間の入院を余儀なくされた。薬の影響で眠れない日が続きうなされた。白い粒を飲み込んだ夜の苦味が、時折意識の底からよみがえった。朋美は足繁く見舞いに来る井浦の手に癒された。だが、混濁した意識の中で『姉さんは苫小牧に帰るから』という言葉が響き、井浦の『離婚して下さい』の声がよぎった。それが幻聴か彼の言葉か、聞く勇気はなかった。
退院の日、井浦和寿は真っ赤な八重咲の薔薇を一本朋美に手渡した。朋美は彼の顔を見上げた。彼は疲れた目尻を下げ、寂しげに微笑んだ。
「姉さんは、苫小牧に帰るから」
あの時聞いた言葉は幻聴ではなかった。井浦和寿は奈央ではなく朋美を選んだ。
「朋美さんが病院に運ばれた時に気付いた。姉さんへの恩は過去だ。今の俺には朋美さんが全てだ」
朋美の頬を涙が伝った。
退院の手続きを終えると、朋美は彼が準備した黒のキャミソールワンピースに着替えた。それは2人が初めて結ばれた日に着ていたものだった。あの夜、車の中で井浦和寿が熱く囁いた言葉が朋美の心を温めた。朋美がワンピースに着替えると、彼は目を細めて『似合うよ』と少し疲れた目元で微笑んだ。冷房の効いた病院の玄関を出ると、残り少ない夏のムワッとした暑さに眩暈がした。
「乗って良いの?」
「良いよ」
井浦和寿は車の助手席のドアを開けた。助手席にはいつも奈央が座っていた。彼が運転する車の助手席に座ると、古びた革シートの匂いと窓の外の夕暮れの街並みが、朋美に新しい始まりを感じさせた。
「会社のみんなに見られちゃうよ?」
「もう、良いんだよ」
これまで彼を覆っていた鬱々とした表情は消えていた。2人が出会った新緑の季節のように眩しかった。朋美は真っ赤な薔薇を手に幸せを噛み締めた。ただ、マンションが近付くにつれ、朋美の心がざわついた。奈央の勝ち誇った笑みが脳裏をよぎり、彼女が本当に北海道に帰るのか、井浦が思いつきで決めただけではないのか、不安が胸を締め付けた。