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白い涙

 朋美は床に転がった玉ねぎを拾った。ポテトチップスの袋の中で砕けた音が聞こえた。冷蔵庫に買ってきたものを片付けていると、玄関のドアが閉まる音が聞こえた。夜風がオレンジのカーテンを大きく揺らした。


 お帰りなさいと声をかけたが返事がなかった。その横顔は、奈央の部屋を出た直後の怒りをまだ引きずっているようだった。だが、どこか決意に満ちた暗い光が宿っていた。部屋の灯りは彼を白く浮かび上がらせ、疲れた目尻のシワを深くした。


 朋美は戸惑いながら冷蔵庫の扉を開け、井浦和寿の重い空気を振り払うように肉のパックを取り出すと、『ステーキか青椒肉絲どちらにする?』と平静を装うように精一杯の笑顔で尋ねた。井浦和寿は無言でソファーにどっかりと座った。その大きな背中は重苦しい責任を背負っていた。朋美は嫌な予感がした。彼は額に手をやると深い溜め息をついた。


「朋美さん、ちょっと座って下さい」


 朋美はシンクの縁を震える指で握ると首を横に振った。奈央の部屋で聞いた怒鳴り声が、頭の中で響き続けた。『もし和寿さんが奈央さんを選んだら』鼓動の音がうるさく、耳が水の中にいるようにぼやけた。


「朋美さん」

「い、いや」


 振り返った井浦和寿の表情は苦悶に歪み、朋美の脚は震えた。ガラス窓を揺らす風が朋美の不安を煽った。


「座って下さい」

「いや」

「朋美さん、座って下さい」


 井浦和寿の語尾は強く、朋美は渋々頷くとソファに腰掛けた彼の足元に崩れ落ちた。見上げたその表情は厳しく、眉間にシワを寄せ唇を強く噛んでいた。彼は搾り出すような低い声でゆっくりとその言葉を口にした。


「離婚して下さい」


 朋美はソファの肘置きに縋り付くと必死になって叫んだ。


「嫌!」

「別れて下さい」


 朋美は彼の強く瞑った目を凝視した。それは揺るがない意思の強さを感じさせた。


「どうして!」

「俺は姉さんを選んだんです」


 朋美は目を見開いた。井浦和寿の声は震え、彼女から目を逸らした。


「嫌!好きだって言ったよね!」


 すべてが崩れてゆく脱力感が朋美を襲った。ツツジの花が咲く季節、確かに愛していると一生大切にしますと言ってくれた。


「姉さんがいなければ、朋美さんを愛しています」

「捨てないで!」


 ベランダの物干し竿でバスタオルがはためく音だけが、静まり返った部屋に響いた。オレンジのカーテンが夜風に揺れ、薄暗い蛍光灯が井浦の苦悶の表情を冷たく照らしていた。


「姉さんには恩があるんです!あなたとは違うんです」


 奈央の勝ち誇った笑みが脳裏をよぎった。


「違うって」

「すみません、離婚して下さい」


 井浦和寿は俯いたまま言葉を失った。


「・・・・・」


 朋美は無言で立ち上がるとエプロンを着けてキッチンに立った。冷蔵庫を開けて肉のパックと玉ねぎを取り出した。玉ねぎの皮を剥いていると涙がまな板の上に落ちた。フライパンの中で肉が焦げるにおいがした。食べるかと井浦和寿に尋ねたが、今夜はもう寝ますと彼は目線を逸らしたまま寝室へ入って行った。朋美は2人分の野菜炒めをフライパンから皿に移すとひとりで食べた。ひとりで食べる野菜炒めは味がしなかった。


 これまで張り詰めていた糸が切れ、心の中に空洞が出来た。朋美は意思のないロボットのように皿を洗い、フライパンを片付けた。シャワーを浴びていると嗚咽が漏れ、浴室が絶望で満たされた。寝室を覗くと井浦和寿が寝息を立てていた。


 朋美はテーブルに置いてあった白い袋から薬袋を取り出した。震える指で白い粒を小皿に落とすと、まるで涙のように光った。


「おやすみなさい」


 彼女は井浦和寿に口付けると、寝息を聞きながら静かに瞼を閉じた。

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